春の陽射しがそろりと夏の色を帯びる。引いては忍び寄る梅雨の気配に地を這う風もじとりと重い。そういう空気は蟻も入らぬ僅かな隙からすら忍び寄るものである。当然大谷の部屋も例外でなく、陽の当たらよう設えられた其処はむしろ余所より顕著であると云える。だから珍しく―一足早い葦簀などはあった上で―大谷の部屋の戸は大きく開け放たれていた。大谷の部屋から瘴気が這い出ると思うのか、小姓も下がらせてしまえば常日頃よりも一層人の往来など失せる。大谷に宛がわれた部屋の一帯はまるで大谷一人を残したかのように静まっている。簾の隙間から細く陽が落ちて、薄く舞い上がる埃が微かにきらめく。視線をうろうろさせて出所を窺えば案の定、大谷の部屋にあちらこちらと積み上げられたあらゆる本の山だった。だからと言って片付けようかとか、そういう気にはならぬのである。大谷は存外、身の周りのことに関してずぼらな性質であった。簾の細やかな隙間から細く落ちる陽をゆるゆると浴びながら大谷はまどろんだ。陽に当たりすぎれば膚がぴりぴりと引き攣ってならぬが、当たらぬとなるとまた好くない。体が凝る感がするのだ。どうにも人らしい。

 大谷が敦賀より上ってきたのはまだ冬の足跡残る、初春の頃である。長久手の後しばらく敦賀にて療養―というにはあまりに茶飯事であったが―に至った大谷は大坂へとこまめにつかいを遣りもしたが、遣いの報告を聞くたびに顔を出す三成の名に、大谷はさても潮時かと腰を上げた。返事を書くよりはやく届く文だとてそうだ――元より三成はそこそこに短気だ。よくも保ったものだと褒めてやるべきかもしれなかった。大坂へ行けばそれこそあの銀色の影を見ぬ日は無いだろうとも思った。事実これまでがそうであった。だが現在大谷は一人でいる。傍に在れば一日と置かず大谷を訪ねる三成がとうとう昨日は影さえ見なかった。自惚れていたつもりはない。現実に三成は大谷を無二の寄る辺と―それは太閤や賢人とまた違う形として―見ている節がある。そのことは大谷のみならず周知であるから、現状は古参の者であるほどに意外なことであろう。しかし、しかしながら当の大谷はそのことをやけに冷静に受け止めたもので、大谷の気に入りの小姓などは敏いから触れこそせぬものの大谷の奇妙な上機嫌に気付いているらしい。大谷は上機嫌だった。

 大坂に登城した大谷を驚かせたのは、三成の傍にいわゆるところの友人――というものがいたことである。気の置けない友人というにはあまりにぶっきらぼうな三成の態度ではあったがそもそも三成は素直な男である。その友人―徳川家康と云う―の明け透けな好意に疲弊してこそすれ疎んではいないように思える。そうと思ったのは大谷だけらしく、当の本人でさえ「あれは煩わしい」と大谷に漏らしたがそうではなかろうと大谷は心中で呟いた。あれはかつて三成の傍に居たことのない種類の人間だ。どこまで本心かは未だ測り兼ねるものの、あけすけな好意を晒す人間は三成にとて未知なのだ。三成は認めようとしないであろうが、それは間違いなく警戒とか、恐怖とかの類いだ。知らぬものが恐ろしいと疲弊する三成は、幼子然として大谷の目を楽しませた。しかし、どうやらそうと思ったのは大谷のみらしく、誰もが徳川に三成と友好―徳川が言うところの絆―を築こうなどというのは無駄だと説いたそうだ。対し徳川も徳川で、あれはいい男だ、などと返したらしいが、なんとも。大谷が徳川と三成がともにいるのを見かけたのは僅かで、それも三成は大谷を見つければすぐさまに寄ってくるものだからこの二人が築くところの絆とやらに詳しいわけではないが、確かに三成は徳川という男を多分に厭うているらしい。それも果たしてどうであろうかと、大谷あたりは思うのだが。

「大谷様」
「何ぞ」
「石田三成様が」
「さようか。通せ」
「はっ」

 簾の向こうの影が慌ただしく去っていくのに、大谷は瞼を上げて欠伸を噛み殺した。葦簀から差し込む陽の影を見れば中天を少々過ぎたころである。普段を鑑みればいささか、遅すぎると言ってもよいかも知れないくらいの刻限であった。ばらりと影が歪む。無造作に持ち上げられた葦簀の下から顔を覗かせて、三成は胡乱に葦簀を見て鼻先に皺を寄せた。邪魔くさそうに葦簀を払う仕草を見るに、この男はまたも案内の小姓を置いて来たらしい。知っているから良いというものでもあるまいにとも思いながら大谷は別段三成を窘めることもしなかった。

「今日は来たな」
「済まない」
「勘違いするな。われはぬしの来訪のないことを喜ばしく思うて居る」
「なに?」

 三成の眉尻が跳ね上がる。元々の不機嫌に拍車を掛けて、切れ長の瞳が剣呑に光る。

「私が煩わしいのか」
「そうとは言わぬ。だがぬしがわれの所に来ぬならば十中八九、徳川と居ろうに」
「徳川」

 今度三成はぐしゃりと顔を歪める。やはり今日とても徳川に振り回されていたらしく、疲弊の色を濃く滲ませて三成は大谷の正面に座り込む。長々と吐き出される溜息は三成らしくもなく、大谷は思わずその秀でた頭を指先で擽る様に撫でた。するとあっさり瓦解したしゃんと伸びた三成の背筋はすっかり弛緩して額を大谷の肩に押し付けた。触れるなと言っても聞かぬこの男は理で諭しても無為なのだが情で諭すというのも大谷の気に喰わぬ。そもそも情で絆すにもこの男は頑固で一途なものだからますますもって張り付いて離れないであろうことは想像に易い。ゆえに、ゆえに大谷は徳川の存在を喜ばしく思うのだ。そうでもなくば、大谷だとてあの類いの人間など見たくもない。

「あれは、煩わしい」

 溜息を漏らすように三成はつい先日のように溢した。まことに参ってしまっているらしく、三成の指はふらふらと彷徨った挙句に幼子の所作で大谷の袖を抓んだ。大谷は強いて甘たるく囁いた。

「好い、それは好いことなのだぞ三成」
「何故だ」
「あれは眩しかろう」
「ああ」
「それが好い」
「何故だ」
「ぬしはあちらの人間よ。現に、ぬしはわれには眩しい」
「そう、なのか」
「応よ」

 三成はしばらく黙りこんだ後、脚を崩して大谷の膝に雪崩れ込む。その拍子にいささか乱れた銀色の髪を指先で整えてやりながら大谷は続けた。大谷が包帯を緩めぬ指先で触れる銀色の髪は昼下がりの柔らかな光を受けて複雑にきらめく。

「ぬしはこのような暗いところに在る人間ではないのよ。これ以上は、そうよな、われの目もすっかり潰れてしまおうよ」
「そうなのか」
「うむ」

 三成は目を伏せて、大谷の手を取った。手慰むような仕草に大谷もまた預けきって三成の好きに任せた。

「私の所為で貴様が盲になるのか」
「そうよなァ」
「それは」

 そこで、三成は珍しくも言い淀んで、大谷の掌の未だ柔らかいところを押してみたりなどした。大谷は待った。三成は浅葱色の瞳はなにも知らぬ童とおんなじ色をしている。これがいかぬのだと、大谷はその視線がこちらを向いた折にいつも思う。

「それは、いかぬことか」

 いかぬことか。大谷が盲になっても構わないのではないかと三成は尋ねた。悪意もなにもなくただ不思議がって三成は大谷に尋ねた。なんとなく、それは大谷の思った通りの三成の姿だった。

「貴様はそうなっても私の元を離れはせぬだろう」
「そうさなァ……」

 そのまま大谷の指を食もうとするのを避けて、大谷はその額を軽く弾いた。三成は不服そうな顔をするがまた飽きもせずに大谷の指先を捕らえて遊ばせる。

「そうかもなァ……」

 などと漏らせば三成は満足そうに頬を僅かに上げた。あるかなしかの笑みに、大谷はまいったと視線を上げた。どうも、この男を甘やかして仕舞うのはどういうことであろう。大谷は首を捻って三成の髪を指先に巻きつけたりなどした。はー。きもちよさげに目を細める三成の鼻先を抓めば、ぱっとその双眸を見開くさまが、面白い。








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