先達て大坂に登城した徳川家康は大谷の邸を訪ねていた。ひとつ前を行く小姓の背ばかりを見るのにも飽いて、徳川はぐるりと首を巡らす。庭木の青葉が日の下で艶めいて在る。梢がざわと鳴って瞬き、徳川の袴の裾がはためいた。大谷の庭はよくも風が通る。三河の居城が抱える庭も豪奢であるかと言えば――少なくとも大坂城と比べれば――そうでもないのだが、それにしたところで。なんというか、この庭はまこと色気というものに掛ける。言ってしまえば閑散としている風なのだ。徳川もどちらかと言えば朴念仁のたぐいではあるが、花を見れば美しいと思うくらいのこころはあるのだ。強いて、そう、無理矢理に言うならば機能美に終始している。そこに主人の思念は介在していない。徳川は思わずうむ、と唸った。その声に小姓が家康を振り返ったようであったが、わずかに首を巡らせたきりで、徳川の意識が自身に向いていないと判るとなると強いて声を掛けることもしなかった。それに今度徳川は視線を遣った。視線だけだ。だけれど小姓は今度「如何なさいましたか」と尋ねた。そこでようやく徳川は、邸に在って当然の、大谷の影を見た。

「いや、大したことではない」

 自然と止めてしまっていた足を滑らすと、小姓は重ねて尋ねることもなく、また黙って徳川の先導を務めた。はて、今は如何な季節だったかなと徳川は考えた。



 大谷の自室のすぐ隣に設えられた質素な成りの客間に、徳川と大谷は向き合って居た。茶こそ出されたが決して歓迎してくれているという風情などは無く、だけれど徳川はさしてそれを気に留めもしなかった。徳川のそもそも気質というのもあろうが、徳川は大谷とそれなりの交友を重ねている。少なくとも徳川はそのつもりである。だから、小姓が下がってから出された茶を二口ほど啜った。茶請けは当然無い。

「して、何用か」
「なに、大坂に出るのも久方ぶりだから友人を訪ねるくらいはしておこうと思っただけだ」
「友人」

 大谷はひゅうと喉を鳴らした。笑ったらしい。頭巾と口布に顔の殆どは覆い隠されているが僅かに覗く双眸は意地悪く歪んで居るので、薄い口唇もまたいびつな弧を描いているに違いなかった。とにかく悪意を塗り込めた笑みと言うほかない。大谷は徳川が美しいと思う言葉をとかく嫌うのだ。どうも徳川には解せないことだがそうとも言うなら仕方ない。徳川が気にも留めぬ様子で――事実そうなのだが――「具合はどうだ」と尋ねると大谷は眉をしかめた。

「ぬしはまことつまらぬ」
「それはすまない」
「厭味か何かか」
「そんなつもりは」
「知っておるわ。ぬしの、そういう所が一等鬱陶しい」

 それで、体調はと重ねて尋ねると大谷はいよいよ徳川から視線を逸らして、徳川にも明瞭に聞こえる溜息をこぼした。ひらりと振られた指先は犬をあしらう其れに似ている。

「手足は千切れんばかりに痛むわ頸は重く頭は弾けんばかりよ」
「――」
「先日は此処のな、肉が腐り落ちた」
「刑部」
「景気の好い面よなァ、徳川」

 大谷は下瞼をくっと上げて目を細めた。随分と上機嫌に徐ろな仕種で茶を取り上げると湯気さえ失せた其れで口を湿らすでもなく手の内で転がした。徳川が、指先でも冷えているのかもしれないと思い至ったのは大谷は再度口を開いたその時だった。

「昨今は、そうともなればあれやこれやと喧しいのが居遣る」
 徳川は思わずきっちりと包帯で覆われたその指先に落としていた視線を大谷の面に向けた。しかしその双眸もまた落とされるばかりで徳川には向けられない。徳川は僅かばかり逡巡してから、「三成か」と言った。尋ねる体でこそあれ、その実徳川は自身の言にあるとなしの確信があった。大谷は、ふいとその異彩の瞳で徳川を見た。

「なんぞ――風が渡るも存外疾い」
「いや、儂は先日の登城の際に」
「見たか」
「ああ…うむ」

 そうと尋ねられると途端、何やら見てはならないものだった気がしてきてならず、思わず徳川は唸りを上げた。果たしてそうであったろうかと思えばそのようには思えない。徳川は少し乾いた口唇を舐めた。そうだ、その際にはそのような気などしなかったのだ。大坂城の庭には朱色が見事な椛の木が在る。渡殿に吹き込む紅葉に、ぴったり寄り添う二人はなんと言おうか、素直に睦まじく思われたのだ。友愛であると思った。其れは徳川の好むところの絆で、すなわち大谷が厭うところの絆に相違ない。しかし脚の好くない大谷と、その大谷に痩躯を添わせて身を献ずる三成はまこと信頼を寄せ合う友にしか見えなかった。徳川でさえ思わずそれに目を瞠らずにおれなかったのだから、大谷と交友の無い者達の驚嘆が如何許りかは想像に難くない。三成は斬れ過ぎるきらいのあるものの、とにかく真っ直ぐな男だ。大谷のような男と居るのはそれだけでいびつなようにしか思われないのに、なんと不思議なものであった。しかし、そうと思う半面で徳川はぐうと唸る。大谷と三成に違和感があったかと言えば、無いのだ。しかし、あれだけ近くに在っても大谷は自身を欠片たりとも晒していなかった。そのことに気付いたのは果たして幾らいるのだろうか。果たして三成は、と徳川は考えざるを得ない。

「刑部は、三成をどう思っているのだ」
「うん?」
「ああ、いや、なんだ」
「落ち着かぬな徳川」
「ううむ、そう、だな」

 はーっ、と息を吐けば軽くなる肺に自身の余裕の無さが知れた。どうにもいたたまれない気になって茶を煽れば無情にも舌先を湿らす程度のそれに、徳川は何やら後には引けぬ気になってしまって、思いがけず「あれは、」と口を衝いて出た。

「あれは三成の為にならないのではないか」
「ほう」

 大谷は厭らしく目を眇めた。無暗に人をからかうのは大谷の悪癖のひとつであると徳川は思って、そこそこに距離を置けていたと思っていたが、しかし今日は何時に無く刺さるものだ。この男は本当にむつかしくてならない。

「勘違いして居るなら言っておくがな徳川、あれはわれが強いていることではない」
「だが強いて拒絶などしているわけでもあるまい」

 ひっ、と引き攣った笑い声と共に大谷は僅かに顎を上げた。異彩の目が徳川を可笑しげに見つめる。しかしこの男が笑って居るのが徳川のみでないことは明らかであった。

「そのようなことをしては哀れであろう」

 徳川殿は非道い、ヒドイと大谷は態とらしく声を震わせた。徳川はきゅっと唇を噛んだ。

「あれは存外、かわいいものよな。優しくして遣ればそれだけ懐きよる」
「三成は犬猫ではない」
「似たようなものよ」

 すっ、と細められた双眸が徳川を射抜く。首筋を撫ぜた風がいやに冷たく感じられた。

「見目が麗しく、可愛げがあるほどに阿呆よ」

 かたり、と襖が揺れた。徳川がぱっと首を巡らせたその後に付いて大谷もまた同様に襖を見る。覗いたのが日に煌めく銀色の髪で徳川は思わず息を呑んだ。反して大谷は予期していたとばかりに甘い声で三成を迎えた。

「三成か、如何した」
「半兵衛様から貴様にと本を頂いた。頼まれていたものだと」
「嗚呼さようか。しかし然様なものは誰ぞに任せれば良かったろうに」
「構わん。どうせこちらに寄る心算だった」
「仕様の無い」

 浅葱の切れ長の瞳が徳川に向けて滑るのに、徳川は咄嗟、いつもの如くに声を掛けるのも忘れた。今の徳川はあまりに無防備であった。視界の端で、大谷があるかなしか、けれど確かに徳川を哂った。

「何故貴様が此処に居る」
「ああ、いや」
「大坂に出向いたのも久々ゆえに挨拶だそうだ。斯様な所に赴こうとは、徳川も存外暇と見えようなァ」
「刑部」
「あいあい」

 大谷は三成をあしらう如くにひらりと指先を振った。既視感にすら眩暈を覚えて、よくもわからない渇きが徳川を襲った。無意識に湯呑に触れてから、その軽さに空であったことを思い出す。徳川が視線を落としたと同時に、目敏く三成もまたそれを見て腰を上げた。大谷と徳川がそれを目で追うと、三成は「小姓を呼んでくる」と言ってさっさと裾を翻してしまった。殆ど足音もさせぬ三成はその気性も相俟って随分と鋭利な印象を与える。

「そら見たか徳川」

 向こうに消えた裾の影を追ってぼんやりとしていた徳川に、大谷は笑いかけた。ぱっと真っ直ぐに見てしまった大谷の目は弧を描いている。

「三成は愛らしかろ」

 ひい、と翻った喉の尖りが震えている。大谷は小刻みに揺れる肩を丸めて両の手で顔を覆った。ひいひいと掠れた声はようよう徳川の耳朶を刺す。







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