陽のある時分は幾らか短くなったものの、未だ尚暑気が膚を這う秋の頃である。とは言え薄明には蜩、夜ともなれば松虫が鳴く。秋である。しかし三成はじ、と汗ばむ首筋を重たく思って尻の吊り上がった眉を険しく寄せた。三成が脚を出す度にぎしぎしという床もまた耳に五月蠅い。屋敷の中でも主人たる大谷の部屋に通じる廊下は何処に増して良く鳴るものだから、以前に修繕を提言したが大谷は兵法書を読む片手間に

「態とよ」

 と応えた。そうして異彩の目を三成に向け、厭味たらしい笑みを乗せて続けた。

「われは脚が利かぬゆえに」

 対し三成は

「耳喧しい」

 と言った。まるで拗ねた子供の其れに大谷は三成を甘やかす口振りで「さようか」と頷いたが仕様は未だ変えられる気配も無く、だからと言って三成も重ねて口にはしなかった。ただ、それ以来三成はこの床板をもう少ししたたかに踏み締めるようになった。さても三成が訪ねる度に大谷はにやにやと笑うのである。

 閑話休題。大谷の部屋を訪ねた三成は部屋の主が促す声に、相手には見えぬと知りながら小さく顎を引き、戸に手を掛けた。僅かの力で済むそれは随分と手入れが行き届いているように見受けられた。最小限の隙間に痩躯を滑り込ませるようにし、そうして間髪入れずして後ろ手にそれを閉める。一瞬、三成の背から差し込んだ光の筋も自然失せた。しかしやわく陽を取り入れる障子窓から夕ぼらけが差し込んで部屋をほの赤く仕立てている。しかしそろそろと星も見えだす頃である。ただでさえ陽を入れぬように誂えられた部屋だというのに明かりも燈さぬからいやに薄暗い。存外ずぼらな質の大谷が床からぞろりと積み上げた本の山から、三成の一挙手一投足に応じて薄く埃が舞い上がる。三成は勿論眉をしかめた。

「刑部、いい加減に片付けろ。見苦しい」
「やれ手厳し。われとすればこちらの方が幾分も便利なのだが」
「手入れが行き届いていない。貴様の体に障る」
「あいあい。まったく、しばらくぶりに見れば随分と口喧しくなりよった」

 大谷は頭巾から僅かに覗くばかりの目をにんまりと細めて態とらしく肩を揺らした。大谷は生活様式に関して三成よりか遥かに頑固でずぼらである。頑固さという意味では三成も確かに念が入っているがしかし三成はそもそもものを持たぬからずぼらになりようもない。三成のそれは無関心という類いのそれである。対して大谷はと言えば三成に反して物持ちの過ぎる節がある。不要を溜め込む、或いは捨てられぬ訳でもなくむしろそういったものには淡白なたちなのだがなにせ大谷は蔵書が多い。軍司には要るものなのであろうし勿論三成も大谷の知の及ぶところに素直に感嘆もする。が、これは好くない。三成は眉間の皺をいっそう深くした。再三再四と先のような遣り取りをしもしたがなんら変わる様子もない。そうとは見えぬがこの男、余程の意固地である。あと少し陽が落ちたら戸を開け放つつもりで三成はようやく腰を下ろす。きっと大谷はそれを咎めぬと思うまでもなく三成は知っていた。

 ふと、軟膏と香、僅かに交ざる黴臭さの中に慣れぬにおいを嗅ぎ付けて三成は鼻先に僅かに皺を寄せた。酒気である。酒をあまり好まぬ三成は致し方なしの席でもなくば口にはせず、例え呑んだとてもさして酔わぬたちであるからなにが佳いのかも理解できない。酒を知らぬことは三成の朴念仁に拍車を掛けた。対して大谷はと云えば大谷もまた酒を好むたちではない。三成のようにうわばみだというわけではないのであろうが、膚の弱い大谷は杯を三つも空ければ痒がって仕様がない。頭が回らなくなるよりも早いそれに大谷は満足に酒を呑めたためしがないのである。だというのに通い慣れたこの部屋に漂う馴染みのない酒気はなんであろうかと三成は己の疑問をおもてに乗せた。兎角三成は素直な男なのである。だから勿論

「酒があるのか」

 と尋ねた。

「うむ」

 と大谷も詐らずに頷いたがむず痒さに落ち着きなくいる様子ではなかったから呑んだと言う訳でなく本当にただあるだけらしかった。肩を捻ってなにやら山の陰で腕をごそごそさせると小さな卓がひとつ出で来たのには三成も眉尻を上げた。銚子がひとつと、盃がひとつ。盃には山吹の菊が添えられて居る。堆い山々が三成の視野から器用にそれを隠していたのだが、今すっかりと目前に置かれたそれは一層を増して酒のにおいを濃密せしめる。大谷の部屋でこのようなものを目にしたのはこれが初めてである三成には、なんのことはないそれがいやに奇ッ怪に映った。

「呑んだのか」
「否」
「客でもあるのか」
「否。われの部屋を訪ね、ましてや盃を交わそうなどという阿呆は居るまいよ」
「私が居る」
「ぬしは馬鹿であろ」

 ひひっ、と引き攣れた声はいつもに比べ幾分高く、大谷の上機嫌が窺い知れた。大谷の口ぶりに三成はむすりと眼を眇たが、大谷は早々とその視線を落として銚子の頚を摘み上げた。傾ければ開けた口から色のない酒がもんどりを打って盃を満たす。水面がうねりを上げる。小さな菊が押し流されては不規則に巡るのに咄嗟目を奪われた。再度銚子が頚を上げると自然納まり返る水面に、菊もゆるりと大きく旋回したきり、あるかなしか漂うばかりだ。鼻先をくすぐる酒の匂は銚子からこぼれ落ちたものから想うより余程柔らかであった。

「これは半兵衛様から戴いたものよ」
「半兵衛様が?」
「応よ」

 之は菊酒と云う、と大谷は続けた。三成が頂く主君の、最も親しいところに在る賢者はこの友人の才を認めなにかと目を掛けて下さる。そのことを我がことの如くに誇らしく思う三成は、疎ましく思ったことさえ忘れて切れ長の眼を幼子の如くに明るくした。

「そうか、今日は重陽か」
「やはり忘れておったな」

 くっ、と大谷が喉を鳴らす。どことなしに甘さを含んだ視線は三成以外に向けられることはないし、勿論大谷にそのような自覚はない。三成もまたその当然を自然と受け止めて、強いて指摘しようなどと思ったことさえなかった。大谷はすっと盃を掲げた。打ち鳴らす相手の無い盃は惨めとさえ映った。

「さて、三成。飲め」
「何故だ。それは半兵衛様が貴様に贈ったものだ。貴様が飲むべきものだろう」
「重陽の菊は魔を払い長寿を願うものよ」
「なれば尚更だ」
「半兵衛様がそれをぬしに分け与えたからとて何ぞ言い立てる狭量などでないことを、ぬしはようくわかっておろ?」
「そんなことは当然だ」

 三成はひとつ鼻を鳴らす。当然と主君に連なるものを誇るこの男は犬かなにかのように思えて大谷は面当ての布の下でひそかに口端を吊り上げた。

「だが貴様が飲まねば半兵衛様の御心が無為となる」
「われも飲むとも」
「ならば貴様から飲めばいい」
「阿呆め、それがならぬと言っているのだ」
「何故だ」

 三成の愚直な瞳に大谷は溜息を隠し切れない。腕が痺れるととうとう盃を卓に戻して、大谷は仕様のないという体で肩を竦めた。それがさっぱり解らぬのがこの三成と言う男で、童子と同じ仕種でその秀でた頭を傾げて、重ねて「何故だ」と尋ねる。大凡、例え幾ら頓着しなかろうとも大谷の身なりを見れば一目で解ることを、この三成という男は出会ってかれこれ経つものを未だにろくすっぽ理解できぬでいる。それこそ大谷の理解の範疇を越えているのだが、それがまた三成の理解に及ばぬらしいといった具合で、出会ってから今日まで堂々巡りを続ける二人である。

 ただし三成もただの阿呆ではない。理解は出来ぬが、いい加減に大谷が何を拒んでいるのかぐらいは分かっている。それがとても、とてもとても不服な三成はいっそう眉をしかめながらも、しかし珍しいことに妥協してみせた。三成のその不意を打った行動に、大谷は間抜けにも

「あ」

とだけしか漏らせさえしなかった。ぺろりと、盃に浮いていた菊を頬張った三成はどことなしに誇らしげですらあった。あまつさえ

「これなら構わないだろう」

 とまで言うのだから大谷は言葉を失くす。

「童子よりも非道い」

 と思わないでもなかったが、そうなどと言えば自身の気が済むまで詰問を繰り返す三成の姿が手に取るようであったからぐっと飲み込む。そのような具合で大谷が言葉を失くしている間にも、尖った喉仏が重たげに上下して、大谷は思わず長々と息を溢れさせてまで呆れ返った。

 まさか旨くなどあるまいにと思えばなるほどそうらしく、渋そうな顔をしている三成に黙って自室に常備している水差しを差し出せば酒とは打って変わってあっさり受け取る。水を煽る喉が上下するが、やはり胃の腑には違和があるらしく眉間の皺が薄く残る。大谷はもう一度溜息を吐いた。薬師を呼ばねば。何せ三成は本当に腹が弱い。

「この阿呆たれめ」
「なにがだ」

 大谷は思わず口を押さえた。






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