時折、思い出したように呻くその声すらも細い。黒田は痩せぎすの体に差し延べる手も無く柱を背に、その巨躯を縮こませた。さして広くもない部屋から往ぬることも幾度か考えぬでもなかったが、如何せんこの腰は身体相応に重たくてならない。恐らくこの男は黒田が傍らに居り、のたうつ様をじっと見ているなど堪え難く思っている筈だ。勿論黒田だとて楽しくして居る訳でも無い。そうとも思えば益々以って小生は何をしているのやら。普段の意趣晴らし、だとか考えたりもしたが病人に鞭打つほど小生はこの男のように性悪でないし、ましてやのたうつ様を見てあくどく笑ってやる趣味も無い。期を失った――多分こんなとこか。期を逃したならばこれは小生の負け戦である。だからと言って大谷が勝ったのかと言えばそういうことでもないので、これは黒田の一人相撲に相違ない。
 なにぞから身を守るように丸めた背が乾いた咳に合わせて跳ねるのを摩ってやることもしない。非情だとかでなく、大谷自身それを嫌うのだからしようもない。程なく咳が尻すぼみになり、ひゅうと微かに聞こえるか聞こえないかくらいになった頃、ようやく黒田はのったりと口を開いた。

「水でも要るか」

 敷布に埋められた額が小さく揺れた。縦に振ったか横に振ったかなどは定かで無いが、黒田が冷や水の入った鉄瓶に手を伸ばすことはない。要るとなれば指先をうごめかせてのろのろと頭をもたげるのである。すっかり疲弊したらしい男はうずくまったままそれきりぴくりともしない。黒田はのそりと膝を立てると重たげに身を起こしてその傍らに寄る。弛緩した薄っぺらい肩に厚手の羽織りを引き上げてやると、なにやら不格好な蝸牛のような様相である。ことさら不用意なこともせず、大谷から離していた薬や水差しなどが乗った盆を再び枕元に寄せて黒田もまた腰を落ち着ける。

「なんか欲しいもんはあるか」

 敷布に埋もれたままぼそぼそと喋る声はそもそもが掠れていて大層聞き取り難くある。しかしそれに苦言を呈するでもなくその身を傾げて耳を寄せ、言葉を拾い上げてはしばし噛み砕く。慣れた様子で黒田が耳を寄せるのをきぬ擦れで知り、一息漏らして大谷は薄く口を開く。乾いた喉は張り付く、痰の絡む咽はごろりと鳴るし舌の根は引き攣れてびりりと痛い。今の大谷は赤子より口下手だ。しかしことさら聞いて貰おうという努力もなく吐き出されるのは殆ど吐息だ。今の大谷は聞き取れなくていいと思うくらいには投げやりだが、黒田が聞き損じる筈も無いとも思っている。それはあまりに自然なことだった。

「健やかな体」

 舌が働かない以上に、また脳も働かぬ。言葉遊びには粗雑だが、本心というにも余りにお粗末だ。だがぼろりと漏れたそれこそ本音だったのかもしれないが、本気などではなかった。気まぐれといえば、気まぐれである。そういう意味ではこれはこれで言葉遊びには違いない。黒田は如何な反応をするのかとちらりと思わなかったわけではないのだ。憐れむような面でもしたら捨ててやろうと思った。それは本気だった。額をずらして横目に黒田を見遣る。長い前髪が目許を覆うが、その下など想像に難くない。さて如何に、などと思うか思わないか、黒田はゆらりと身を起こすと徐に諸手を翼のように広げて見せた。

「この体ならくれてやるさ」

 ぱちり、と大谷が異彩の眼を瞬かせると黒田は下品に口角を上げて見せた。がき臭い笑い方をする男である。

「ぬしは生粋の阿呆か」
「お前さんに言われたかないね」

 で、いるのかい、いらないのかいと笑う黒田にそれこそ大谷は倦怠感をまるごと詰め込んだ息を深々とこぼした。

「いらぬ、いらぬわ。そのような図体、邪魔くさくてしようがない」
「そうかい」
「そんなものより梨が食いたい、梨」

 そう吐き捨てると再び大谷は額を敷布に擦り寄せて臍を見つめるように丸くなる。しばらくはそのままで居るつもりらしい。体が冷えているのかと思って、黒田は頭の隅で足あぶりの手配などを考えつつ、鼻をひとつ鳴らした。

「今時分にそんなもんあるかよ」





110118/日記より