ひとつの行燈の明かり以外は開け放った障子から落ちる月明かりしかない部屋にはほんのりと陰が差す。時折入り込む風に行燈の火が揺れると陰もまた奇怪に揺れた。三成の斜向かいにて居る吉継の異彩の瞳が火のほの赤さを湛えて不思議に揺れる様に、三成はうっとりと吐息を零した。粋などには疎い三成の溢す其れ、恋に逸る乙女とは比べ物になりはしないが切れ長の瞳にはとろりと溢れる慕情に満ち満ちて居た。その視線に気付いてかそうではないか、障子戸向こうの月などを眺めていた吉継がふと三成に目を向け「いかがか」と尋ねた。三成は機嫌よさげに弛んだ異彩の瞳を見遣ってから睫毛を薄く落として、短く「好い」と応える。なんとはなしに杯に唇を寄せたが舌先を濡らすほども残っておらずにただ唇を湿らせた程度に過ぎなかった。

「さようか」

 斯く云う吉継もまた酒が入ってか、或いは月にでも酔ったか、ほんのりと細められたまなこには穏やかな悦びが窺えた。それを見れば三成の心もふわりとほころぶ。文化人とは掛け離れ朴念仁とさえ云われる三成であるがだからといって美醜に疎いわけではない。美しいものに恍惚と溜息を溢すことだとてあるし、醜いものに柳眉を顰めたりだとてする。ただそういう具合に三成を揺さ振るものが人とは違うのだと、そういうことを三成は多少なりとも知覚していたがしかしそれでいいとも思っている。三成は浅葱色の瞳を吉継の横顔に遣った。これを醜いなどというのを許す気になどはならないが、しかしその美しさを知るのは己のみでよいと思う。敬愛するべき主君、そしてまた同様に敬愛するその友である軍師に次ぐと謳われる悟性を、ただ身に負った病のみで虐げるなどは許しを請うことさえも許されぬ愚である。己が醜悪さを知らぬ輩にこの友の心が傷つけられるなど、あってはならない。
 だがしかしこの男の瞳や頬、心が綻ぶさまを知るのも視るのもは己ただ一人で善い。視せてなどやるものか、どこか薄暗い愉悦を抱えて三成は酒を口に含む。喉を滑り落ちたそれは冷たくあったが、過ぎたるところからかっと熱を帯びる。少々の火照りを感じて漏らした呼気にも酒気が混じる。しかし入れ替わりに肺腑を満たした空気の冷たさに肺がきりりと痛んだ。

「刑部」
「あい?」
「冷え込んできた。もう閉めるぞ」
「あれ、風情のないこと。斯様に見事な月よ、もちと楽しませやれ」
「ならん。貴様の体に障る」

 言うや否や腰を上げた三成が障子戸を閉める後ろで「ぬしはまことせっかちでならぬ」などと零すのを聞いた。それを鼻でひとつ、一笑に付す。しかし吉継もことさらに臍を曲げたりするでもなく、そのような三成の様子さえ愛でるかのように頬を上げた。それに眉を寄せたのは三成である。す、と膝をついてその痩躯を屈めると切れ長の瞳で吉継の目元を覗く。吉継は咄嗟に後退るように身じろいだが伸ばされた三成の手を避けることはなかった。諸手を頭巾の下へ滑らせ頬を包み込むと少々無骨ながら乱暴にはならぬ仕草でその面を上げさせた。ただひとつの行燈しかない部屋は薄暗い。褐色にくすんだ目元は窺い難く、三成は親指でそっと目元を擦った。くすぐったげに目を細める吉継の様は猫にも似る。そのような無邪気なさまに三成はゆったりとぬくまる胸を抱えて僅かに口端を震わせた。薄く開きかけた口唇を一度きゅっと窄める。次いでは内片手を頬から離して膝に揃えられて居た吉継の手を取った。包帯越しの指先を確かめるように二、三度握り直すのを、ぱちりと目を瞬かせて見ているだけの吉継を窺い、相当に酒気の回っていることを確認する。

「指先が冷え切っている」
「さようか? われは暑いくらいだが」
「酒のせいだろう。さっさと布団に包まれ」
「む、」

 なにごとか言ったかただ意味のない呻きか、どちらにせよ三成にその意図は読めない。そもそもさっさと吉継を布団に押し込むと決めた三成にとってすればどうであれ変わりはない、問答無用である。押し入れから布団を出し丁寧に敷くなど、小姓とさして変わらぬようなことをなんの躊躇いもなくする三成に、常ならば二言三言は投げかける吉継はやはりぼんやりと眺めるばかりで、三成の口から自然溜息が洩れるのも致し方ないというもの。敷布に厚手の着物を幾重にか重ねたところで三成はふとその足を廊下へ向かう襖に向けた所で吉継が「いずこへ」と尋ねた。

「小姓に足あぶりを用意させるだけだ。すぐ戻る」

 そうとだけ言ってさっさと行ってしまおうとする背にもゆるりとした調子で「やれ三成」と掛ける。三成はどれほど急いても吉継を無下にすることはない。この時ばかりが例外などではなく、「なんだ」と素直に首を巡らせた。

「既に月も傾き、草木もとっぷり寝入った頃。小姓らも起きておらぬであろうし、さりとて叩き起こすのも哀れよ、アワレ」
「それが小姓の仕事だ。哀れなどない」
「ぬしは酷い、ムゴイ」
「酷いものか」
「ま、ま。われは要らぬと言うておるのよ。察せ」

 途端不服そうな童の顔などをしてみせた三成があたら可笑しく思えてならず、吉継はひひ、と零した。

「では、」
「火鉢も要らぬぞ。これひとつで十二分」

 そう言って吉継が指先で撫ぜた鉢に赤々とする炭はない。つまりそのような類いはさっぱり要らぬと言われたのである。先回りされて柳眉をしかめる三成があたらおかしとばかりに吉継は羽織りの袖で口元を押さえる。僅かに覗く目許はにんまりと弧を描いた。三成はまったくもって不機嫌そのままの顔で薄く開いた襖を黙って閉じるといささか乱暴に腰を下ろした。
 未だ吉継に暖をとらせることに思案を巡らしている様子の友を見て、吉継はゆるく首を傾けた。

「さようにわれの体が心配か」
「当然だ」

 ぴしゃりと弾くような口振りだが吉継は今更その程度に憤慨したりなどせぬし、そもそもしたことさえない。その無愛想で以て新たに敵など作ったりすればさても不器用な男よと思ったり思わなかったりするくらいである。

「ふむゥ…」

 などと漏らして傾けた頭をもう反対に転がす様はこの男らしくもない幼さを窺わせて三成の胸の内をくすぐった。さてそのような三成のこころ内など知りもしないであろう吉継は「なれば、」といささか回らぬ口を開いた。

「なればぬしが足あぶりの代わりになればよい」
「は、」
「あァ、火鉢でもよいが…火鉢は布団に入れぬよなァ」

 自身の言葉のなにぞが可笑しかったのか吉継はひひひ、と笑うが三成の方はさっぱり笑えない。馬鹿ではない頭はすぐさま答えを見出だすも吉継の言葉はぐるりぐるりと巡り続ける。指先足先がかっと熱くなるのをおくびにも出さず「馬鹿を言うな」と一蹴した。

「なにを馬鹿とな。ぬしが冷やすな、温まれなどと言うたのであろ」
「――」

 三成が続く言葉を見失っている内、吉継は諸手を畳に付き膝を揃えたまま這うようにして床へと向かう。咄嗟に三成は手を伸べ掛けるが、寸ででぐっと引っ込める。吉継は病のために気遣われ、日々の瑣事に迄手助けを必要とすることを厭う。その嫌悪や雪辱に裏付いた感情が三成に向くのみでも堪えられぬというのに、吉継はそれを瑣末にまで手助けを必要とした自身にまで向けるものだから、三成は吉継に対し必要以上の庇護を掛けぬことを自身に強いた。ゆえにただその背を見遣る。例え吉継がどれだけ酔ったとて、立てぬなり動けぬなり、或いは吉継が求めぬまでは三成はじっと黙した。
 床はさして遠くに延べられた訳ではない。程なく吉継はもぞりと掛け布に潜り込み床に身を据えると三成を呼ばうた。吉継をゆるりと追っていた三成である、応えた声も遠くない。三成を見上げる双眸は意地悪く細められている。

「さて三成、此方へ」

 ぽんぽんと自身の横にすっかり空けた隙間を叩いてみせ、その口は三成を促す。三成は眉をしかめた。思案を幾重にも巡らすが結局なにごとかを言うでもなくただ長々と溜息を漏らす。
 ずり、と膝を進め掛け布をめくれば吉継は喜色を浮かべた目を細めた。三成が身を収めれば吉継は待ってましたとばかりに肩まで掛け布を引き摺り上げる。掛け布は飽くまで一人用のそれである。三成の肩をすっぽり覆おうと落ち着かない吉継を長い両腕で抱え込んでやっと双方の肩も背もはみ出ない。しばらくはもぞもぞと身じろぎを繰り返していた吉継ではあったが収め所を見出したのかふうと瞼を落とした。三成の腕を枕に、額を胸に収める吉継の頭巾で覆われた頭部をじっと見つめる。幼いころも時たまこうして添い寝をしたこともあったがその頃はこうして触れあうこともなく、ただ隣り合って時々言葉を囁き交わすなどするのがせいぜいであった。すん、と小さく鼻を鳴らす。鼻腔をくすぐるのは部屋にも満ちている吉継の匂いである。痩せぎすの体を抱え込めば染みついた薬と香の匂いが一層色濃くなる。匂いの満ちた肺からじわりと体に熱が広がるのを知覚して、吉継の頭に額を押しつけた。三成が抱き寄せれば吉継もまた三成に擦り寄る。血の引いて冷たくなった足先を三成のそれに寄せ、少し瞼を上げてにやりと細めた。

「温めてくれるのであろ」

 くつくつ、と音もなく喉を震わせる吉継にゆるりと目を細めた。擦り寄る足先には脚を絡めて返す。頭巾から垂れる衣の下に薄く形だけを覗かせる耳に唇を寄せ「ああ」と応えた声は僅かに掠れた。低い体温でも抱え込めば十分にぬくく感じる。しかし足袋と包帯越しにさえ冷え切ったと感じる爪先に少々眉を顰めて脛を押し当てゆるりと擦る。ふと耳を澄ますと吉継の口許から微かに漏れる吐息が穏やかに繰り返されるのを聞き、傍目には、三成自身にすら解らぬほど薄く頬を緩めた。この友がこれほどに無防備な様を見せたことなどあったろうか。毎度毎度身の丈も弁えず我を失ってまで酒を入れる愚を犯すほどにこの友は浅はかではない。少なくとも三成はこのような吉継を見たことが無かった。他に知る者はいるのだろうか。思えば、唇が震え、微かに腕が強張った。瞼の奥がじりと焼ける。吉継を起こさぬように小さく身動いで、瞼を落とした。腹の内側を掻くなにがしかの衝動に眉を顰め深く息を吸えば肺に満ちるぬるい香りに指先などが重たくなるのを覚えた。安堵。甘い痺れに似たそれにふっ、と息を洩らせばささくれたこころ内は途端風の無い水面の如くに鎮まる。ぎょうぶ、声もなく舌先だけを揺らした。薄く瞼を上げてみるがいやに重たい。何時振りかなどと考えたか考えなかったか、三成が夢も見ぬほどに深く寝入ったのは確かに久方ぶりのことではあった。




 瞼を薄く押し上げる。しかし乾きを訴える眼に二度三度と瞬きを繰り返してから視線をゆるりと巡らす。見覚えはある、が自室ではない。三成が思考したのはほんの僅かで、すぐさま腕に抱え込んだ頭にゆるりと頬を寄せた。絡めた脚は解かれていたが少し滑らせれば爪先へ至るは容易い。幾重かの布越しに感じるそれが宵のような冷えを失くしていることに満足を覚え、吉継の頭をきつくしないよう抱える。

「刑部…」

 呼気と共に漏らした声にほんの僅か、吉継の体が強張る。ともすれば勘違い、或いは寝相のひとつとでも済ませそうなもの、しかし三成はそうとも思わず少し身を離してじっと吉継を見つめた。異彩の瞳は瞼に隠され、覗けない。そこに不自然な様子などはなかったが、考えを改めるほどに素直ならば労苦はない。いや、ある種三成は素直だった。愚直とも頑固とも言い改められる種類のそれである。

「刑部」
「……」
「刑部」
「……」

 三成の声色に怒りだとか焦燥だとかはない。この短気な男にしては珍しく、ただゆるやかに吉継を呼び続け、終いには米神だとか額だとか――吉継は膚に触れるのを拒むから眦辺りは勿論避けた――に唇を寄せてなおも呼ぶ。情人に囁くそれというよりは仔犬などが親を求め鳴くそれにこそ似ていたものの、吉継には大差ない。堪らずに身をほんの僅か引く。三成の腕に抱え込まれた身は満足に動かせもせず、更に三成は僅かに空いた隙すらすぐさまに詰め寄る。その三成がもぞりと身じろぐ。抱え込まれる具合から少々姿勢を変えたのだとは窺えたが、今更瞼を押し上げるには吉継の心のやわい部分はすっかり委縮してしまっていた。

「刑部、目を開けてくれ」
「……」
「頼む。貴様の顔が見たい」
「……」
「刑部」

 これ以上は堪らぬと小さく喉を引き攣らせる。それでもしばしの逡巡を重ね、ようやっと吉継が瞼を押し上げればよほど近くに切れ長の浅葱色が在って、思わず息を呑んだ。薄く開かれた唇が漏らした息に、三成がまたも呼ばうつもりであったことを知る。一度瞬きをした三成の双眸と視線を交わせば途端その眦がほころぶ。吉継は先より余程堪らない気になって三成との胸の間に腕を差し入れぐいぐいと押し遣ろうとする。その仕草に少しばかり拘束――三成にそのつもりはなくとも吉継には拷問のようでさえあった――を緩めたが解放されることはない。必死に瞼を落とし顔を逸らす吉継に狼狽したのは三成である。気を損ねただろうかとその面を覗きこもうとしても胸を押す腕に距離を詰められない。双方の膂力を比べれば吉継の抵抗など微々たるものである。だが三成は決してこれを詰められない。詰めようとさえ思わないのだ。

「刑部、」

 どうして良いかも解らずただ名を呼ばうばかりの三成に吉継はぐうう、と呻いた。滑稽だ、どうして男二人で陽も満足も上がらぬ内から、だとか考えないでもなかったが、吉継の頭は先程よりまともな思考を続けられぬほどに参っている。

「ゆる、許せ三成」

 絞り出すような言葉に三成はすぐさま柳眉を寄せた。許せ、許せ、と繰り返すばかりでなお三成を見ようとなどしない吉継に三成は先より強い調子で吉継を呼ぶ。

「すまぬ、勘弁してくりゃれ」
「何故だ。そもそも貴様は何を請うている」

 常と変らぬ調子で吉継を問い詰める三成をこれほどに恨めしく思ったことはない。息を詰めた拍子に喉の奥がごろりと鳴った。口を噤む吉継に三成もまた口こそ開かないだけでその瞳は詰問の色を湛えている。しばしの攻防、折れるのはいつも吉継である。これくらいは許せと胸中で呟き、そっと目を逸らした。

「昨夜は醜態を晒した上にぬしに迷惑まで掛けた。まっこと馬鹿をした。すまなんだ、忘れてくりゃれ」

 もう耐えきれぬと身を起こそうと身じろぐも三成の腕は緩まず、むしろ一層きつくなっているようにさえ思えた。

「断る」

 三成の胸に添えた吉継の腕を掴んだのは当然というか、三成である。吉継の背に回されていた内の片方はそうして外されたが未だ吉継は解放されない。むしろ先より余程言うだけ言って逃げるのさえ叶わなくなった。いやそもそも、此処は吉継の部屋ではあるのだが吉継にそのようなことを思う余裕などない。ただ今直ぐにでも三成の腕から逃れたいと思うばかりである。そのような吉継の心情など推し量るような三成ではない。勿論それは吉継も知っていたが、だからと言って受け入れられるというかと言えばそれとこれとは話が違う。三成は掴んだ吉継の腕を引き、包帯に包まれた手首の内側に口唇を寄せた。

「忘却などするものか」
「みつ、な」
「昨夜の貴様はまこと愛らしかった」
「う、ぐうう」
「忘れられる筈がない」

 そのようなことはどこぞの姫にでも言ってやれだとか他幾つか思い浮かばないでもなかったが口を突いて出るより早くぼろぼろと解けていく。恥ずかしげもなく、滅多に見せぬ微笑さえ晒す三成に首筋が熱をもつ。
 三成はただただ視線を落とし人語ならざるなにごとかを呻く吉継をじっと見つめ、胸の辺りが熱をもつのに耐える。昨夜にもこれと似たものを覚えた。愛い。一度言葉にしてしまえばそればかりが頭を埋めてならない。すっかり力を失った吉継の腕をそっと下ろし、空いた手を元のように吉継の背に遣ってその痩躯を抱え直す。つむじであろう辺りに鼻先を埋めても吉継は小さく呻いたばかりで待てどもそれより先は無かった。すっかり大人しくなった吉継になによりもの充足を覚えて、無意識に口角を緩める。眠気などはとっくに無いし、むしろ常からすれば余程寝こけてしまった方だ。しかし折角大人しくなったこのやせぎすの身体を離すのも惜しく思えてならない。深く息を吸ってみれば肺を満たす吉継の匂いの近さを知った。








110102
なんだただのリア充か