! 元親緑ルート後





 昔のことだ。黒田はあまり懐古するのが好きではないし、大体において今やひいては自身の野望に思い馳せることのほうが遥かに多いために思い出に浸るということが少ない。しかしこうも見事な満月、見事な紅葉。おまけに穏やかで静かな夜の帳の中、妙に冴えた頭を抱えてぼんやりしていれば懐古くらい、する。黒田は無意識に手首を擦った。不本意ながらに長らく付き合った枷であったが、失せてみるとどことなしの空虚を覚えた。わがままなことだ。

 思い出したのは当の枷が填められてほどほど慣れだとかが浮き彫りになりだした頃のこと、大坂への登城を命じられた時のことだった。当時豊臣に与していた筈の徳川の離反/反逆、終いに秀吉の死を受け、足場を大きく揺らがせた豊臣は徳川へのいくさを決めたばかりであった。大谷に呼び出された黒田は人払いの為された客間でふたり、向き合っていた。

「四国を攻めよ」

 端的な口振り。舌先三寸で人を惑わす大谷がそのように出るとは、あの頃既にあの病身にそこそこの疲労を溜め込んでいたのだろうとは想像に難くない。豊臣のみでは徳川に対抗し勝て得る筈もなかった。なればまず同盟を成し味方を増やすことは最も優先されるべき事情である。しかし大将たる当の三成はと云えばそういった人事にとんと疎く、また裏も表も策を弄するということを憎む。対し大谷はそういったことをまっこと得手とした。ゆえの予定調和。とは言えやはりあの男の身体には大層な負担であったろう。かと言って三成に話が漏れる愚などあってはならぬというのだからあまりおおっぴらに人を動かせなどしない。ゆえにやはり、大谷は疲れていたのだろうと思う。いやそもそもそんなことを考えずとも、それくらいは解った。あれとも、短くはない付き合いであった。

「四国ってえと、長曾我部か」
「応よ」

 黒田はことさらそれを追求するでもなく、はあん、と頷いた。

「しかし今長曾我部と事を構えるのはまずいんじゃないのか。長曾我部元親と徳川は旧知だったろう」
「ぬしは案ぜずともよい。その長曾我部は今不在よ」

 不在、と繰り返してしばしの思案。程無くしてそういうことかと吐き捨てた。わざわざ黒田が呼び出された理由が解る。

「そら確かに三成にゃあ、出来んわな」
「ひひ、話がはやいのはよいことよな」

 暗にしては上出来上出来と手まで叩いて見せるものだから、黒田はうるせえと返した。兵はこちらで用意したものを。女子供含めすべて生かすべからず。終いに用意した徳川の旗を散らせ。大谷はそのようなことをようく言い含めた。少々ばかし吐き気のする話ではあったが理解できぬ話ではなく、結局そういったものはまとめて飲み下した。低い声で肯いた黒田に話は之で終いと早々立ち去ろうと腰を浮かせかけた大谷に、黒田はおい、と掛けた。ありありと面倒くさいと張りつけたまなこが黒田を見た。

「小生が裏切るとは思わんのか」
「ぬしが? われをか」
「そうだ」
「ぬしはわれを裏切らぬ」
「……」
「そして三成のことも裏切れぬ」

 さも当然を語るかの口調。それはどこか三成を思い起こさせて、なるほど類は友を呼ぶと云う。黒田はそれをおくびにも出さず「何故そう思う」と言った。大谷はにたりと嫌な風に目を細めた。きっと口布の下、包帯の下でも口角を吊り上げているのだろうと解った。

「そのようなこと、ぬしが一番解っておろ」

 黒田は閉口した。首肯こそしなかったが肯定も同然であったことは、大谷にも黒田自身にも解りきったことだった。「さて、話は終わりか」と緩く首を傾げる大谷に黒田は少しばかり驚いた。それこそさっさと立ち去るかと思った。次に腰を浮かせようなら黒田はことさら話を重ねることはなかったろうと思う。だが疲労に疲労を重ねているであろう大谷がそのように話を促すような振る舞いでいたものだから、それは黒田の口をなめらかに滑り落ちた。

「お前さん、死ぬなよ」

 ぱち、と大谷は白黒の引っ繰り返った目を瞬かせた。驚いているらしかった。それは未だこれが紀之介を名乗っていたころを彷彿とさせてならなく、黒田は嫌な郷愁に苛まれた。小生の前では憎らしい憎らしい、恨まれてもしようのないと誰もが頷く策士でいてくれたならきっと楽であった。そういう風に思えどそれを引きだしたのもまた自身であると知れば滑稽でならない。しかし紀之介の面が覗いたのはほんのひと瞬きのことで、するともう大谷は嫌な笑い方などをしてみせた。

「やれ、暗なぞに案じられるとはわれも落ちたものよ」

 そのような口振りにもどうしてか言を重ねられなかった。結局黙り込んだままの黒田に大谷ははあ、と漏らした。

「死なぬ、われはあれが降るまで死なぬ」

 あれが何かを黒田は知らない。それが一体何を経て何を為し何を齎すのかなどに黒田の思案は及ばない。三成は知っているのだろうか、どこか陶然とした様子の大谷の真意は知れなかった。だけれど黒田は腹の内に妙な確信を抱えていた。

「そうか」

 大谷はきっと三成の為に死ぬのだろう、と思った。それ以外に死ねない気さえしたのだ。大谷が待ち侘びるあれとやらを黒田は知らないが、しかしどちらの為に死ぬのが大谷の幸せなのだろうかと思案した。終わりは見えなかったので、大谷が腰を上げるよりはやくに黒田が立ち上がった。多分、いたたまれなかったのだ。

 結局、あの男の死は三成の生に繋がったのだろうと思う。長曾我部という男の気質も勿論あるだろうが、その下に友を失った三成への憐憫、そしてその友を奪ったことへの罪悪感があることは間違いないと黒田は見ている。恐らくそれは大谷の策の内に違いない。大谷は三成を生かそうとする自身の情に何時気付いたのだろうか。案外早かったかもしれないし、死ぬ間際か、最悪気付かなかったかもしれない。しかしそうだとしても結果三成は生きているのだから、安堵する自分にあの世ででも気付けばいい。あの男のこと、死んだとて三成への甘さは変わらぬだろう。はあー。長々と溜息を溢す。

「何故死んだ」

 吐き出した吐息と入れ替わりに肺腑に入った外気が刺すように冷たく、黒田の脳は急速に冴えた。やはり、小生には懐古など向かん。頬の内側でぼんやりと溢した。









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