大谷は濡れ縁の陰からぼやりと空を見遣った。薄雲ひとつすら無いゆえに降り注ぐ陽光が煩わしく、大谷は避けるように膝を下げ壁に背を寄せた。三成が来るまではさしてかからぬだろうと濡れ縁に出たはいいが弱った膚にはやわい陽さえも毒であった。この身の不自由は今更といえば今更だが許容などは恐らくどれほど過ぎても出来ないに違いない。そもそも諦念を許容できずにいる己はそれはそれは愚かしく映るのだろう。大谷は小さく息を落とした。
 そのようなことをあの友に聞かれようものならば眦を吊り上げ苛烈に大谷を怒鳴り立てよう。無為な慰みや同情など出来ぬ三成の真っ直ぐさは大谷の好むところにあったがあれの怒りはやはり受けぬが吉。背の壁に身を預ければひやりと冷たく、心地好さに瞼を落とした。


 大谷を訪ねた三成が口にするのは大抵が太閤かその唯一の友たる軍師殿のことである。そもそもさして口数の多い男でなく興も少ない。ぽつりぽつりとなにぞ口にすることはあるが、血色の悪い頬を紅潮させ口早に語るのはその、ただふたりことのみである。例えば今度のもそれと言えばそうであった。
 豊臣の軍馬の内一頭の世話を任されたのだと語る三成はいつに増して興奮した様子で浅葱色の瞳は童のように輝いてすらいた。だが馬の世話とは、直々に世話するのではないにせよ名のある将である三成に態態与えられるにしてはいささか疑問の残るそれである。

 しかし三成の言に耳を傾けていれば成る程、その馬の名は天君だと云う。大谷は胸中で頷いた。その名は大谷も竹中より聞き及んでいたのである。曰く稀に見る上等の軍馬であるがいやに気難し屋で人を選ぶという。容易に触れも出来ぬ馬、なればすげ替えればとも思うがなにやら或る策に用いる為の特別なそれ故に条件を満たす馬などそう見つかりはしまいという話。天君とて探しに探した漸くのそれなのだ。そのようなことを聞いて大谷はたしか「それは難儀で御座いましょう」などと頷いたように思う。明確でなどはないが、竹中から見れば充分あからさまに興を向けぬ大谷に、竹中もただ雑談以上のつもりもないのだろう、さして気に留める風でもなく「どうしたものだろうね」と言った。それきりである。
 もう一月二月は以前のこと、すっかり忘れていた大谷には寝耳に水とまでは言わぬがそれなりに意外ではあった。しかしまた得心もいった。なるほど竹中が言うように上等も上等、三成を選んだということはそういうことだと大谷は微笑した。

 そこからひょいひょいと話が転がりその天君を大谷の許に連れて参るという次第に為った。思い返して大谷はひとつ嘆息した。件の天君、あれは豊臣の『兵』である。執心とまでは言うまいが竹中が言った或る策のかなめであろう天君を大谷に見(まみ)えさせようという三成を大谷はまず諌めた。
「天君にわが病が移れば如何とする。馬にだとて移るやもわからぬ」
 そのように言えば気を害した風に眉を歪めた三成は「移らぬかもわからぬだろう」などと言った。童にしてももそっとましなことを言おうものを、と重ね重ねに色々と続けるものの三成は基本的に強情っぱりである。愚考ではないが正しいと決めたことは正しいとしか思わぬし、こうと決めれば梃子でも動かぬ。三成の白をも黒に変えられるのはそれこそ太閤か竹中くらいなものである。程々折れたのはやはり大谷の方で、では後日に、と満足げに微笑した三成に肩を落とした。その後日が今日であった。


 一度部屋に顔を覗かせてからいつもと変わらぬように体調を尋ね、ひとしきりの応酬をして三成は席を立った。待っていろと三成が言ったのはなにも冬の気を孕みだした外気に晒されて、という意味ではないだろうが馬を伴うなら庭先から来るのだろう。声などを掛ける手間は実際そう大したものではないのだたが、しかし大谷はふきっさらしの日陰にうずくまる方を選んだ。ふきっさらしと言っても風は無い。無いが空気は大層冷たい。ぎっしりと巻いた包帯の奥にまで刺さるような心地がして、大谷は羽織りの袷を寄せた。
 どれほど経った頃合いか、さほどではないだろうがぼんやり瞼を落とす内に妙にまどろみかけていた大谷にはさだかでなかった。解けた頭を纏めていると土を踏み鳴らす硬質な足音が大谷の耳朶を叩いた。ああ蹄の音かと合点がいくのも早く、薄く上げた瞼をそのままに少し目を陽に慣らす。耳に届く足音は近い。随分と気を抜いていたと思った所でほうけた大谷の鼓膜を三成の声が叩いた。名を呼ばれ顔を上げれば、濡れ縁の程近くに見慣れた友の姿と聞き及んでいた通りうつくしい成りをした馬が並び立っていた。

「どうした、具合でも悪くなったか」
「いや、いや。われは平気よ、ヘイキ」
「ならいい。しかし何故このような所にいた。陽も寒気も貴様に善くないだろう」
「ぬしを待っていたのよ。ひとりぽっちはサミシイでな」

 ひひ、と揶揄する調子で笑えば途端三成は頬の辺りをもぞもぞさせてから結局「遅くなった」とだけ言った。その妙な幼さというか拙さがいやにいとおしくさえあってもひとつ笑いを漏らした。

「して、それが天君か」
「ああ」

 ふうむ、と大谷は首を傾げてまじまじと天君を眺めた。普通のそれよりよほど好いその体躯は均整がとれているし、特に後ろ脚などは力強さを秘めた筋に覆われてしなやかだ。体毛は白、或いは灰というよりも銀であり、冬の透明な陽光を全身に浴びてその身の力強さと美しさを惜し気もなく晒している。体毛同様、少々色の薄い瞳だがその双眸は穏やかでいっそ理知さえ窺わせた。なるほど、なるほど。確かにこれほどの馬ともなるとそうは居るまい。

「美しいだろう」

 大谷はそう言う三成をちろりと見上げた。誇らしげな微笑、しかし顕示欲に満ち満ちたそれなどでなくもっと純粋に、ただ太閤の力となる為のこの天君は素晴らしいのだと心底称賛する響き。例えば三成はこの称賛を刀剣などにも向けよう。豊臣の礎を築くであろう刃、鋭く美しいそれは人のように裏切らない。或いは裏切らないゆえに美しい。きっとそれはどちらであれ同じことで、三成にとって豊臣の為、太閤の為すべてを捧ぐことの出来るものが素晴らしいのだ。そして己もまたそう在るべきと思っているのだろう。天君もそういう存在と思った、それゆえの称賛。

 ああ哀れよなと思った。ぬしはきっと三成の為にこそと思っているのであろうに。馬のこころなど当然解りはしないがしかし何故だか、妙な確信をもってそう思った。
 それを知ってか知らずか、天君は不意に頭を垂れ濡れ縁の向こうから大谷へと頚を伸ばした。その鼻先は手を伸ばせばすぐ先に在り、その近さに大谷は思わずひとつふたつ瞬きをして三成を見遣った。すると三成もまるで同様に切れ長の目を円くして「珍しいな」と呟いた。

「天君が自ら人に近付くなど、まず無いのだが」

 大谷は三成から天君へと視線を遣った。薄墨の色の瞳がじっと大谷を見詰め、それを受ける大谷は妙に可笑しな気分になって「ひ、ひ、」と小さく笑った。気まぐれに持ち上げた指先を天君の鼻先でひらひらと泳がせても天君はじっと動かないでいる。

「やれ三成、天君はどうやらぬし同様、病など知ったことか等という大馬鹿らしい」
「大馬鹿とはなんだ」
「大馬鹿は大馬鹿よ。病どころかわれの気さえも無視して好き勝手にしやる大馬鹿よ、な」

 にい、と意地悪く笑ってやればそれがどういう意味かと察せぬ程の朴念仁ではないらしくかっと耳に朱を走らせて小さく呻いた。終いに言うのが「貴様は私が嫌なのか」なのだから如何ともし難く、愛い。

「われがぬしを嫌うわけがなかろ。ぬしが一生懸命励む様はまっこと愛らしいゆえに嫌おうとも嫌えぬわ」
「刑部!」

 ひぇ、ひぇと笑い立てれば頬までもうすら赤く成り出した三成がぐっと唇を噤んだ。賢きことよなと胸中で頷く。殆ど押し切られる形での今日のこと、その意趣返しはまこと上手くいったとほっこりしてもう一度ひらりと指先を振ると、不意に鼻先を更に寄せる天君に慌てて腕を引いた。「これ、」と窘めたのが解っているのかいないのか、丸きり通じているなどとも思わぬがなにやらわざと素知らぬふりをしているようにも見えて、どうも好くない。大谷が腕を引けば天君の身はそれこそ濡れ縁に脚を掛けるでもしなければ大谷に届きはしない。油断も隙もないと小さく嘆息すれば、一連を傍観していた三成が「天君が、」と口唇を開いた。

「天君が貴様を気に入ったのは貴様が美しいと解るからだろう」
「は、」

 ぽかりと大谷は目を円くして三成を見遣った。先は三成もまた同様に驚いていたというのに今は当然を語るような風である。三成はそのような大谷の様子に構わず続けた。

「天君は人を好く視る上に賢い。人と違い貴様の上辺のみを見て貴様を傷付けなどはしない」

 ぶる、と天君が小さく鼻を鳴らした。まるでそれが主人への同意のように聞こえてしまって、大谷は眉をしかめたが三成はいやに丁寧に天君の鬣を撫でた。三成は苛烈な性もありはするが元来は穏やかな男である。その横顔を見ながら大谷は迷った。それはどういう意味かと尋ねるか否か。大谷はわざとらしく喉を引き攣らせて笑った。

「ぬしは、この毒された身の何処を見て斯様なことを言うのやら」
「貴様の美しさが病程度で損なわれるものか」
「……言いよるわ」

 苦虫を十数匹噛み潰した心地で三成をねめつけるが、三成は満足げな微笑ばかりを湛えて天君の手綱を引いた。

「そろそろ外気も毒だ。部屋に入っていろ」
「ああ…そうよな」

 三成が天君をまた大谷の屋敷の厩に伴うのを見送りつつ、妙に重たく思えた体を再度壁に預けた。壁はひやりと冷たいがさほど気にならず、心地好ささえ覚える。先も思ったが、もしや多少なりの熱があるのかもしれない。さもなくばようよう回る筈の舌がいやに重たく思える筈もない。だが、そうだというのならばやはり尋ねるべきではない。








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