! 幼少捏造/万吉と紀之介が幼なじみ



 雲に遮られることもなく春の陽気が降り注ぐ穏やかな昼下がりである。万吉はこれほどに快晴というのを恨めしく思ったことはない。恨めしい、というよりはみじめか。みじめな己までも照らす太陽が恨めしかった。万吉は草鞋を失くしてそのままだった素足を濡れ縁に掛けようとして、やめた。泥だらけの身なりでうろつくだけでも同年の小姓などからいじめられかねないというのに屋敷を汚して大人からも怒鳴られるのはいやだった。せめて井戸で泥を落とさなければと思うが今行けば誰ぞいるかもわからない。ちょうど万吉をよくいじめる内の何人かが稽古を終えたであろう刻限だ。また根暗、根暗と追い立てられるに決まっている。
 どろだらけでいるのは気持ち悪いしそれが傷に入り込むのはひりひりと痛くていやだったが、それも痛めつけられるよりはずっとましだった。そう決めた万吉は逃げ出すように足を遣る。日陰に入り込めばひんやりと冷たい気が頬に沁みた。思わず頬の擦り傷を泥だらけの手で押さえて、やはり沁みた。痛い以上に、みじめだ。一度はひっこんだ涙がじわじわと込み上げる。

「やれ、やれ万吉」

 ひっ、と喉が引き攣ったのは恐怖ではなく出掛かった嗚咽が奇妙に引っ込んだせいだった。ばっと振り向いた先の少年の姿に万吉は先よりずっといやな気恥ずかしさを覚えて着物が汚れているのにも構わず目元をぬぐった。元服も間近だというのにみっともなく泣いている自分を友に見られるのは、抵抗もできず怯えて逃げ回る自分のさまよりずっとみじめに思えてならなかった。そうしているとふうと小さな溜息が聞こえて、万吉は思わず身を強張らせた。一心に目元を擦る万吉の腕をぽんぽんと叩くそれが紀之介の手と知ると、慰めるようなそれに耳が熱くなった。

「きの、紀之介、」
「万吉、どろが目にはいるぞ」

 少し迷ってから、袖をやわく引く紀之介の手に任せて腕を下ろした。同年の少年に比べて小柄な万吉よりも少し背の高い紀之介の不思議な色をした目が己を見ているのを同様に見返す勇気もなくて変に逸らした。紀之介が溜息混じりに「みごとなまでにどろだらけよな」と呟くのにいやに肩が跳ねた。

「こ、転んだだけだ」
「ほお」

 揶揄するような響きで短く漏らすと紀之介は万吉の頬を掴んでぐるりとその首を自身に向かせた。紀之介のてのひらまで覆うようになった包帯がざらりとしていて頬の傷がぴりりと痛んだがそれ以上に万吉はぎょっとして瞼にかかる前髪の下で目を剥いた。友人を傷つけるわけにもいかずに手足を騒がせる万吉の姿はそれはたいそうおかしかったろう。狼狽する万吉にも構わず紀之介はひとり「ふむ」などと頷いた。

「転げたにしては豪快にすったものよな。ん、口の端があざにもなっておるな」
「き、紀之介、はなし、はなして、」
「む?」
「包帯がよごれる、から」
「ああ…そうよな、そうよな。ぬしは腹と言わず背と言わずにどろんこゆえ。それでもなお転んだ、のか?」

 すう、と細まる目に背が冷えた。紀之介は決して悪いやつじゃない。頭がよくていじめっ子にも臆さぬしこんな自分を庇ってくれさえする。しかしこの冬の寒い日のような笑みだけは好きになれない。腹の底が冷えて背筋がぞっとする。思わずぐ、と飲み込んだ息に紀之介は喉がひきつったような笑い声を洩らした。それもやはり意地の悪い色をしている。

「万吉がわれに嘘なぞ万年早いわ」

 にい、と紀之介がその口布の下で頬を吊り上げたのはようく解った。万吉の心の臓をひやりとさせて満足したのか紀之介はぱっと万吉の頬から手を離すとするりと万吉の横を抜けた。ゆっくりと歩む背をぼんやり眺めているとほどほどのところで万吉がなお立ち尽くしていることに気付いたのか後ろを振り返り不思議そうに首を傾げた。

「なにをしてやる。行くぞ」
「え、あ、え?」
「井戸よ。それともそのどろんこで帰るつもりか」
「あ、あ、いや、」

 いい、と続けたあたりにはもうその声は消え入りそうであった。それも紀之介がやはり面白くなさげに眉をしかめたからであった。取り繕うような早口で「いじめっ子がいるかもしれないし」と言えば紀之介は「ぬしはあほうか」とばっさり言った。

「そのようなつまらぬことはどうでもよい。かまうな」
「でも、」
「なればわれがおっぱらってやろう」

 それ行くぞと言いながら、万吉を待ってくれているのか、歩を進める様子もなくじっといる紀之介にほとんど圧倒されるように万吉は小さく頷く。重たい足をどうにかこうにか動かして紀之介に並ぶと腹の底がむずがゆく、でもけっして悪い気分ではなかった。いじめっ子がどうの以前に万吉が抱くこの友人そのものに対する安心感だった。
 ほこほこと温かい気持ちをかかえてゆっくりとした紀之介の歩みに合わせていると、隣で紀之介が再び引き攣るような笑い声を洩らしたの聞き止めて彼の横顔を見た。するとそれに気付いたか、紀之介も万吉を見てにこりとほほ笑んだ。

「万吉をいじめてよいのはわれだけよ」

 な、と笑う紀之介にほっこりと温かかった万吉の胸の内は雪を目一杯に詰め込んだようにぞっと冷たくなった。








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不穏な影が差し出した万吉