! 大谷さんの病気についての描写がありますが、特定の病気を示すものではないことをご了解ください




 大谷を廻る病はその脚も例外無く蝕んだ。肉の削げた脚は枯れ枝に似て、最低限を下回る筋では満足に歩くこともままならない。未だ杖をつけばなどとわざわざ口にする気にもならない。それが悪あがきであると誰ぞ彼ぞが口々に囁くまでもなく大谷自身がそれを最も理解しているのだ。それでもこうして諦めをつけられずにいるというのを矜持だとでも言おうか。しかしそのざまこそが最たる不様だとも理解している。戦にも出れぬ脚なれば切り落としたとて変わるまいと幾度となく思えども、尚棄てられずにいる己は如何ともしがたく愚かだった。
 時たま、実に稀に気紛れな病はそれを忘れたように脚をふわふわと軽くしてみせる。やれむごいと歯を軋ませてみても、次があるかと思ってしまえば二足を確かめずにはおれないのだ。脚である。木偶ではない、これはわが脚である。大谷がそうして脚を遊ばせることを知るのは身辺の世話をする小姓くらいなものだった。友の三成さえ知らぬ。杖さえつかない歩みは不様に過ぎてそれを衆目に晒そうといえるほど、矜持までも枯れ果てているわけではなかった。
 ともすればくずおれそうな膝を叱咤し、大谷は調えられた庭先をひとつふたつと踏み締めた。霜溶け水を吸った庭土はやわく、しかし大谷の脚に重たく絡むこともなく心地好く踏み締める。久方ぶりに気が明るくなるのを覚えた。もうみつよつと歩を進めればそろそろ足元も危うくなる。しかしふらりふらりと覚束ないながらに杖もなく進む脚を大谷は止めない。この先しばらく、さしたる用もなくばこのまま多少の無理も構うまいと思った。浮かれた頭はただ土を踏みしだく行為に熱を上げる。或いは、真実熱があるのかもしれなかったが、込み上げる喜気に対し大谷はただただ無邪気だった。
 そうしていたところ、はたりはたりと微小な音にぞりざり、ぐちゃりとかまびすしい音が雑ざったものだから大谷は包帯の下の面をしかめた。頭からは熱が一斉に引いていくのがわかり、大谷は自身が一層をもってさえざえとするのを覚える。ああ、と声にもならぬ息を漏らしてしまえばやはり体は奇妙な熱を孕み、四肢は馬鹿に重たい。視界がぼやりとすれば傾いたのが世界か自身かも判断がつかない。ぐらりと大きく揺れれば伴う浮遊感と吐き気にやはり傾いだは自身と知れて、大谷は再度ああと息を漏らした。「うっ、わ」受け身を取るにも重たい四肢、しかし想定した痛みもなく倒れ込んだのが丸太のような、それにはやわい質感に大谷は眉をしかめた。焦点が合うのを待つまでもない。「なにやってんだお前さん」降る声にいらえるのも億劫であったが無視して去るどころか、男の腕に爪を立てるようにして(男からすれば添えてるのとさして変わらないであろう)身を支えるのがやっとである。大谷は苛立ちを隠そうという素振りもない。

「此処で何をしておる」
「なんだっていいだろう」

 自身でも無理のある口上とわかっているのだろう、大谷が目を眇めると黒田は居心地悪そうに舌を鳴らした。

「お前さんが危なっかしげにフラフラしてるからだな」

 視線をうろうろと遣る黒田は大谷の眦が微かに跳ねたのを見なかったろう。事実黒田はもごもごとようよう聞き取れない語を続けている。ほどなく黒田が仮にも軍司たる者にあるまじき狼狽ぶりで吠えたてるように声を上げたのを大谷は厭にさめたこころもちで見た。不運だなんだと歎く声もやたら耳につく。

「大体杖も無しでなにやってんだか」

 大谷に話し掛けているのかただただぼやいているのか判別し難い風体の声に、やわい鈴の音が混じり入る。聞き留めた大谷がつい「黒田、」と呼び付ければ察した黒田はやはり、土木に荒れた手で見慣れた杖を差し出した。持ち手から下がる小さな鈴飾りが再度鳴れば、途端鬱陶しいほどの現実感が大谷に纏わり付く。

「ほれ」
「……」

 まるで憎らしいものと相対したかのように杖を見る大谷を、黒田の位置から窺い知ることはできない。それでも、ようよう回る大谷の口がすっかり閉じているのを不審と思わないでいるほど黒田は大谷に対し暢気でなどいない。警戒半分、もう一度声を掛けようと黒田が口唇を開きかけたところを、大谷はようやく神経質なまでに包帯で包んだ指先で杖を取った。それに黒田がささやかな安堵を覚えた矢先、その手がぐい、としなり杖を目一杯投げた。そうは言っても体制もろくすっぽ調えられない大谷である、杖が転がったのも大した距離ではない。しかし飽くまで好意――大谷にかかれば単なるお節介であったし黒田も大谷に対する好意というよりただ妙に危なっかしい男を放っては置けなかっただけなのだが、実情がどうであれ黒田は義務でなどはなかったそれを無下にされたも同然である。黒田にあっ、と声を上げる間もなくかんからと転がる杖を見送る。「暗よ、」その声にようやく怒鳴り立てようと大谷を見下ろして、黒田は閉口した。大谷は笑っている。口布に遮られても解るのはただただ、嬉しくもない長年の付き合いゆえにだが、それゆえに細まった大谷の目は決して愉快そうな色をしていないことも易く知れた。まずったなと思った、黒田は素直にそう思った。この男の矜持を己は今おとしめたらしい。大谷の指がすい、と杖を指す。

「あれを取って来やれ。われはろくすっぽ歩けぬゆえに」

 ひ、ひひ、と笑う大谷に、黒田はだらしなく伸ばされた前髪の下でしかめっ面をした。杖を取りに行けば大谷は間違いなく倒れるであろうし、かと言って大谷を抱え上げたならばそれこそ取り返しのつかなくなるほどに大谷の気を損ねる。黒田は如何様にもしがたいこの状況でただ立ち尽くす。それを見た大谷は嫌味ったらしく顔を歪めて見せた。

「ぬしはほんに浅はかよな、アサハカ」

 暗い瞳を細めてさぞ可笑しいと喉を引き攣らせる大谷が「われなどそれ、捨て置けばよかろ」と囁くのを黒田は苦々しげに見下ろした。







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