――カトレアの花言葉は純粋な愛。
目が覚めたのは、街角の小さな家の小さなベッドの上だった。
窓の外を見れば、そこはしんしんと降る雪の夜空。ここはどこだ……?
ゆっくりと体を起こすと同時に部屋のドアが開き、ひとりの男がはいってきた。
「お、起きたか。」
男は片手にマグカップを持ち、だぼだぼの服に首からゴーグルをさげている。
黒髪の短髪、年は20後半ほどであろう。
「よう小僧、気分はどうだ?」
そう声をかけながら部屋に入りドアを閉めた。
この男は……?
「お前…誰だ……?」
男はベッドの横のイスに腰かけると、持っていたマグカップをさしのべた。
「まぁ飲め、ホットココアだ。今夜は特に冷えるからな。」
「…………。」
男からマグカップを受け取るが、口にする気にはなれない。
ここはどこだ? この男は誰だ? なぜ俺はここにいる? それ以前に……
俺は……誰だ…………?
考えれば考えるほど頭が痛い。何も……覚えてない。
やがてカタカタと震えだす手。怖い感情だけでは…ない。
「おい、大丈夫か?」
「…………お前は誰だって言っているだろ。」
全身が震えそうになるのを抑え、絞り出した声は先ほどの言葉を繰り返すだけだった。
うつむいたままの俺を見て、男はニッと笑いながらこう答えた。
「俺か? 俺はゲイル。ここらじゃちょいと腕のきく整備士だ。」
「……整備士…………?」
「ああ、車とかバイクとか……他にもいろいろ、な。あ、そうそう。」
何かを思い出したかのようにズボンのポケットをあさるゲイル。
取り出したのは、誰かの身分証とシルバーネックレスだった。
「これ、お前のじゃねぇの?」
そう言ってそのふたつをベッドの上に放った。
ふと目線を向けると、身分証の顔写真には俺の顔と思われる人物が写っていた。
「ゼノ=ブラックバーンっていうのか?」
「…………たぶん。」
「……覚えてないのか。けど、この顔はお前しかいねぇなぁ。」
「……あのさ。」
ゼノ、という名前にしっくりくるのは、きっと俺の本名として合っているからだろう。
俺は震えていた手を止め、ここまでの経緯をゲイルに聞くことにした。
「俺は……なんでここにいるんだ? 何があって……。」
「さあなぁ。こっちが聞きたいぜ。昨日の夜、お前がふらつきながら俺の家のドア叩いてきたからよ。
親切な俺は寝かせてやっていたってわけよ!」
ニッと歯を見せて笑いながら冗談交じりに言うゲイル。
この男の言うことが本当なら、俺は自らここに来たってことか……?
かといって、このゲイルという男が俺のことを知っている風にも見えない。
わからないことだらけだ。
俺は……どうすればいいんだ……?
うつむいて黙り込むゼノを横目に、ゲイルは身分証と一緒に渡したシルバーネックレスに目をやった。
「このアクセ…名前が彫ってあるが、ひとつの『Zeno』ってのはお前とわかるが……
この『Cattleya』って誰のことだ? 女か?」
「…カトレア……? そんな奴は……」
……知らない?
何故かそう言いきれなかった。
頭の何処かでどこかでその名前を覚えていて、しかし拒絶もしていて……
忘れてはいけないけれど忘れてしまいたい。そういった感情に似たものだった。
カトレア……
再び黙ってしまったゼノを見て察したのか、ゲイルはこんな話を切り出してきた。
「小僧、ゼノとか言うそうだな。お前さん、どうしたいんだ?」
「え?」
「何も覚えていないんだろ? 見た感じ若いし、このまま0からやっていくこともできるが……
家がねぇならここにいても構わないしな。」
俺は……
ゲイルの問いかけに思う。
確かに、その方が楽かもしれない。
仮に思い出した記憶が重いものだったら正直どうなるかわからない。
だけど……
「俺は…自分のことが知りたい。空白の時間を……埋めたい。」
そう答えると、ゲイルはニッと笑ってこう言った。
「いい決断だ。だったら、こんな錆びた街にいてもしょうがないな。
だが忘れちまったモンは戻るかどうかもわからねぇし、簡単じゃねぇな……
……お前さん、この世に願いがなんでも叶うと言われているモノがどこかに存在するって知ってるか?」
「願いがなんでも……? つーか何も覚えてないんだから知るわけがないだろ。」
「ハッハッ!それもそうか。」
声をあげて笑うゲイルに少しムッとしながらも、ゼノは話の続きに耳を傾ける。
「そいつさえ手に入れば記憶なんて軽いもんだぜ。億万長者や不老不死なんてのもできるだろ。」
「そんなすごいのか……?」
「なんでもってんなら、なんでもだろう? 」
「けどそんなもの…どこにあるかわからないんだろ? 無謀だろ……」
「いや、そうとも限らないかもしれないぜ?」
ゲイルはニヤリと口元を笑わせてこう続ける。
「その願いがなんでも叶っちまうモンを探すには、いろんな所に行くことになるだろ?
そうしている間にも、何か記憶が戻るかもしれないぜ?」
なるほど……ゲイルの言ってることの可能性はある。
少なくとも、ここに留まるよりは記憶が戻る確率が増えるだろう。
「……ゲイル、助かった。俺、行くことにする。」
そうぽつりとこぼすと、ゲイルは優しく笑ってうなずいた。
「そうと決まったら、体休まり次第出発だな!早くても明日だな、今夜は雪も多いし。
それと小僧、旅路の『お供』もっていけ。」
「お供……?」
ゲイルはそう言うと、部屋を出て何かを取りに行き、しばらくすると戻ってきた。
その手に持っていたのは……
「……銃…………!?」
「おう。俺の本業だ。」
整備士って…そういうことか……
「外の世界に行くなら必要だ。特にお前さんは身元がわからんからな、どこで何が起こるかわからねぇ。
それに『願うが叶うモノ』を探すなら血を流すようなことも無いとは言い切れない。
サービスだ、持っていけ。」
手渡された30cm程の真っ黒な銃……と思いきや、よく見るとバレルの下部にナイフの様な刃が仕込まれている。
「ゲイル様オリジナルだ。近接にも使えるぜ?」
ニカッと笑うゲイル。そうして背を向けこう言い残して部屋を出て行った。
「くれぐれも、死ぬなよ。」
翌日、俺、ゼノ=ブラックバーンはこの家を出た。
自分の過去を取り戻すため。
『願いが叶うモノ』を、手に入れるため。
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