ロシェル・ミュレーズの目を通して見る世界は常に、ガラスケース越しのように遠く、絵画のように現実味を欠いている。

 こてん、と頭に乗せたミニハットが首を傾げた拍子に地に落ちた。ローズ色とチョコレート色の造花が少し形を歪め、それを拾おうとかがむと胸元で懐中時計がじゃらりと重たげに揺れる。顔を俯ければ、白っぽいレモンイエローに混じったオレンジ色が、鮮やかに目に焼きついた。彼の人の髪はもっと暗いオレンジ色だったけれど、どうにもうまく染まらなかったのだ。

「はいよ、お嬢さん。ヨーグルトジュースだ」
「ありがとうございます。……ばいばい、おじさん」

 なんとはなしに屋台で頼んだヨーグルトジュースを一口飲んでみると、味が薄くて美味しいとは思えなかった。お砂糖か唐辛子、なんでもいいから味をつけたいと思う。ああでも、なるべく苦い味以外がいい。
 ――ロシェルの味覚はおかしい、鈍すぎるよ。
 記憶の中の彼が呆れたように笑う。彼はよくロシェルの鈍すぎる感覚に呆れながら、面白そうに笑ったものだった。
 彼がいなくなってから、もう大分経つ。数年なのか、数か月なのか。世間の時の流れを気にすることをしない彼女はそんなことは知らず、ただふらりふらりと町から町へと彼を探して旅をしていた。彼がいなくなった理由も手がかりもないまま旅する彼女は、傍から見ればただの気楽な旅人に見えるだろう。ぼんやり、ふわりと、気だるげに。彼女の表情からは恋人が失踪したことへの悲槍さや、見つけたいという必死さは全く窺えない。
 だけれども、ロシェルは確かに彼に執着し、探していた。住んでいた家を惜しげもなく出てしまうほどに。

「……どこにいるのかな」

 あんたは、今。質感を感じさせない声は、あっさりと風に紛れて残滓を残さずに消える。そしてロシェルは、それに執着を残さない。彼女が今執着しているものは彼のみなのだ。それさえ、いつかふとしたときに忘れてしまうかもしれない不確かなものである。

 ロシェル・ミュレーズの目を通して見る世界は常に、ガラスケース越しのように遠く、絵画のように現実味を欠いている。

 彼女が家を出るときに彼の髪色であるオレンジ色を、自分の髪にメッシュとして入れたのは、忘れないようにするためかもしれない。始めて執着した存在、特別な存在。そんな彼を簡単に忘れ去って、執着も思い出も捨て去って、茫洋とした元の生活へ戻ってしまうことがないようにするために。

 口の中からジュースの味が消えたことに気付いて視線をカップへやると、空っぽになったカップが手に収まっていた。ストローがずずず、と僅かに残ったジュースと、ついでに空気をかき集める。口の中に吸いついたストローを離して、近くにあったゴミ箱へぽとんと捨てた。
 彼女が今いる通りには一日中屋台や露店が立ち並び、暇を持て余した人々が賑やか談笑しながら行き交う。食べ物や、雑貨や、見世物や、怪しげな占いまでありとあらゆるものが揃うこの通りは、人々が活動する間は静まる時間を持たない。彼はこんな場所があまり好きではなかった。だから二人がよくいたのは静まりかえったカフェや、人のあまりいない小さな通り。このような通りに来たことは一度もない。
 ロシェルの知る彼ならこの通りにはいない。でも、いなくなった彼ならどうなのか。ふらふら、ふらり。ぎりぎりまで締めたコルセットよりもまだ細い胴が泳ぐ。――彼の顔は、髪型は、声は、雰囲気は、好みは。時間が経つごとに不鮮明になってゆくそれを、捕まえる。捕まえたものが正しいかなんてことは、ロシェルは知らない。

「はやく行かないと。忘れちゃったらわたし、悲しいかもしれない」

 はやく、はやく。どこで聞いたのかは忘れてしまったけれど、願いを叶えるものについての伝承のことを誰かが話していた。それを見つければ、彼のもとへ連れて行ってもらえる。彼を探しながら、ロシェルはその伝承のものを追い求める。

「逢いたいな」

 その想いが消えてしまいそうに儚いものだとしても。
 ロシェル・ミュレーズの目を通して見る世界は常に、ガラスケース越しのように遠く、絵画のように現実味を欠いている。
 彼女にとっての確たる現実はまだ、ない。



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