変化の先(黒尾)
久し振りに訪れた都内の隠れ家的立地にある喫茶店は今日も人気がなく静まり返っていた。
数年前、一人で勉強しに訪れていたあの頃と何も変わっていない。
私は当時いつも座っていた席に腰を下ろすとボロボロだった紙からプラスチック板に加工され新しくなったメニューを手に取り端から目を通した。
内容は殆ど変わっていなかったけれど少しだけ軽食のメニューが増減している。
まあここで食事を摂るつもりもないので別段関係ないのだが――
私は合図を送って店員を呼びエスプレッソを注文すると壁に掛かっている時計に目をやった。
クロさんとの待ち合わせ時間まであと20分。
随分と早くに着いてしまったものだ。
一つため息を溢しメニューを元の位置に戻すと店内は次第に芳ばしい薫りに包まれて行く。
暫くしてテーブルに運ばれて来たその薫りの主は小さなカップに泡を立てて注がれており、ゆらゆらと揺れていた。
「まーた大人みたいなことして」
カップに手を伸ばすより先に投げ掛けられた言葉に顔を上げるとそこには予定より早く到着した待ち人が茶化すような笑みを携えて私を見下ろしていた。
「まあ…大人ですから」
私が何のリアクションもなく静かに返すとクロさんは向かい側の椅子を引いて腰を下ろす。
「随分早く来てたんだな。待った?」
「別に。さっき来たところです」
男女逆転しているような内容の会話に我ながら可笑しいとは思ったものの、敢えて深掘りすることなく私はコーヒーに口を付ける。
そこに待ち受けていた予想以上の深い苦味に思わず眉根にシワを刻むそんな私の様子をメニューの隙間からニヤニヤと観察しているクロさんと目が合い、私表情はより厳しいものとなった。
「何ですか」
「別にー」
クロさんはわざとらしく語尾を伸ばすと店員を呼んでカフェオレを注文しメニューをしまった。
「ところで、そろそろ敬語やめねぇ?」
「別に不自由ありませんよ」
私が小さなカップをテーブルに置きながら答えるとクロさんは私の言葉なんか気にせずに続ける。
「あとクロさんって言うのもやめねぇ?」
「改名でもするんですか?」
「そーじゃなくて!」
クロさんは控えめながらもテーブルをバンッと叩いた。
「うるさいです」
「……」
私の言葉とほぼ同時にカフェオレを運んで来た店員が私達のやり取りに小さく笑って去って行く。
「今日は妙に突っ掛かって来ますね…」
「だからさ、二人とも黒尾になったらどーすんのって話」
「…ちょっと意味が」
「なーソレわざと言ってんの?名前チャンってば性格悪ー」
「クロさんにだけは言われたくない台詞ですね」
私は未だ湯気の立ち上るカップに再び指を引っ掛けて相変わらず何の甘さもない黒い液体に唇を付ける。
残りはもう僅かだ。
「で、就活の調子はどーよ」
「いきなり話飛びますね…まあボチボチです」
「何がボチボチだ。お前、一社履歴書出し忘れてるだろ」
変化球過ぎて言葉のキャッチボールがなかなか巧く行かない。
私は痺れを切らせて残りの数滴を一気に飲み干し乱雑にカップをテーブルに置いた。
「言いたいことがあるならハッキリ言ってもらえます?」
静まり返った店内にテーブルにぶつかる食器の音がこだました。
「――株式会社黒尾に永久就職しませんか?」
私は言われた意味をすぐに理解できずに言葉を詰まらせた。
これは、つまり…
「テコ入れ?」
「なんでそうなる!」
一度声を荒げて突っ込んだ後、口元を覆って俯くクロさんの耳は少し赤かった。
こんな彼を見るのは初めてだけれど冗談めかして実は本気と言う彼らしい探りの入れ方に自然と笑みが溢れる。
「笑うな馬鹿」
「それ、何年後かにもう一度言って下さい」
言い終えて先程の壁時計を見上げると針は丁度正午を指していた。
本来なら今がデートの開始時間だ。
私は一向に減らないクロさんのカフェオレを奪い取り自分の胃袋に一気に流し込む。
ああ、やはり私にはこの甘さが丁度いい。
「ほら、さっさとデートに行きますよ。鉄朗さん」
そう私が先に立ち上がるとクロさんは呆気に取られた顔で私を見上げていた。
これからは少しずつ距離を縮めて行こう。
敬語を崩すのはまだまだ先になりそうだけれど。
▼あとがき
一度は社会に出ておきたいヒロイン
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