蝉の抜け殻(黒尾)
蝉が鳴いている。
ジリジリジリ、ミーンミーンとあらゆる鳴き声が外を賑わせていた。
土の中で長い年月をかけて育ち、地上に出てからはとても短い命。
そんな蝉を可哀想だと言う人も多いが、私はそうは思わない。
光を浴びずに何年もの間一人の時間を過ごす、その時間だって人生だ。
地上だけが全てではない。
人生にスポットが当たる期間が決まっていることが寧ろ羨ましいとさえ思った。
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終業式が終わり明日からは早くも夏休みに入る。
誰しもが少なからず置きっ放しにしていた教科書たちも今はもうそれぞれの家へと引き取られ、どの机も中身は空っぽになっていた。
どことなくガランとした教室を見回すといつもと何ら変わらぬ面子が夏休みの予定を立てている。
そんなクラスメイト達を尻目に私は早く冷房の効いた部屋に帰りたい一心で教室を出た。
「苗字」
すれ違った教師に運悪く呼び止められ内心舌打ちをして振り返る。
明らかに雑用を任されそうな雰囲気だ。
「なんですか」
「悪いけどこれ体育館に戻しておいてくれ」
渡されたのはバスケットボール。
掃除の時に教室のロッカーから出て来て以来、ずっとそのままになっていたらしい。
いつからあったのだろう、随分とボロボロだが果たしてこれは使い物になるのだろうか?
「わかりました」
断って教師からの評価を下げるのも嫌だったので素直に承諾する。
軽く挨拶をして教師と別れると体育館へ向かった。
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何とも言えない臭いと熱気が充満する体育館。
体育倉庫にこっそりとボールを戻しておこうと目論んだ私だったが、既に部員が籠ごとボールを出してしまっていた為叶わず、仕方なく直接届ようと体育館の反面に陣取るバスケ部と思わしき人へ声をかける。
経緯を話しボールを引き渡すと丁重にお礼をされ、今学期最後の仕事を終えた私はその解放感からか気持ちが軽くなった。
「おやおやおや?」
その余韻に浸る暇もなく背後から聞いたことのある台詞が聞こえうんざりとした表情で振り返る。
そこには案の定、ジャージ姿のクロさんが頭一つ分上から見下ろすようにして立っていた。
「名前チャンったらバスケ部のマネージャー希望なの?どうせやるならバレー部のマネージャーやれよ」
そう言う彼の腕には重たそうなネットの支柱が抱えられていた。
一本とは言え一人で持つには文字通り荷が重そうだ。
「今ならもれなく鉄朗君と研磨君がついて来るぜ」
「鉄朗君が要らないので遠慮させてもらいます」
「相変わらず酷ぇな」
「私はただボールを届けに来ただけですので。それではよい夏休みを…」
今となっては慣れてしまったいつものやり取りを終え、体育館の出入り口で埃のついた靴下を払い靴を履くと地面に爪先を打ち付けしっかりと足を収める。
「ちょい待ち」
まだ何かあるのか。
いい加減私を冷房の楽園へと帰してくれ。
そんな私の気持ちなど露知らず、クロさんは支柱を他の部員に渡すと変わりにマジックを手にこちらへと近寄って来る。
すると不審がる私を他所に何食わぬ顔で私の左手を捕んで手の甲に何か書き出した。
「ゲッ、油性じゃんこれ」
思わず敬語も忘れて言葉が飛び出す。
安定感のない場所で書いた所為なのか、元々字が下手なのか、良く見るとそこには歪な英数字が記されていた。
「何ですかこれ」
「俺のLINEのID」
「聞いてませんけど?」
「またまたー、知りたかった癖に」
「……」
「連絡して来たら研磨のも教えてやるよ」
「…考えておきます」
久々に人に連絡先を教えてもらった気がする。
とは言え、まだ登録すると決めた訳ではないのだけれど…
帰り道、私はLINEのID検索画面を開いては閉じると言う無駄な行動を繰り返していた。
気を紛らわそうと先程頭を過った蝉の生体なぞ検索してみると蝉とカメムシは同じ半翅目と言うことを知りこれまた無駄なショックを受ける。
途中、酷いスコールに遭いずぶ濡れになったがクロさんのミミズみたいな文字は少し滲みはしたものの全く消えることはなかった。
結局お風呂に入っても消えなかった最早残留思念のように皮膚にこびりつく文字に観念してIDを検索する。
久し振りに友人一覧の人数が増えた。
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