融けた浴衣 「凍季也」 そう、静かに彼の名を呼ぶ。私はソファに横たわったまま、台所に立つ彼の背中を見つめていた。 「………」 反応がない。 ぼうっとしているのだろうか。台所に立ち、目の前にはまな板の上に包丁でさっくりと貼り付けられた人参があるというのに、彼の意識はどこか遠くにある。 「凍季也」 もう一度、少しだけ声を大きくして呼びかける。やはり、反応はない。 強いて言うならば、まな板に視線を落としたくらいか。 「…水鏡」 「ん?」 昔のようにそう呼んだら、彼は先までが嘘のように振り返った。人参が真っ二つに切れている。 「もう夏休みも終わるよ。遊びに行ってないよね」 「そういえば、そうだな」 1ヶ月前まで記憶を遡ったが、どうやらそれらしい記憶は彼のデータベースになかったらしく、少しの間をおいて返答した。 彼はまた前を向くと、とんとんとリズミカルに人参を切り分けていく。 「どこか、行きたいところがあるのか?」 「うん」 「どこだ?」 人参を切り終えると、今度は玉ねぎの皮をゆっくりと剥き始めた。薄茶色の皮がするりと剥けていく。その手がすごく綺麗だと思いながら、口を開く。 「夏、祭り」 毎年、終わる夏休みを惜しむように8月最後の週末に開かれる夏祭り。屋台も並ぶし、花火も上がる。 人の多いところはお互いに好きではないけれど、夏祭りくらいは、行きたいと思った。 「夏祭り」 「うん、そう」 玉ねぎをみじん切りするその手を止めて、彼は鸚鵡返しした。私はただ、それに頷く。 「…」 しばらく考えてから、彼はまた、玉ねぎを切り出した。そしてコンロにかけた鍋の中に、ぱらぱらと流し込む。片手で鍋の中を混ぜながら、そうだなと頷いた。 「夏祭り、行くか」 「ほんと?」 「ああ。行きたいんだろう?」 彼が少しだけこちらを見る。ふと、いつまでも絡み合わない視線に嫌悪感を抱く。否、劣等感、不快感、その類のものか。 「今夜と、明日か。浴衣は、」 どうする、とまた視線をそらされる。視線が外れると同時に、嫌な圧迫感が薄れていく。 彼はまだ、鍋の中を混ぜている。玉ねぎは、まだ透明にならないようだ。 「合うかわからないが、姉さんの浴衣があったかもしれない」 「いらない」 反射的に尖った声で返してしまい、彼が弾かれたように振り返る。困ったような、驚いたような、悲しいような、嬉しいような顔をしている。 私はソファから身を起こすと、テレビの隣に置いてあるトートバッグから丁寧に畳んだ浴衣を取り出した。 「自分の、あるから」 「そう、…か」 息が詰まるような静寂が流れ、彼は相変わらず鍋の中を混ぜている。視線は、どこか遠く、遠くにあるけれど。玉ねぎの優しくて鼻を突く匂いがリビングまで流れてきた。 「凍季也」 今日何度目かの、彼の名前をそっと呼びかける。 「…ん」 彼は微かに呻くように返事をした。 「凍季也」 繰り返す。 「なんだ?」 何度でも。 「凍季也」 何度でも。 「…ああ」 彼の名を繰り返し呼ぶ。そのたびに彼は少しずつ異なる反応を返してきた。 玉ねぎを、鍋の中をかき混ぜる音が消えた。 「桔梗」 「なに」 手を止めた彼は、コンロの火を消して振り返った。 「焦がした。食べに、行こう」 へらを、置いて。 「何が食べたい? 祭りなら、何があるだろう」 玉ねぎの焦げた匂いがする。 「行こうか、桔梗」 すごく寂しげな眼をしているから、私は、持っていた浴衣を強く抱き締めた。 「着替えるから、待ってて」 「ああ」 頷いて、彼は鍋をシンクに下ろした。 「凍季也。私は、姉さんじゃないよ」 「ああ」 「私は、桔梗だよ」 「ああ」 「凍季也の、お姉さんじゃ、ない」 「…うん」 彼は悲しそうに眼を閉じると、静かに頷いた。 私は浴衣を手に一度リビングを出た。背中越しに、彼が呟くのが聞こえた。 「ハッピーバースデー、桔梗」 (先輩へ愛を込めて!) |