涙雨の後に。・後 「な…っ!」 ぶっちぎりでテープをきった水鏡が、ゴールの奥にいた生徒に足を引っかけられて、勢いを殺せずそのまますっころぶ。派手に前転して、咄嗟に受け身をとったみたいだったけれど、ジャージを着ていたにも関わらずそのジャージは砂まみれで穴が空いてしまっていた。 「きたねぇ…!!」 どうせいつもの、水鏡を嫌いな奴らだろう。どさくさに紛れてやるなんて、最低だ。ここからじゃわからないが、もしかして水鏡は怪我をしたかもしれない。…いや、もしかしなくても、頭から血が出ていた。 「っ凍季也!!!」 心臓が止まるかと思った。比喩でも何でもなく。 すごい速さで走っていて、自然ゴールしてもしばらく勢いは続く。そこで足を引っかけられたら、普通は転がる。ただ立っているだけの生徒、というのが妙に気になってゴールに歩いていったら、まさか彼らが彼の足を引っかけるとは…思わなかった。喧嘩とか、嫌われるとか、全部忘れて、ただ心配で駆け寄った。ジャージを着ていたのにあちこちすりむけていて、髪はばさばさに広がり、頭から血が出ている。多分、もろにぶつけたんだと思う。 「っつ…」 全身の痛みに加え、脳に衝撃が加えられたのだから…その痛みは、生半可なものではないはず。片手で患部をおさえているけれど、どうしても血が止まらない。傷は深くないけど、でも…とまら、ない。 頭が痛い。金鎚で叩かれているというか、脳を直接揺さぶられているというか…いかんとも形容しがたい痛み。多分血も出ているのだろう。…視界が霞んできた。人影が近付いてくるのに…目蓋が、重い………。 「ねえちょっといい!?」 「ひ、樋口…? なんだよ、ここは生徒会以外立ち入り…」 「ちょっと競技の順番変えらんない?」 「…はあ?」 「クラスリレーとカップルリレー、逆にできないかな?」 「いや、無理だろ…」 「いいや、できる! 生徒会長つまり俺の権限をもってすれば!!」 「ほんと!?」 「ちょっ、会長!?」 「…ただし、それなりの理由があるってことだろ? 納得できなきゃ変更はなし」 「う…そうか…。いや、でもいい。とりあえず話す!」 うっすらと目蓋を持ち上げる。まだ視界が霞んでいて、はっきりとは見えない。見えないが、すぐそばに体温を感じた。…寝かされて、いるようだ。頭に鈍痛が響く。脳震盪を起こしたかもしれない。 「っ凍季也…!!」 ああそうか、なんだか覚えがある心地よさだと思ったら…彼女の膝枕か。……え? 「桔梗………?」 「他にっ、誰に見えるっていうんだ…っ」 「いや……」 …泣いているのか。僕のために?あんなにひどいことを言って傷つけた僕のために…膝を貸して、涙を流してくれているというのか。…ああ、それはなんて幸せなことなんだろう。きっと世界中どこを探しても、彼女を泣かせられるのは僕しかいない。それはいい意味でも、悪い意味でも。だからこそ…君がまだ、僕のために流す涙があるうちに、僕は君に伝えなければならないことがある。 「桔梗…、」 「心配したっ…、血が、とまらなくて…っ、目を覚まさないし…っ、それに、」 まだ、謝ってないのに。 「…っ!!」 どうして、君が謝る必要がある。悪いのは僕なのに。僕が全部、悪いのに。どうして桔梗は…そんなに辛そうな顔をしているんだ? …知っているさ、そんな顔をさせたのは僕だということくらい。なあ、桔梗、僕は君の、笑った顔が見たい。それが僕に向けられたものでなくてもいい。二度と僕に微笑んでくれなくてもいい。…でも。もしも。もしもまだ、僕の声が響くのなら、どうしても聞いてほしい言葉があるんだ。 「桔梗、」 「っ馬鹿…!」 私も、お前も、散々な馬鹿だと言って、彼女は一向に泣き止まない。まだ意識がはっきりとしない。…それでも、僕は、 「あっ、水鏡!? 起きた? 平気か?」 「…ぐち、か」 「おーよ、」 よかったな、と言って桔梗の頭をなでると、樋口はしゃがみこんだ。…今の僕には、嫉妬する権利なんてない。 「お前が寝てるうちに、昼飯終わったぜ」 「…それしか経ってないのか?」 「うん。一時間くらい」 予想外だったが、まだ時間がたくさん残されているというのなら問題ない。 「樋口、次は?」 「クラスリレー」 「え? …たしか、クラスリレーって最後じゃ…」 「なんか順番変えたらしいよ。最後は、カップルリレーだってさ」 『生徒会からお知らせです。午後の競技の順番が変更になりました…』 アナウンスが頭に響く。二日酔いとかこんな感覚であろうかと予想する。それならば二日酔いにはなりたくないものだ。 「本当だ…」 「次はクラスリレーってことだな」 なぜ競技の順番が変わったのかはわからないが、正直今の状態で走れるとは思わない。というか、今は一人で歩けるかさえ危うい。 「ああ、水鏡は休んでろよ。絶対無理だから」 樋口の言い分を、今回ばかりは享受する。…ああ、でも彼女はそういうわけにもいかないのか。この心地よさを手放すのが、すごく惜しい。まだ、後少し…。後少しでいいからこうしていたいと願うのは、やはり僕には許されないのだろうか。 「じゃ、桔梗ちゃんも行こうぜ」 「え…? あ、…ああ」 せめて…最後の種目くらいは出るかと、再び目蓋を閉じた。 「………み、」 意識が、緩やかに浮上する。 「…かがみ!」 覚醒した脳が、目を開けろと指令を下す。 「水鏡!!」 「っ…樋口?」 だいぶ眠っていたらしい。少なくとも、クラスリレーは終わりそうだ。…となると、樋口は僕を起こしに来たわけか。本当に、律儀な奴だ。しかし起こしてもらえて助かった。きっと起こされなかったら、僕はそのまま体育祭が終わるまで眠っていただろう。 「もうすぐ桔梗ちゃんも戻ってくるし、次の競技の準備もあるぞ」 …ああ、なんだ。お前には全部わかっていたのか。隠しているつもりはなかったけれど…、それにしても聡い。まあ、わかっているなら話が早い。準備がいい奴だ、ご丁寧に鉢巻きを持っている。どちらかといえば包帯なんかの方が嬉しかったのだが…、この際何でもいいだろう。出血さえ抑えられれば。樋口の手から鉢巻きをかっさらって、きつく頭に巻く。後ろで縛って髪を流す。まだ微妙に垂れてくる血を乱暴に拭うと、使い物にならなくなったジャージの上着を樋口に押し付ける。…もう、クラスリレーが終わる。 「…世話かけるな」 「ま、たまにはいいよ」 樋口が親友でよかった。そして…まだ、自分に時間が残っていてよかった。 心配で、とにかく心配で、リレーが終わるとすぐに彼の元へ駆けだした。次は最後の競技らしいが、どうせ出ないので関係ない。医務室に連れて行こう。それで病院にも行こう。それからたくさんたくさん謝ろう。謝って、大好きだと伝えよう。きっと私の声は届く。これは自惚れなんかじゃなくて…そう、確信と言うべきだ。 「桔梗!!」 「!?」 名前を呼ばれた。たしかに、世界で一番聞き慣れた、世界で一番大好きな声が耳朶をうった。彼はこちらに向かって歩いてきていた。額に血のにじんだ鉢巻きをして、意外にもしっかりとした足取りで。一歩一歩、クラスリレーが終わって席に戻る生徒たちの流れに逆らって。 「とき…や、」 「桔梗、」 ああ、あなたに名前を呼ばれるとこんなに心が晴れやかになる。何度だって呼んでほしい。呆れながらでも、怒りながらでも、ただ、私の名前を呼んでほしい。それだけで私の心はこんなにも満たされるのだから。 「桔梗、次、出るぞ」 「え、?」 「カップルリレー」 有無をいわさず。まるで数日前の喧嘩などなかったみたいに、あまりにも普通に、あまりにも当然のように抱き上げられて、咄嗟に反応できず固まる。謝ろうと思って用意していた言葉が、全て吹き飛んだ。だって、あまりにも…衝撃的すぎて。 「飛び入り参加大歓迎らしいからな」 やるからには一位をとるぞ、と言って微笑んだ彼の首に、いちもなくにもなく抱きついた。 「さー、突然の順番の変更にもかかわらずこれだけの猛者が集まりました!! だいたいが校内公認カップルですねー!」 「ていうか、飛び入り参加も結構いますね」 「この学校、こんなにカップルいましたっけねー? あはは」 「まあいいんじゃないですか。おも…ゴホン。楽しければ」 「そうですねー。さて、今回の注目カップルはー…もちろん! プラトニックなお付き合い! 姫と忍から脱出の花菱烈火、佐古下やな…」 「ちょおっっっと待ったあ!!!」 「…は?」 「こっちに注目! 校内1のバカップル、かつてないほどの美男美女、誰も文句はつけられない…!! 水鏡凍季也、東雲桔梗っ!!!」 「あー…ああ、なに、出るの? 出ないと思ってた」 「昨日の時点で喧嘩してましたからね。クラスメートに聞いたところによると、どうやら世紀末のような顔をしていたと」 「どっちが?」 「…さー、それでは選手のみなさんは位置についてくださーい!!」 「みーちゃんも出るのか…。負けねえからな!」 「僕が烈火に負けるわけないだろう」 桔梗がすぐそばにいるという、ただそれだけで、こんなにも調子がいい。すっかり腕の中で小さくなっているが、抱きついてくれていることから満更でもないようで、それがさらに機嫌をよくする。世界中を敵に回しても、という言葉は、当人にとってはたしかに嘘ではないらしい。 「この、まま、走る…のか?」 「ああ」 離せと言われても離すつもりはない、と耳元で囁いてやると、顔を真っ赤にして、泣きそうな笑顔で頷いた。…これが、ほしかった。二人で、どこまでも笑いあえる世界が。 「桔梗、これが終わったら伝えたいことがある。…まだ、君が僕の話を聞いてくれるというのなら」 「私、も…っ、凍季也に、言わなきゃいけないことがある」 「…そう、か…」 まずは謝ろう。それから…そうだな、全校生徒の前でプロポーズというのも悪くない。たくさん、たくさん、愛の言葉を贈ろう。どれだけ伝えても伝えきれないほどの思いを、伝えよう。有らん限りの気持ちをこめて、何度だって名前を呼んで、愛していると告げようか。また僕のために、笑ってくれるだろうか?僕は君を、笑顔にしてやれるだろうか? なあ桔梗…時間をくれないか。二人で過ごすための、二人で話し合うための時間を。 「…桔梗、すまなかった」 「え…?」 『選手のみなさんは位置についてください』 「とき…、」 走り出して思う。彼女はこんなにも軽かったかと。まるで羽のようだ。…ああ、でも、天使みたいだとよく言われているか。個人的に天使の彼女はいらない。人間らしい彼女が一番だ。笑って、泣いて、ときには怒って。そんな時間を、二人で過ごしたい。どんなときも、どんな場所も、桔梗がいればそこは、僕にとって、天国よりも素敵な所、なのだろうから。 (ごめん。それから………、愛してる) 「ちなみに、喧嘩の原因は何だったの?」 「ああ、それ気になる」 「…今思うと、本当に馬鹿みたいなことだ」 「え、何さ?」 「…桔梗が、気にするから」 「…何を?」 「…年齢を」 「は? いや、水鏡、それつまりどういうこと?」 「なーる。…実年齢の話ね」 「そういうことだ」 「ちょっ、俺だけわかってない感じじゃない!?」 「まあ、…樋口は気にするな」 「何なんだよちくしょーっ!!」 (…まさか本当は、朝食を一度抜いただけだなんて言えるものか) |