涙雨の後に。・前 「…水鏡さぁ、どうしたの?」 「別に」 「いや、別にじゃないだろ…何したら」 凍土に殴られるんだよ、と呆れたように樋口。今朝一番、学校に来た途端氷雨に頬を張られた。しかも、思いっきり。別にいらないが、容赦なく。おかげで保健室でもらった保冷剤も意味をなしていない。形だけ、赤くなった頬を冷やしている。 正直、今日は学校を休もうか死ぬほど悩んだ。悩んで悩んで悩み抜いた末に、やっぱり、行こうと。もはや一種の習慣になっているのだろう。何か考えるとまず、彼女の顔が浮かんで、こう言ったら、なんて言い返してくるだろうと予想してしまうのは。まさかこんな時でも考えてしまうなんて、自分はどれだけ彼女を愛しているのか、嫌な形で思い知らされた。 「なあ、水鏡、」 「…五月蝿い。お前には…」 「悪いけど、関係ないとか言わせないからな。俺はお前の親友で、凍土の親友でもある」 この男は、本当に見上げた馬鹿だ。自ら面倒ごとに首を突っ込み、それも真面目に手をさしのべてくる。嬉しくもあるが、気遣いは時として何よりも厄介だ。それを今回の件で嫌と言うほど思い知らされた。もう懲り懲りだ。二度と……、 「み、か、が、み! 上の空ってことはまた桔梗ちゃんだろ?」 「………れ」 「喧嘩なんて、いつも水鏡がキスして終わりじゃん」 「……まれ」 「何したらそうなるって…」 「黙れ、樋口」 耳障りだ。 「…凍季也、お前本当に何した?」 「………」 なあ樋口、僕にはお前がそんなに構うほどの価値はないよ。お前には感謝してもしきれないほど、色々なことをしてもらった。だが、僕はまだお前に話していないことがある。話すつもりもない…。そんな僕に、お前ほどの人間がかまう必要があるのか? …ない、だろう。どうして僕にかまう。傷つけたくなくても傷つけてしまうのは、僕の方だというのに。 「…水鏡が話さないなら、あたしが話すよ」 「凍土?」 「別にいいでしょ? あたしが、樋口君とちょっと話をするだけなら」 「……勝手にしろ」 この教室にはいられない。…学校に来たのは、間違いだったか。ここにいれば嫌でも彼女を見かけることがある。彼女の話を聞くこともある。彼女と過ごした時間が、長すぎる。それはもちろん、自宅にいてもそう…むしろ自宅の方が彼女の影は濃いかもしれない。 …わかってるさ、誰が悪いかなんて、そんなことは。 明日は体育祭だと言うのに、窓から見上げた空はどんよりと鈍り雲が垂れ込めていた。いっそのこと雨でも降ればいい。そう思うと、天の悪戯かぽつりぽつりと滴が落ちてきた。 「…はあっ!? 桔梗ちゃんが家出!?」 「そう。昨日、泣きながらうちに来て、しばらく泊めてくれって」 「どういうことだよ?」 「詳しくは知らないけど…桔梗ちゃんは自分が悪いっつってたけど、多分というか今回は間違いなく水鏡が悪いね」 「はー…っ…。…アホか、アイツ」 「馬鹿だね」 「桔梗ちゃんが家出するほどのショック…。水鏡に限って浮気はないだろ」 「桔梗ちゃん、そういうのってあんまり気にしてないしね」 「じゃあなんだろ…水鏡の悪いとこ…」 「…案外、些細なことかもね」 「は?」 「何が、ってわけじゃなくても、キッカケがあれば均衡なんて簡単に崩れるでしょ?」 「なんだよそれ…。たまたま投げたボールがガラスわったみてえな話なのか?」 「まあ、そんなとこじゃない?」 「…凍季也のヤロォ…!」 「まあまあ、怒らない」 「けど!」 「一晩頭を冷やせば元に戻るかもしれない。あたしたちは事情を知らないわけだし、勝手に動くのはよくない」 「もし、明日アイツが動かなかったら?」 「ん? ぶん殴る」 ああ、自分は本当に彼のことを愛しているのだと思った。あんな身勝手なことを言って、向こうの話もろくに聞かずに勢いだけで着の身着のまま飛び出してしまった。氷雨は何も聞かずに、家にあげてくれた。その気遣いが、とても嬉しかった。いつまでも世話になるわけにはいかない。早く、謝らなければ。早く、会いに行って、大好きだよと伝えなければ。そう思っているのに、心ばかりが空回りする。 無理矢理学校に行ってみたものの、あちらは姿を認めるとすぐに視線をそらした。もちろんこちらだって、あわせられるはずがない。…だって、絶対に嫌われた。あんなことを言って、あんな態度をとって。今までだって、散々迷惑をかけてきたのに…最後が、あれが、別れになるなんて信じたくなかった。 明日は、私の気も知らずに体育祭があるらしい。いっそ雨でも降って中止になればいいと思ってしまう自分の心の醜さが嫌だった。 「朝…?」 目が覚めて、しばらく微睡む。無意識のうちにベッドの中をまさぐり、いつものふっくらとした温もりがないことに気がついて目を開ける。…ああ、そうか。いるはずないんだ。いったい僕は、どれだけ彼女に依存していたのか。昨夜寝つきが悪かったことにも関係しているのだろうか? …どうしてだろう。こんなにも好きなのに、それが真っ直ぐ伝わらないのは。…今まで、人との関わりを断ってきたからか。…そうじゃ、ない。わかっているのにわからない。ああ、どうして僕は今一人なのだろうと真面目に考え込む。その答えは、単純明快であるというのに。 「…面倒くさい」 体育祭なんて…。それも彼女がいないなんて、ますます価値がない。やはり休もうか。なぜか知らないが、昨日とは打って変わってまさに天晴れな快晴にため息がこぼれる。どうせ僕がいなくても競技に影響はないし…、と彼女と出会う前のような思考の元、再び布団をかぶると同時にケータイが着信した。聞き慣れた、電話の着信音。馬鹿みたいな期待を持ってディスプレイを見る。 「……なんだ、樋口か」 『なんだってひどくね?』 それは、そうだよな。まさかあんなひどいことを言ってしまって…向こうから電話をかけてくるなんてありえないな。僅かでも期待を抱いた僕が馬鹿だった。…ああ、そうだ。僕が悪かった。今まで不安にさせたことも、悲しませたことも、全部、全部謝るから。…だから、どうか僕の元へ、帰ってきてくれないか………桔梗。 『あのさ、みか…』 「すまない樋口。これから支度をして家を出るんだ。学校でな」 問答無用で、きる。 桔梗に会う。今はそれ以外何も考えない。桔梗以外は、本当に…何もいらないんだ。 ジャージに袖を通して髪を結っていると、今日は休むと言ったら「高校生最後の体育祭なんだからちゃんと参加しろ!」と怒る彼女が容易に想像できて、一人で笑った。笑っているのに、苦しかった。 「朝…?」 目が覚めて、肌寒かった。毎朝、私を拘束しながらも温もりと安心を与えてくれていた身体が、すぐそばにない。それどころか、どこにもない。手が届かない。 …何でだろう。本当に、私の気持ちとは裏腹にこんなに澄んだ空をしているなんて。…学校に行くのが怖い。わかってる。きちんと話をしないと何も解決しない。きちんと話をすればきっとわかってくれる。私が謝ったら、困ったように私の頭を撫でてくれるのだろう。大きな手の温もりも、綺麗と表現するのがぴったりな笑顔も、みんな覚えているのに。 「桔梗ちゃん? 起きた?」 「あ、ああ…」 「…学校、行く?」 正直、とても行きたくない。行きたいけれど…どんな顔をして会えばいいのかわからない。なんと言えばいいのかわからない。もしもまた、今度こそ、はっきりと…嫌いと告げられたら。立ち直れないどころの話じゃない。…自殺、するかもしれない。それくらい、好きだ。愛しているのだ。…傷つくのが怖いから会えないだなんて、いつから私はそんなに弱くなったのだろう。いつからそんな意気地なしになったのだろう。…もしもまだ、希望があるのなら。…もしもまだ、私の声が届くのなら。 「………行く、」 愛しているのだと伝えたいんだ、凍季也。 「来たねー」 「来たね」 「やる気ないけど」 「今はないね」 「あとから出てくると思う?」 「うん」 「…まー俺もそう思うけど」 「とりあえず、あたし障害物競走出てくる」 「あ、いってらー」 「たしか、選抜リレーとクラスリレーだけだったな…」 面倒だからと競技に出るのを拒んでいたら、いつの間にかそうなっていた。選抜リレーは学年関係なく行われる。昼前の競技だから、正直体力と精神力が保つか不安だ。 …今朝は久しぶりに朝食を抜いた。そもそも今まで朝食を食べていたという方が僕的にはすごい。それもこれも、桔梗が…。 「………、」 口を開きかけて、閉じる。まだ、呼べない。何度謝っても足りないくらいだが、それでも…今はまだ、駄目だ。 『選抜リレーの選手のみなさんは、テント前に集合してください…』 「おっ、出番だな! がんばれ、水鏡ー!」 「…ああ」 これはどうでもいい。昼もこの際いらない。というか最初から最後まで、僕は桔梗以外はどうだっていいんだ。桔梗が言うから、周囲の様子を気にかけているだけであって…。…ああ、本当に。僕は、どうしようもないくらいに、彼女を愛しているようだ。 「あ、水鏡。そういえば総合優勝のクラスは賞品がもらえるらしいよ。しかもそれ、クラスが認めたMVPが受け取って、ついでに挨拶もするらしい」 「…そうか」 氷雨の態度は、よくわからない。けれど言いたいことはわかった。…まあ、誰に選ばれなくたって僕は伝えるだけなんだが。 「じゃ、あたしあっちで待機だから」 アンカーよろしく、と去っていく氷雨。…アンカーは面倒くさい。でも、偶には面倒ごとを引き受けるのもいいかと思った。…もちろん、桔梗限定で、だが。任されたからには、必ず一位をとる。普段はどうでもいいが、今日ばかりは話が別だ。死んでも走りつづけなければならない。 開始のピストルが………鳴った。 ああ、やっぱり走るんだ。スタートダッシュと同時に、その水色の髪が視界に飛び込んできた。気がつけば目で追ってしまう。どうしても、隣にいないと落ち着かない。…ああ、もう。この際欲張りだと言われてもいい。私はただ、凍季也と一緒にいたい。一分一秒でも多く、隣で…。 彼女が走っている姿を見て、心の底から綺麗だなと思う。風になびく髪が、こぼれ落ちる汗が、ひたむきな視線が、全てが愛おしい。その一挙手一投足が、強烈に網膜に焼き付く。…例えクラスや学年が違ったとしても、彼女が見られて良かった。選択は正しかった。…後は、僕が四百メートル走り抜けるだけ。トラックを一周。疲れるだろう、とは思う。だが、きっと走りきった後にはそんなこと気にならなくなっているはずだ。そんなことよりも、もっと、大事なことがあるのだから。 …僕の前が氷雨なら安心だろう。今は何も考えずに走ればいい。…多分、桔梗のことを考えながら走ったら、気がつけば足が止まっている事態になりかねないから。 「水鏡…!」 「………ああ!」 他のクラスとは、最大で半周差つけている。一番近くて…十メートル。引き離せる。どうせクラスリレーの結果は予測できない。ならば…確実に勝利を目指す! ジャージ、脱げばいいのにと思った。ちゃんと髪を結っているんだとか、すごく速いなとか、そんなことを思ったけれど、それよりも…ただ、かっこいいと思った。綺麗、でもいいかもしれない。とにかく、視線を奪われた。完全に、心がひきつけられた。彼には適わないな、と苦笑いして立ち上がると、ゴールテープの奥…係りではない生徒の姿が見えた。 振り返ることはしないけれど、すぐ後ろにはどうせ誰もいない。氷雨の時点で追走しているのはほとんどいなかった。ならば僕に追いつけるのはさらにいないだろう。ジャージが風にはためいて、少し邪魔になってきた。脱いでおけばよかったかと後悔する。ああでも、そんなことはどうでもいいか。僕はただ…走り抜けるだけなんだから。 ゴールテープの向こうにいるのが誰だって構わない。ただ、彼女であれば嬉しい。彼女でなければ、彼女を探すだけだ。…そんなことを考えながらゴールテープをきると、 ………世界が、ひっくり返った。 |