惚れたが負け 「あ。おはよう、翔君」 上履きの踵を踏んでぺたぺたと廊下を歩いていると、声をかけられて足を止める。 「ああ、はよーさん」 自分よりずいぶん下にある頭に向かって挨拶を返す。 嬉しそうに笑ったクラスメイトにどんな表情を返したものか迷ったが、すぐに足を動かした。 「あれっ、教室行かないの?」 「一時間目は現国だろ。出席は足りてる」 「もう! すぐにそういう!」 「じゃあな、委員長」 そのまますれ違おうとすると、学ランの裾を掴まれて、僅かに引っ張られる。振り払っていくことももちろんできたが、何となく気が引けたので、足を止めて振り返る。 きりりと吊り上げられた眉に気の強そうな目でじっと見つめている。学級委員長の目をしているときのこいつは、ちょっと苦手だ。普段は風が吹けば飛びそうなくせに、なかなかの頑固者で譲らない。去年一年同じクラスで過ごして、校内きっての不良である俺にもたじろがなくなってしまったようだ。過剰に怯えられるのも面倒だが、まったく恐れられないのも面子が立たない。 溜息を吐いて、頭をかく。 「委員長?」 「翔君、勉強嫌いじゃないんでしょ? それじゃあ一緒に教室行こう」 「嫌いじゃねえが、好きでもねえ」 「学校来てるくせに」 「それとこれとは関係ねえだろ」 向こうも引かなければ、こちらも引かない。朝っぱらから厄介な相手につかまってしまった。とはいえ、言った通り勉強が嫌いなわけでもないし、学校が嫌いなわけでもない。惰性以外の感情でここまで足を運ばせるものがあるとしたら、それは目の前の人物に他ならない。 「……けどまあ、お前に免じて今日のところは授業に出てやる。行くぞ、桔梗」 「! うんっ!」 根負けして言えば、我らが学級委員長――伊林桔梗は満面の笑みで頷いた。 まったく、泣く子も黙る8823が、女子一人に頭が上がらないなんて、笑い話もいいところだ。 桔梗とは、一年前の春――つまり入学式の日に出会った。 不良が何をクソ真面目にと思ったが、親父が泣きながら頼んできたのだ。それも、弟妹を産んで早くに亡くなった母親も望んでいると言われれば、それが本当か嘘かわからなくとも、頷くしかない。 一秒でも早く式が終わるように願いながら、パイプ椅子に体を沈めていた。 体育館で長ったらしい話を聞き終えて、ぞろぞろと教室に移動する。担任の七面倒な話を聞き流していると、いつの間にか頭髪検査が始まっていた。 元々、母親譲りで髪の色素は薄い。しかしそれに重ねて金に染めているから、まず間違いなく引っ掛かるだろう。面倒はごめんだ。いっそ窓からフケるか、と考えたところで、生徒指導のゴリラみたいな教師が机の前に立ちはだかった。 「お前、その頭はどないしたんや?」 「どうもしてねえ。何でもいいだろ」 「何やて!?」 舌打ちしながら言えば、胸倉をつかまれて立たされた。とはいえ、立てば俺の方が背は高い。じろりと見下ろせば、息をのむのがわかった。 「……チッ。地毛だよ。文句あるか」 入学式当日に教師を殴れば面倒になることは間違いない。苛立ちを押さえて言うが、教師は怪しげな視線を向けたままだ。 「ホンマか?」 「ああ」 「信じられへんな。小中の時の写真を持って――」 「あ、あの!」 いよいよ面倒くさくなってきて眉をひそめた時、横槍が入った。女の声に目を向ければ、制服姿の小ぢんまりした女が立っていた。俺でも地毛か疑うような明るさの茶髪をカチューシャで留めている。もちろん、知らない顔だ。 「なんや、伊林か。お前の登録はもう済んだやろ」 「そうなんですけど、あの、彼も地毛です。私、小学校が一緒だったので知っています」 「何? ホンマか?」 こいつ、伊林っつーのか。なんて思っていると、急に話を振られて目を瞬く。伊林とやらを見れば、彼女は真っ直ぐにこちらを見つめている。 「……ああ、お前、伊林だったのか。久しぶりだな」 「ね? 先生、だから彼も地毛登録してあげてください」 ゆるゆる頷くと、伊林は待ってましたとばかりに教師に向かう。 「ま、まあ、伊林がそこまで言うんやったら、ホンマなんやろ」 押された様子で頷いた教師は、そそくさと教室を出ていった。すっかり見送ってから伊林を見ると、ちょうどこちらを振り返ったらしく目が合うところだった。 「良かった。私、伊林桔梗。一年間、よろしくね」 「……8823だ。お前、別に小学校一緒じゃないよな?」 「う、うん。ごめんね、勝手なこと言って。でもあの先生に目を付けられたら大変だって聞いたから……あの、お節介だったら、本当にごめんなさい」 確認のために訊ねれば、先程まで教師に詰め寄っていた気の強さはすっかり息を潜め、控えめな様子で俺を伺っている。 「……面倒よりはまだいい。助かった。それより、なんであんなことを言ったんだ?」 せっかく立ったものの、帰ることすら億劫に思えて乱暴に腰を下ろす。座ることでようやく彼女と目線の高さがそろう。 伊林は戸惑った様子を見せた。机に頬杖をついて言葉を待っていると、恐る恐る、といった風に口を開いた。 「あの……立ち聞きしちゃって……」 何を、と問い重ねる前に彼女は続けた。 「8823君、父子家庭なんでしょう? だから……ええと、何ていうか……」 先を言い淀む伊林の言葉を聞いて、息をのむ。確かに親父はやたらと騒いでいたから、その時の話を聞かれていたのだろう。自分が父子家庭であると知られるのは別に嫌ではない。もっと言えばどうでもいいのだ。しかしそれで同情されるのは気に食わない。相手が男なら一発お見舞いしているところだ。 ――だが。 なぜか、彼女に対してはそう言った感情が湧きおこらない。むしろ自分自身、戸惑ってさえいた。初めて喋った相手だ。助かったとはいえ、正直彼女がいなくとも何とかなった話だ。気に食わない相手は、遠ざけてしまえばいい。それだけなのに――――それが、どうしてできない。 「もういい。……借りは必ず返す。だが、だからといって気安く近付くんじゃねえぞ」 「うん。ありがとう。よろしくね」 そう言って伊林は離れていった。その背中を見ながら、俺が言った言葉の意味を本当にわかってるんだろうかと思った。 ……まさか、これをきっかけに、一年間口やかましく付きまとわれるとは、この時は思いもしなかったのだ。 「翔君、午後も受けるよね?」 「何で断定なんだ。午後はフケるぜ」 えっ、と桔梗は驚いた顔を浮かべた。授業が終わるたびに「次も受けるよね」「まだいるよね」と訊ねられ続けて、ようやく迎えた昼休み。一日中机に向かいっぱなしなんて性に合わない。自分が桔梗に弱い自覚はあるが、それでもこれ以上は限界だ。 「ここまで来たら、もうちょっと頑張ろうよ!」 席を立って教室を出ようとすれば、桔梗がうろちょろとまとわりついてくる。 「桔梗。お前、昼はいいのか」 「翔君の方が大事だもん!」 「……じゃあ、お前もフケるか?」 「そんなことできるわけないでしょッ」 むくれながらそういう桔梗を気にせず、歩き出す。彼女は冗談だと思っているかもしれないが、俺は結構本気だ。真面目で、人の家庭事情を立ち聞きしたくらいで咄嗟にかばいたてるような優しい心を持ったお節介な少女。そんな性格だから学級委員長に任命されたにもかかわらず、嫌な顔一つせず仕事に取り組んでいる。その姿を見ていると、彼女の言葉を無碍にはできない一方で、ちょっかいもかけたくなる。 その気になれば桔梗一人など振り払えるが、あえて彼女に歩調を合わせてやっていることに、本人は気付いているんだろうか。 「ねえ、翔君ってば」 いつからだったろう。俺が彼女を、伊林ではなく、桔梗と呼ぶようになったのは。去年の冬頃だっただろうか。その後から、俺のことも名前で呼ぶようにと言った気がする。 「聞いてる?」 「ああ」 階段を下りて、昇降口に向かう。桔梗はまだ諦めずに追ってくる。 「もう……翔君はどうしたら授業受けてくれるの?」 下駄箱から靴を取り出す。よれた上履きを突っ込むと、ご機嫌斜めの桔梗に向かって笑う。 「次の土曜日に付き合ってくれるんなら、考えてもいいぜ」 「えっ? うん、いいよ」 「じゃあな――って、今なんつった?」 ひらりと片手を振って颯爽と後にしようとしたところで、思わず聞き返しながら振り返った。 「土曜日でしょ? 大丈夫だよ」 平然と頷く桔梗を見て、頭をかく。中々に予想外だ。とはいえ、男が一度口にしたことを曲げるわけにもいかない。今日は当然帰るつもりだったし、何なら明日は一日フケるつもりだったが、予定変更だ。 「今日は帰るが、明日はちゃんと受けてやる。……それと、土曜日だぞ。忘れんなよ」 「うん。明日も土曜日も、楽しみにしてるね」 「……じゃあな」 今度は桔梗も引き留めてこなかった。これ幸いと、早足で校舎を後にする。 桔梗を相手にしていると、まったく調子が狂う。三年を締めている深瀬さんがしばらく姿を見せていないから、気が緩んでいるのかもしれない。天下の8823がなんて様だ。 しかし一方で、土曜日を心待ちにしている自分がいることも否定できない。厄介な話だ。喧嘩ならほとんど負け知らずのこの俺が、どうにも手を焼くなんて。 惚れた方が負け、というのは、あながち間違いではなさそうだ。 |