short | ナノ






ハイヒール脱ぎ捨てて



「アンタのろくでもないツラなんてもう見たくないわ! とっととお気に入りのシニョリーナのところへ行けばッ!?」
パン、と高く乾いた音。左手に伝わるじんとした痛み。伸びてきた手を振り払ってくるりと背を向ける。――引き留める言葉はない。期待していたわけではないけれど、結局彼にとって私はその程度の女だったと思い知らされるようで腹が立った。カツカツとヒールを鳴らしながらその場を離れていく。どんどん広くなる歩幅。肩で風を切って、それでもまだ足りないと足を速める。
――――パキ。
「あ、」
不意に耳をつく不安定な音に、崩れるバランス。咄嗟に手を出したものの、膝を地面につくほうが速かった。呆然としながら見れば、右のヒールが根元から折れている。決して安い靴ではなかったのに。彼が好きなピンヒールは、大人びた黒。私は気分が沈むからあまり好きな色ではなかったけれど、よく似合うと彼が言ってくれたから、それが嬉しくて、それだけで天にも上る気持ちになれたから、デートの時はいつも履いていた。
肩の力を抜いて辺りを見回す。地面に座り込んだ私を、通行人は少しだけ心配そうに見る。膝が痛むけれど、怪我はないようだ。少しよろけながら立ち上がる。ぐらぐらと揺れる不安定な右のヒールを脱ぐ。そのままぺたりと地面に足を下ろす。そのまま左のヒールも脱いでしまうと、足は随分と楽になった。
「私は――自由よ」
すうっと息を吸い込む。ヒールは嫌いではないけれど、黒は嫌いだった。彼が好きだと言っていたゆるやかなウェーブもこれ以上伸ばす必要もない。膝下まであるスカートを着なくてもいい。ティーを我慢してカッフェを飲むこともない。私はただひたすらに、自由だった。
自分の好みとは異なるほうへ強制されている感覚はあった。けれど彼が好きだったから、そうしていると彼が嬉しそうに笑っていたから、私は我慢できていた。
――すまない、アイリス。別れよう。
いつからだったのだろう。彼が私を見なくなったのは。それとも、はじめから彼は「私」など見ていなかったのかもしれない。理想のシニョリーナとデートをする。それだけが彼の求めていることだったのかもしれない。今となってはもうわからないし、どうだっていい。彼のことが好きだったのは事実。けれどいつまでも腐っているような女ではない。我慢してまで付き合っていた彼が浮気をしていて、相手の女と付き合いたいから別れよう、と言われたのがつい先刻のこと。その場で彼の頬を打った。彼が持っていたバラの花束は、私ではなく、その女に贈るものだったのだろう。
「この靴も、もういらないわね」
どこかクズかごを見つけたら迷わず捨ててしまおうと決意して右手に提げる。どこへ行こうか。このまま家には帰りたくない。かといって裸足じゃ店へも入れない。顔を上げて辺りを見回すと、多くもなく、かといって少なくもない人波が見えた。急に、海が見たくなった。そうだ、海を見に行こう。そうと決まれば足は軽い。ぺたぺたと足音を立てながら歩き出した。
「Ciao(やあ)、シニョリーナ。夏にはまだ早いと思うけど?」
肩をとん、と叩かれて振り返る。太陽に輝く金髪と女好きのしそうな笑顔の男が立っていた。何かスポーツでもやっているのか、体格は良い。当然と言っては何だが、私の知り合いではない。
「ヒールが折れちゃったのよ。放っておいて。今は男と話す気分じゃないの」
「Mi scusi(すまない)。それじゃ、気を付けてお行き」
「Grazie(ありがとう)、シニョール」
男は特にすまなさそうな顔はしなかった。この国ではよくあることだ。いつもならばティーの一杯くらい付き合うのだけれど、今は心底男と言葉を交わしたくない。この色男には申し訳ないけれど、さっさと切り上げさせてもらう。男は軽く手を振ると、すぐに背を向けて歩き去った。背中に回した手には、バラの花束。彼もまた、誰かに会いに行く途中だったのだろう。すぐに視線をはがして海に足を向けた。



「恋なんて二度とするかっ、バカやろー!!」
海に向かって叫ぶと、いくらか気持ちは楽になった。気休め程度だとわかっていても、気分というのはやはり重要である。
ヴェネツィアの海はいつ見ても美しい。けれどたいていは港にゴンドラが停泊していて、人目を気にせず叫ぶことなどできない。けれど港から少し離れたこの場所は、今はもう使われることがない。長年海水にさらされたせいで石が腐食し、崩れかけていて危ないのだ。ただ海があるだけで子供たちの遊び場にも退屈で、私のように寂しい人間くらいしか訪れることはない。そして今、そんな寂しい人間は私一人だ。
「……ばっかみたい」
どうしてあんなに好きだったのか、どうしてあんなに一生懸命だったのか、今となってはもはや思い出せない。彼をひっぱたいたとき、好きだったときの気持ちをすべて置いてきてしまったようだ。もう恋なんてしない、とは実際のところ言いきれないけれど、それでもしばらくはごめんだった。黒いヒールも、バラの花束も、やっぱりしばらく見たくない。
「――Ciao、シニョリーナ」
港に座って足を投げ出していると、頭上に影がかかって、どこかで聞いた声が降ってきた。一度見れば忘れられない、太陽のように輝く金髪に、呆れ気味に返事をする。
「……Ciao、シニョール。あなたもしかして暇なの?」
「まさか。これでも俺は忙しくしている身でね。ただ、君にもう一度会いたくなって探したんだ」
「熱烈な言葉をありがとう。でも言ったでしょ、男と話す気分じゃないって」
「それじゃせめてこれだけでも受け取ってくれないか?」
「なあに?」
名前も知らない色男。バラの花束の代わりに、手には紙袋を二つ提げている。両方とも私に差し出してくるので、気分はあまり乗らないけれど興味本位で覗き込んだ。目に飛び込んできた、アドリア海のように鮮やかなブルーに一瞬言葉をなくす。ピンのように細いけれど、高さは大したことのない青いハイヒール。
「これ……」
「さっき折れたって言っていたからね。それとこれも、君に」
もう一つ差し出された紙袋を見れば、そちらにはヒールのない真っ白なサンダルが入っていた。思わず紙袋を二つとも受け取ってしまい、男を見上げる。私の困ったような視線に、男はにこりと笑みを浮かべた。細くなったエメラルドグリーンの瞳の下には、小さなあざがある。
「お転婆も嫌いじゃあないが、君の美しい脚が傷つくかもしれないと心配するのは心臓に悪い。……それとも、プレゼントにはバラの花束のほうが良かったかい?」
「とんでもないわ! そんなものを持って来られたら、私はきっとあなたと口を利きもしなかったでしょうね」
ふと思案する男の言葉に、慌てて首を横に振った。今もっとも見たくないものの一つが、バラの花束だ。バラの花なんて美しいだけで心を慰めてはくれない。それを言えば新しい靴だって特別慰めになるわけではないのだけれど、私はどうしてかこの色男と言葉を交わすのが思うほど嫌ではないことに気が付いた。
「せっかくだから、あなたの名前を聞いてもいいかしら?」
「Si, certo(もちろん)! 俺はシーザー。シーザー・A・ツェペリだ」
尋ねると、嬉しそうにはにかんだ色男――シーザーは気軽に答えてくれた。柔らかなその微笑みは少年のような無邪気さが垣間見えて、どきりとする。恋なんてしばらくはごめんだと叫んだばかりなのに。
「俺も君の名前を聞いてもいいかな?」
「あまり気は進まないのだけど、私だけ言わないというのもあなたに悪いしね……アイリスよ」
「美しい名前だね」
「Grazie.」
「素っ気ないな。やっぱり男と話すのは嫌かい?」
「あら、気分を悪くしたのなら謝るわ。あなたとなら、まあ、少しは話してもいいかと思っていたのよ、シーザー」
「それは光栄だ。カッフェでもどうかな?」
「あー……いいえ、それは遠慮するわ。デートをする気分じゃあないの」
シーザーから受け取った紙袋を所在なさげに持っていると、彼は私の隣に腰を下ろしてから自然に紙袋をよけて置いた。先程頬を張ってきた彼もイタリアーノとして十分にエスコートをしてくれたけれど、シーザーはエスコートしているという雰囲気がない。自然体そのもので、これが生粋の色男なのだと主張しているかのようだ。
まじまじと見つめていると、彼は私の視線に気付いてまたはにかんだ。それからあっという間に磨き上げられた革靴と靴下を脱いでしまうと、私のように足を投げ出した。
「お行儀が悪いんじゃなくて? シーザー」
「俺とアイリスだけの秘密さ」
道ですれ違っただけの仲の私にそんなことを言う彼は、大人びた風貌に反してまだ若いのかもしれない。懐から何かを取り出した彼は、小さな容器のふたを開けた。
「なあに、それ」
シーザーは私の問いには答えず、人差し指と親指でわっかを作ると、そこに息を吹きかけた。七色に光るシャボン玉が、彼の手から次々と空に放たれていく。大小さまざまなシャボン玉が、潮風に乗って飛んでいく。太陽と海の輝きに挟まれて、宝石よりもずっと眩しい。
「シーザー」
名前を呼ぶと、シーザーはこちらを振り向いた。けれど、何も言わない。
「ハイヒールをはかない女の子は嫌い?」
私がそう訊ねると、彼は大きく口を開け、気持ちいいほどに笑った。
「ハイヒールなんて、脱ぎ捨ててしまえばいいさ」