short | ナノ






愚者



「犀賀先生、203号室のカルテです」
「ああ。ありがとう」
手元の書類に目を落としたまま一瞬だけナースの方を見て、カルテを受け取る。そのまま途中の書類に目を戻し、受け取ったカルテは手が空いたら見る書類の山に乗せた。それももう随分な量になっている。
閉鎖的な村の病院だからといって閑古鳥が鳴いているわけではない。むしろ閉鎖されているからこそ救急搬送などが行えず、内科外科問わず小児から妊婦まで広く受け入れなければならない。かといってそのために複数の医師を迎え入れる余裕もなければ、わざわざ村を出て都会の大学で勉強して医師になるほどのもの好きもいない。そうして村唯一の病院には仕事が溜まる一方で、看護婦たちにこまめな休暇などを与えていれば自分が缶詰にならざるを得ないのは、火を見るよりも明らかなことだった。
もっとも、病院の仕事の他には祭司としての役目くらいしかすることがない。俺はほとんど病院で暮らしていると言っても過言ではないが、別にそれを苦だと思ったことはない。看護婦たちにはよく「仕事人間」と呼ばれている。それを否定するつもりはないが、この村で仕事以外にすることがあるのかとこちらから訊ねてやりたいくらいだ。
「……ふう」
さすがに根を詰め過ぎたのか、書類の睨みすぎで目の奥が疲労を訴えている。こめかみの辺りを抑えると頭が鈍痛を主張していた。コーヒーでも飲んで続きをしようと立ったとき、先程受け取ったカルテがちらりと見えた。
――203号室、佐々木桔梗。
少し前から入院している、ここで働いている看護婦たちよりも少し年若い少女だ。不治の病というわけではないのだが、治療が非常に難しい病気で、本来なら都会の大病院に搬送するべき病だ。おそらくここで面倒を見ていれば多少は生きながらえることが可能かもしれないが、生存率は最終的に零になる。遠回しにそうと伝えたが、一家は最後まで側にいることを望んだ。もちろん、本人には伝えていない。
カルテを手に取って今日の検査結果を見る。やはり芳しくない。かといって今日明日の命というわけでもなさそうだ。本人に治す気があるのなら、容態が簡単に崩れるということもないだろう。コーヒーのついでに、様子を見ておくべきか。
廊下を歩いていると、看護婦たちに挨拶される。今日はあまり自分の部屋を出ている患者はいないようだ。俺の姿を見て慌てて仕事に戻る看護婦たちに注意をして、203号室の前に立った。二回、軽めのノックをする。
「はい? どうぞ」
中からの返事に扉を開けると、「あれ」と不思議そうな声が上がった。
「犀賀先生、こんにちは」
「気分はどうですか?」
「ふつう、かな。犀賀先生が来てくれるなんて、珍しいですね」
「確かにあまり来ませんが、私の病院ですからね。何もおかしなことではないでしょう」
「それもそっか」
ベッドの上で身を起こして快活に笑う桔梗は、美耶古さまとあまり歳の変わらないようにも見える。昔から病弱で入退院を繰り返していたため、外のことをあまり知らないのだろう。無垢で無邪気、とはこの少女のためにあるような言葉だ。
「今日は天気がいいですから、ナースに頼んで散歩をして来たらいかがです」
病室に吹き込むぬるい風に窓の外を眺める。すぐに変わる外の天気は病人には障るとあれほど言っているのに、今日は温暖な気候だからか、看護婦の誰かが窓を細く開けておいたようだ。出ていくときに閉めるにしても、たまの息抜きくらいは許可しても差し支えない。見舞いに来る家族や看護婦たちとの会話くらいしか娯楽がないのだ。年頃の少女にはいささか物足りないだろう。
「……いい。天気がいい日は、体調が悪くなるんです」
「天気がいい日に?」
「そう。お父さんもお母さんも、看護婦さんたちも天気がいいと『今日は調子が良さそうだね』って言うけれど、本当はそんなことないの。太陽を見るたびに、今日も死に近づいてるんだなあって思うの」
「……そんなふうに言ってはいけません。貴方がその様子では治るものも治りませんよ」
「何言ってるの、先生。私の病気は治らないんでしょ?」
「!」
思わず言葉に詰まり、驚きを露わにしてしまった。これでは桔梗の言葉をあからさまに肯定しているようなものではないか。少女を見れば、いつも浮かべている年頃の無邪気なそれではなく、穏やかで悟ったように静かな笑顔を浮かべていた。それを見て、おそらく俺がどう言いつくろっても無駄であったことを知る。分かっているのだろう。自分の体なのだから、当然かもしれない。
「みんなこんなに若いのに可哀想、早く治るといいねって言ってくれるんです。でも治らないの。私はそれを知ってるから、自分を可哀想とは思わないの。だって思ってもどうしようもないんだから」
いつもの無邪気な笑顔で、桔梗は言い切った。
犀賀医院には子供から老人まで、存外いろんな患者がやってくる。それでもここで最期を迎えるのは病気や老衰の老人が多く、若者が怪我以外で入院することはあまりない。だからこそ若い少女の病気に村人の多くは心を痛める。関係ない患者からも、「先生、あの子を治してやってねぇ」と言われるほど。俺とて立場は立場だが医師の端くれだ。不治の病でない限り手を尽くすが、設備が整っていない以上はどうしようもない。最善を尽くして、延命を図るばかりだ。
「先生、ごめんなさい。私、黙ってれば死ぬのにね。お父さんとお母さんが言うから、色々してくれるんでしょ?」
「患者を治療するのは、医師として当然の――」
「治らなくても?」
「……それが医者という仕事だ」
建前上、桔梗の言葉を認めるわけにはいかない。しかし彼女の方が現状をよく理解している。正直取り繕うのも面倒になって、あとは察してくれという風に言葉を投げた。
「あ……ごめんなさい」
「?」
急に気落ちして謝る桔梗を、片眉を上げて怪訝に見やる。こちらが手を尽くせずに謝るというのならわかる。しかしなぜ少女が謝るというのか、言動がいちいち唐突で理解できない。
「犀賀先生のこと、困らせちゃって……」
「ああ……別に、困ってませんよ」
「本当?」
「ええ。それより、今日もあまり検査の結果が良くなかったようですね。ちゃんと治そうという意志を持って、治療に取り組んでください」
「はーい」
本当に治す気があるかは別にして、桔梗は元気よく返事した。もう話すこともないだろう。何のために院長室を出たんだったか、ようやく思い出した。コーヒーを淹れようと思っていたのだ。
「では、私はこれで」
「あ、先生」
「……何か?」
病室の扉を開けようと手をかけたところで、少女に呼ばれる。その声音がいつもの快活なものではなかったので、怪訝に思いながらも振り返った。先ほど浮かべていた静かな笑みですらない、ただ年相応に大人びた真面目な表情だった。こんな顔もできるのかと変な方向に関心してしまったが、桔梗は構わず口を開いた。
「私がもうすぐ死ぬ時には、その前に犀賀先生が私を殺してください」
思わず絶句する。ふざけている様子ではない。心の底から、真剣に考えた上での言葉だろう。黙って見つめていても、俺を見つめ返す視線は真っ直ぐで揺るがない。そこでようやく、桔梗の言葉をきちんと吟味した。
――彼女が死ぬ時には、その前に、俺に殺せと。
確かにそう言ったのか。治せずに見送ることはまだしも、医者に殺せと言うのだ。普通に考えれば断られるはずなのに、あえて伝えた。相当な覚悟の上だろう。
「……何を馬鹿なことを」
しかし医者という立場でなくとも、自分を殺せと言われて頷く人間はそうはいない。よほど苦しんで死ぬことになるのであれば、家族と相談した上で最期に麻酔を使うなり、死期を早めることなりはできる。具体的な手段を患者が知らないのは当たり前だ。しかしそれにしても桔梗の言い方は、俺に直接手を下せと言っているようにしか聞こえない。はっきり言って、気分のいい話ではない。
「ふふ。お願いね、先生」
次第に自分の眉が寄っていくのがわかったが、それでも桔梗は朗らかな笑顔を浮かべて念押しのように言った。
もはや少女の言葉がどこまで本気なのかわからなくなってきたが、これ以上関わっていても頭痛が増すだけだ。今までのようにただの可哀想な患者の一人とは思えなくなったが、それだけだ。実際に言葉通り俺が少女を手にかけることなどあるはずがない。それ以上は何も言わず病室を後にした。



屍人になった、かつての知り合いたちを散々撃ち殺した。美耶古さまを探し歩いている時、サムと名乗る外国人と出会い、犀賀医院までやってきた。色々と警戒事項は多かったが、同行者であるサムの妻と何とか連絡が付き、二人は娘を探しに行くと言って病院を出て行った。どうせどこにいても危険であることに変わりはないのだ。ならばせめて気休めくらいは見送ってやるべきだろう。
儀式が妙な形で中断してしまったからにはもはやどうするべきなのかわからない。この日のために犀賀省吾となった。この日のためにこの村へ戻って院長を勤めた。この日のために、おそらくは多くの何かを捨てた。けれどそれらはすべて水泡に帰したのだ。ならば俺自身も、気休めくらいは許されるだろう。そう思って、一人病院に残った。
「希望を捨てるな、か……」
「……せん、せぇ……」
微かな呼ぶ声に、猟銃を構えながら振り返る。看護婦の誰かだろうとは予想していたし、屍人ならば一度二度殺した相手だろうとも予想していた。しかし目の前で虫のように手足をついてのけぞっている女には、さすがに苦い顔をせざるを得なかった。
無言のまま引き金を引くと、弾は頭を貫通した。恋人だった屍人は鈍い音を立てて地面に崩れ落ちた。儀式の時に彼女を殺したのは、ほかならぬ俺自身だ。儀式のためにストーカー癖のある彼女に近付き、恋人にしたのだ。だから恋愛感情などは一切なかった。それでも村の因習のためにいずれ殺されることを思うと哀れだと思わずにいられなかったし、そう思っている自分に気付いた時、俺は自分で考えているよりも冷たい人間ではないのだと思った。
放っておけば、彼女はいずれまた復活するだろう。そしてそのたびに俺は殺さなければならないのだ。
「…………」
手元の銃を見る。弾はまだ残っている。意外にこの非常事態に疲れているようだ。まともに考えることすら億劫になってきた。
「誰だ。……っ!」
それでも物音には敏感になっているのか、何者かの足音に顔を上げた。もう一度苦い顔をさせられるとは思っていなかったが、迷っている暇はない。すぐに銃を構え、引き金に指をかける。
「せん、せい」
看護婦ではない。けれど、一度殺した相手ではあった。はからずも儀式のために殺した彼女と同じように、屍人になる以前に殺した相手だ。すでに死んでいる人間も屍人になるのであれば、予想できないことではなかったはずだ。……もしかすると心の奥で、この少女が屍人になっていないことを願っていたのだろうか。
「……俺が、殺すんだったな」
すでに死んでおり、殺してもまた蘇る相手には意味のないことかもしれない。そうは思ったけれど、しっかりと照準を合わせて引き金を引いた。薄暗い病室でゆっくりと首を絞めた感覚を思い出す。機械の光に照らされた桔梗は弱々しく微笑んで、小さく感謝の言葉を呟いた。
「せんせ……あり、が、…………」
一度目と同じ言葉を口にしながら、桔梗はゆっくりと地面に倒れ伏した。
今まで屍人を殺す時はヒトを殺すという感覚ではなかった。気持ちのいいものではなかったが、それよりも命の危機を感じていたから気に留めなかった。しかし儀式のため病院を出る前に桔梗を、儀式の時に形ばかりの恋人を殺した時はヒトを殺めたのだという感触が強くあった。死ぬ直前の桔梗の言葉が今も脳裏を支配して、その感覚を呼び寄せて揺さぶってくる。俺は桔梗が蘇るたび、何度でも殺すだろう。殺さなければならないだろう。しかし彼女はそのたびに「ありがとう」と言うに違いない。俺は何度でも、ヒトを、桔梗を殺めた感覚に陥るのだ。
目の前に横たわる二人の女は、いまだ動く気配はない。こうして見れば二人とも化け物であることに相違ない。それでも生前と同じ言葉に、行動に、見出したくない何かを見出してしまうのだ。ならばやはり、取るべき行動は一つだろう。
「……そろそろ飽きた」
猟銃の弾を確認してから、銃口を空に向けて地面に立てる。靴の先を引き金に引っかけて銃口をくわえた。視界の端で何かが蠢いたような気がしたが、構わず足を下ろした。