short | ナノ






Revive



ロストキャンバスの空に、黒炎が昇っていく。冷酷な黒と煌めく黄金が一筋の線を描く。それが誰であるか、考えずともわかった。
「輝火……!!」
冥界中探しても、あれほど憎悪に満ちた炎を操る冥闘士は彼をおいて他にいるはずがない。
傷だらけの身体にも構わず輝火の守る地球の魔宮に駆けつけると、黒い炎で焼かれた柱と砕かれた床石、大水の名残となお燃え残る黒炎から状況を察した。
輝火ほどの男がこれだけ暴れたのだ。相手の聖闘士も無論無事ではなかろうが、それより未だ上昇を止める気配がない炎の方が心配だ。それほど手強い相手だったのか。このままでは地球を飛び出して死んでしまう。
――輝火は生にこだわらない冥闘士だった。生前よほどのことがあったようだから、当然と言えば当然かもしれない。パンドラ様にも負けないくらい、ハーデス様をお守りしようという気持ちの強い彼のこと、聖闘士を屠って逝けるのならそれも本望なのだろう。
――けれど。
「輝火……輝火ーーッ!!」
声の限り、天に向かって叫んだ。叫ばずにはいられなかった。喉が張り裂けても構わなかった。ただ、以前よりもずっと手の届かないところへ行ってしまった彼に声が届けばいいと、それだけを願って。



輝火と出会ったのは、偶然のことだった。
冥闘士全員に向けての招集でもやってこない天暴星の冥闘士に、他の冥闘士たちは目に見えて苛立ちを覚えていたし、私もまだ見ぬ天暴星に対し、忠誠心の薄いやつだと思っていた。
「……アンタ、天暴星?」
「誰だ」
「天彗星のアイリス」
「お前も冥闘士か」
「あら、冥衣を見てわからなかったの? アンタの目は節穴ね」
偶然。そう、偶然だった。地上侵攻の任務を終えて冥界に帰って来て、何となく散歩に出かけた先で出会ったのだ。地獄で苦しむ亡者たちを冷酷に見下ろしている、その男と。
鋭く、冷たい瞳をしていた。全身から攻撃的な小宇宙を発しており、言葉とともにピリピリとした感覚が肌を刺したほど。わずかに言葉を交わしただけで、天暴星の強さと凶暴さを理解した。私は彼の足元にも及ばない。そして彼が招集に応じないのは何か理由があるのだろうと。
「失せろ。俺は機嫌が悪い」
天暴星はふいと顔をそらして吐き捨てた。機嫌が悪いと言う割に、何の感情もこもっていない声だった。
私も得体のしれない冥闘士とつるむ気にはならなかったから、言われなくともその場を立ち去るつもりだった。けれど突然天暴星が振り返り、押し黙ったままじっと私の顔を見た。情けないことに蛇に睨まれた蛙の如く動けなくなった私は、せめてじっと彼を見つめ返した。
「……気のせいか」
やがて目線を外した男の呟きを聞き咎める。
「アンタ、なんでそんな悲しい眼をして冥闘士やってんの」
「何のことだ」
「今、私を見て誰かと重ねたでしょ。人の考えてることなんて、目を見ればわかる」
私たち冥闘士は聖闘士なんぞと違って仲良しこよしなんてことはしない。言動に気をつけなければ同士討ちになることだってあり得る。この天暴星相手ならばどう考えても先の言葉は墓穴だ。けれどそれでも声をかけずにいられなかった。凶暴な獣が見せた、一瞬の寂しげな目。
「……天彗星のアイリス、と言ったな」
「ええ」
「俺は輝火。天暴星ベヌウの輝火だ」
「輝火……」
「他人を気にかけている暇があるのなら、聖闘士の一人でも屠るんだな」
「あ、ちょっと!」
天暴星――輝火はそう言い残すと、冥衣の羽で飛び去ってしまった。黒い火の粉がちらちらと舞っている。
残された私は、ぽかんと立ち尽くす。あれがハーデス様お気に入りの輝火。恐ろしく巨大な小宇宙を持つ男だったけれど、まるで血も涙も知らないわけではなさそうだ。
私と輝火は、そうして出会った。

それからしばらくは輝火に会わなかった。案の定全体招集にも顔を出さないし、任務もかぶらない。以前のようにそのことについて悪く思うことはなかったけれど、随分と久しいものだから彼と会ったことさえ忘れかけていた。
そんなある日。
「……輝火」
彼は、いた。名前を呼ぶと伏せていた顔をすかさず上げてこちらを鋭く見抜く。けれど直前まで浮かべていた苦痛を押し殺したような横顔が網膜に焼き付いていて、私はそれ以上の言葉を継げなかった。黙ったまま時間だけが過ぎる。
先に口を開いたのは、輝火だった。
「お前、兄弟はいるか」
「“いた”わよ。クソ真面目な兄さんがね」
「……俺にも弟がいた」
「アンタ、お兄ちゃんだったの? そうは見えないわね」
「お前も出来の良い妹には見えないが」
「実際出来は悪かったよ。兄さんがクソ真面目だった分、余計にね」
無表情で、無感情だったけれど。輝火が話をしてくれることがなぜだかとても嬉しかった。だから私も、人にはしない自分の話をしてみようという気になったのだろう。
「兄さんは私たちが食べていくために働いてた。でも私は真面目に働かないから、兄さんにいつも怒られてた」
眉を寄せて気難しそうな顔で怒る、兄の顔を思い出した。兄の話なんてしないからすっかり忘れたものと思っていたけれど、存外記憶に残っているものだ。
「……兄のことが、好きだったのか?」
輝火の問いに、思わずきょとんとして彼を見つめる。一瞬、その表情が青年になりかけている少年の幼さが垣間見えるそれで、けれどそのまま見ているとすぐに彼はいつものむっつりとした表情を取り繕った。
「そうね。好きだったんだと思うわ」
「そうか……」
「アンタは聞くまでもないわね」
「何?」
「弟のこと、大好きだったんでしょ」
「何を根拠に――ッ」
「目よ。言ったでしょ? 考えてることは、目を見ればわかるって」
何か言い返そうとした輝火は、けれど言葉を押し殺して顔を背けた。輝火は冥闘士だし、人と慣れあうこともない。攻撃的な小宇宙と暴力的な非情さからその心情を計ることは容易ではない。けれど確かに、瞳に一瞬よぎる感情はどんな相手であれ隠しようがない。
「アイリス、だったな」
「ええ。でも心配しないで。誰にも言う気はないから……ほんとだってば」
「……ハーデスさまは」
私に訝し気な視線を送っていた輝火は、そっと顔を伏せて口を開いた。
「死が、平等な救いだと仰る」
「……ええ、そうね」
「俺は…………俺は、そうであれば、よいと思う」
「輝火?」
小さな声で囁かれた言葉に耳を疑って思わず名前を呼ぶと、彼は我に返ったように顔を上げ、罰の悪そうな表情で私を見やった。そしていつかのように、何も言わず冥衣の羽を広げて飛び去った。彼はやはり、寂しげな目をしていた。



炎が色を変えた。輝火の憎悪を凝縮したような黒炎だったのが、今や燃えたぎる真っ赤な炎になっている。金色の光も飲みこんで空に炎でベヌウの姿を描く。きっとハーデスも見ている。誰よりもハーデスさまを敬い、守ろうとした輝火の最期を、彼が守ろうとしていたその人が見ているのだ。そう思うと、やりきれないけれど、どこか救われるような気持ちになった。
「輝火……」
空を見上げたまま、彼の名前を呼ぶ。他に何と言ったものかわからなかった。
いつだったか、例によって偶然彼と出会った時のことだ。私の姿を見て立ち去ろうとした輝火が、去り際にじっと私の顔を見つめて言った。
――アイリス、お前は俺の弟に似ている。
どういう意味かと訊ねる前に、彼は去ってしまった。あれからこのことは忘れていたが、今唐突に思い出した。……だから輝火は、私と話してくれたのだろうか。私に、彼の弟の面影を見ていたから。
「輝火……アンタはきっと、すでに救われていたんだよ。アンタの弟も。――死は、平等な救いなんだから」
金色の光が一筋、輝火の赤い炎から零れ落ちて一直線に落ちてきた。おそらくそれは黄金聖闘士なのだろう。生死は定かでないが、この地球の魔宮に落ちてくる。生きていれば、輝火が倒しそびれたことになる。私が止めを刺さなければならないだろう。
けれど。
「……私も、救われてたのかな。ねえ、アンタはどう思う?」
答えは決して返ってこないと知っているけれど、それでも空に問いかけた。
戦う気は、もはやなかった。降伏する気もさらさらないけれど、弱った聖闘士を狩る気もない。ただ黙って、この聖戦の行方を見届けるつもりだった。適当な瓦礫に腰を下ろして、炎が薄くなった空を眺める。
輝火のことが特別好きだったわけではないけれど、もしも生まれ変わりというものがあるのならば、今度は寂しい目をしていない彼に出会いたいと思った。