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ギリシアの食卓



目が覚めてから朝食の香りがしていることに気付くのか、朝食の香りがしていることに気付くから目が覚めるのか。最近ではどちらが先かわからない。
どーでもいいか、と思いながら頭をかきつつむくりと起き上がった。
そのタイミングを見計らったかのように、声がかかる。
「マニゴルドさま」
「あー……オハヨ」
「おはようございます。朝食の支度ができていますよ」
「ああ、今行く」
そう返事すると、呼びに来たアイリスは嬉しそうにひとつ頷いて去って行った。小動物みてーだ。
「今行く」と言ってしまったからには長く待たせるわけにもいかない。身支度を整えるためにベッドを下りた。
「……ン、トマトか」
すん、と巨蟹宮にただよう朝食の香りを鼻腔に吸い込むと、よく知った香りが広がった。二年も一緒に暮してりゃあ好みもバレバレか、とちょっとだけ笑ってすぐに部屋を出た。



「今日はデジェルさまのところへ行ってきます」
「なんで宝瓶宮に」
「本を借りる約束をしていますので」
「ああ、そうか」
「ちゃんとお昼も食べてくださいね。そんなに遅くはならないと思うので、夕食までには帰ります」
「たまには遅くてもいいんだぜ」
「そんな、マニゴルドさまじゃあるまいし」
「アイリス、お前さァ」
「はい?」
「……いや、やっぱ何でもねえ」
「そうですか」
アイリスが勉強好きなのは知っているし、それを喜んだ水瓶座のデジェルがアイリスを歓迎していることも知っている。アイリスとて立派な聖闘士なのだから、やりたいようにさせてやるのがいいとはわかっている。それでもなんとなく面白くないと感じるのだから、厄介なものだ。
……あと二年、と思ってたんだけどな。
「……なんです、マニゴルドさま」
「あ?」
「そんなに人のことをじろじろと見て。私の顔に何かついてます?」
「いや、別に何でも――あ、パンくずついてっぞ」
「え、やだ嘘」
慌てて口元に手をやったアイリスを見て笑みが零れる。こういう気の抜けたところを見ていると、まだまだガキだなと思う。コイツのこんなに幼い面を知っているのは俺くらいかと思うと、面白くなかった気分も少しはマシになった。
朝食の皿が空になったのでそのままじっとアイリスを見続けていると、一度は食事に戻ったアイリスがまた顔を上げた。視線を合わすこと数秒。
「……まだ何か?」
「お前、よくこの巨蟹宮に残ってるよな」
「どういうことです」
「いーや、物好きだって話だよ」
「マニゴルドさまには言われたくありません」
「喧嘩売ってんのか?」
「そう思うのはマニゴルドさまが短気だからですよ」
「おめーも言うようになったな、アイリス」
呆れたため息とともに吐き出すと、アイリスはむっとするでもなくむしろにっこりと笑みを浮かべた。こんな時、年頃の女らしい顔をするようになったなと思う。そういや少し前までも「あと二年」と思っていたんだったか。
「片付けは俺がやっといてやらァ。食い終わったらとっととデジェルんとこ行きな」
「でも、」
「たまには甘えろよ」
「……はい」
ありがとうございます、と小さいけれどはっきり呟いたアイリスは食事を再開した。
自分の分の空いた器を下げながら、このまま昼間をぶっ飛ばして夜になればいいのに。けれどそう考えていることに気付くと、馬鹿馬鹿しくて頭を振った。



珍しく仕事をしていたら、いつの間にか日が暮れていた。すっかり薄暗い。目の前の書類の山を見ると、朝から全然進んでいない。おかしいなと思いながら処理した書類を確認すると、それらも提出できそうにない有様だった。
よほど上の空でやっていたのだろう。唸りながら持っていた書類を目の前の山に突っ込んだ。こりゃ全部やり直しだな。
「ただいま帰りました……マニゴルドさま? いらっしゃるなら灯りをつけてください」
帰って早々、借りてきたのであろう本の上に銀色の仮面を乗せたアイリスがひょっこりと顔を出した。聖闘士である以上、仮面をつけることに抵抗はないらしいが、俺相手なら「どうせ素顔を知っているのだから」とお構いなしだ。もっとも、その方が俺としてもよそよそしさがなくていいのだが。
「ああ、悪い悪い」
「ちゃんとお仕事をされていたんですね」
「ま、俺はやるときゃやるからな」
疑わし気な視線に「なんだよ」とむっとしながら言えば、「何でもありません」とそっけない返事。
部屋中の燭台に火をつけようとしたアイリスを止めて、椅子から立ち上がる。コイツが帰ってきたのなら、どうせ飯時だ。
「先、飯にすっぞ」
「わかりました。準備してまいります」
そそくさと退散したアイリスを見送って、ぼちぼち後を追う。
今日は朝の片付けをした後で、時間があったから夕飯の仕込みをしておいた。アイリスに任せても時間はかからず出てくるだろう。たまには師匠らしいことしてやんねーとな、と鼻高々に待っていると、予想通りアイリスはすぐにやって来た。両手に持ったチキンと俺の顔を何度か見比べると柔らかく破顔した。
「作っておいてくださったなら、先に言っておいてくださればよいものを」
「サプライズってやつだ」
「本当に、今日はどうかしたんですか。優しすぎて気持ち悪いですよ、マニゴルドさま」
「……お前なァ」
器を置いて向かいの椅子に腰を下ろしたアイリスの言葉に片頬を引きつらせていると、「冗談ですよ」とアイリスが笑う。
「こんなしょーもない冗談、どこで覚えてきたんだか」
「さあ? どこぞのしょーもない師匠からですかね」
「ほう、言うじゃねえか」
「ええ。貴方の弟子ですから」
ぐうの音も出ないとはこのことか。すっかり驚いていると、アイリスは「食べないんですか?」などと聞いてくる始末。ほんと、どこのしょーもないやつに似たんだか。
それでもこれが弟子だと思うと勝手に愛おしく思えてくるのだから不思議な話だ。かつて自分の師も同じように感じていたのだろうか。まさか自分が弟子を取るとは思わなかった。
「……あ、おいしい」
感傷に浸っていると、アイリスの声で現実に引き戻される。
「さすがマニゴルドさま。器用貧乏ですね」
「貧乏は余計だっての」
可愛かったり可愛くなかったり忙しい弟子だ。けれどそんなやつを手放さないのは俺自身で、呆れながらも悪くないと思っているのだから始末に負えない。こりゃ惚れた弱みだな。口が裂けても言えねえが。
「こんなにおいしい料理が作れるのなら、巨蟹宮にもっと人をお呼びになったらいいのに」
「いーんだよ、めんどくせェし。……それに」
「?」
食事の手を止めてアイリスをじっと見る。
「お前と食う飯が一番うめェんだから」
明日の朝食は何だろうかと思いながら、残りをかきこんだ。