short | ナノ






まわり、まわらない世界



マグカップの取っ手を持つと、冷たかった。残った手で包み込むと反対にあたたかく、白いカップの中で揺れているコーヒーの香りが鼻をついた。
その場で立ったままカップの中身を飲み干すと、テーブルに置いて右足をひきずりながら窓に歩み寄る。薄いカーテンを開けると、窓の外には晴れやかに広がる青い空があった。陽ももう高い。昨夜降った雨の名残も、もうほとんどない。日陰の地面に少しだけ濡れた跡があるばかりだ。世界は今日も輝いている。
今、この瞬間にも、世界のどこかで誰かが死んでいる。病に侵された老人かもしれないし、飢えた子どもかもしれない。いつだって命が生まれ、終わりを迎える。この世界にとって人間が生きているのも死んでいくのも大差ない日常なのだろう。自分の命に代えがたいほど大切な人が死んだって陽はのぼるし、呼吸は続く。
どうしようもない目眩に襲われて、そのまましゃがみ込む。膝を抱えて頭を埋める。そうしていると、いつかのように心配してくれた人がそっと頭を撫でてくれるのではないかと思えた。
――アイリスは死んだ。
それでも回り続ける世界の残酷さに、俺は、吐き気を覚えた。





アイリスは、端的に言えば変わった女だった。
「シーザー、修行終わり?」
「まさか。全身濡れ鼠だから一回シャワーしてこいって師範代のお達しだよ」
「このあとまた汗かくのに?」
「ま、少しは休憩できるからありがたいけどな」
エア・サプレーナ島で波紋の修行を一緒に受けていたのがアイリスだ。先生もアイリスも詳しいことは話さなかったが、俺やジョジョ同様に戦いの因縁に巻き込まれた一族の者らしい。結局俺たちの祖父と共に戦った戦士の子孫だったのかどうか、アイリス本人から聞くことはなかった。俺は彼女のことを何一つ知らなかったのだと、彼女がこの手を離れてから思い知らされた。
「アイリスはもう終わったのか」
「ええ、さっきね。シャワーも済んだわ」
「湯上りか。通りでいい香りがすると思った」
「ああ、あまり師範代を待たせてはいけないわね。引き留めてごめんなさい」
「構わないさ。また夕飯の時に」
チャオ、と挨拶を交わすと、アイリスは振り返ることなく歩き去ってしまった。俺の口説き文句に反応しないどころか、振り向きもしない、変わった女だ。そりゃ全女性が俺に恋をすると思っているわけじゃないが、それにしても反応らしい反応がないというのは拍子抜けするってもんだ。それでいて当人の性格が下手な男よりさっぱりしているもんだから、言動は女性らしいのに女性として扱ったものか悩まされる。だからこそ特に興味を持った。
彼女はジョジョ同様、生まれつき波紋の呼吸法を身につけていて、幼いころからリサリサ先生の元で修行をしていたのだという。さすがに師範代より長くはないが、俺よりもずっと先輩だという彼女は、リサリサ先生に直接教えを請うている。羨ましいことだが、俺やジョジョはまだその段階でないと言われてしまった。悔しいが実力ではアイリスの方が俺たちより数段上なのだ。
「あ、シーザー!」
休息は欲しかったが、少しでも早くアイリスに近付くために修行を進めたいという思いの方が強い。ようやくシャワーを浴びに行こうと立ち話に止めた足が動き出した時、アイリスに名前を呼ばれた。さっさと行ってしまったと思っていたので驚きながら振り返ると、彼女は少し遠くで手を振りながら大きな声を出していた。
「そういえば今日の夕飯、ビーフストロガノフだって! 早く来ないと食べちゃうからね!」
たったそれだけのことを伝えるために、俺を呼び留めたのか。そう思ったら自然と笑みがこぼれた。
「ああ、わかった! グラッツェ、アイリス!」
こちらも手を上げて返事してやると、その時ばかりはアイリスも少女のようにはにかんだ笑みを浮かべた。彼女の基準は今もわからないままだが、そういう風に何気ない瞬間で見せてくれる笑顔が、俺はたまらなく好きだった。
アイリスはいつもふざけた調子のジョジョともすぐに仲良くなった。彼女はジョジョの悪ふざけに乗ったかと思うと裏切り、ジョジョのやつをうまくあしらっていた。俺との間にはもちろんだが、ジョジョとアイリスの間にも恋愛感情の類は一切なかった。いや、俺とアイリスの間には、少なくとも俺からアイリスへの好意はあった。彼女がそれを知っていたかどうかは、今となってはわからないが。
厳しい修行の中でも、俺たちは何気ない日常を送っていた。陽が昇ると目を覚ましてスージーQの手料理を食べ、吐くほど修行をし、ジョジョとささいな口喧嘩をし、アイリスを口説き、夜が更ければ泥のように眠った。ジョジョの命と、世界の危機は確かに感じていた。俺を助けて死んだ父とツェペリの一族の誇りにかけて、柱の男たちを倒そうと誓った。俺の命などやつらの前では紙切れよりも薄いものかもしれない。けれど命をなげうってでも先生の力となることが、俺の使命だと思った。そう思うと心が重くなる時もあった。けれどこの、ヴェネツィアで過ごしたささやかな時間が俺の心の重みを和らげてくれていた。そのささやかな時間の大半を占めていたのは、いつだってアイリスだった。
大した反応をくれないとわかっていても、アイリスを口説くのは俺の日課だった。いつだって俺は本気だったが彼女はまったく相手にせず、おかげで俺も街でナンパをしているときのようによどみなく口説き文句をいうことができていた。けれどアイリスと別れる時にその後ろ姿を立ち尽くして見ていた俺は、どう考えても滑稽な男だった。もちろんジョジョにからかわれることも多くあった。それでも俺はアイリスが好きだった。たぶん、理由とか理屈とかそんな小難しいことは抜きにして、ただアイリスという一人の女性を愛していたのだ。



「アイリス……」
「世話が焼ける弟弟子、ね」
呆然と、かすれる声で彼女の名前を呼ぶ。アイリスは吐息交じりに、久方ぶりに俺のことを弟弟子と呼んだ。アイリスは俺たちよりもずっと先輩だったが、それを笠に着るようなところはなく、俺とジョジョにも気軽に接してくれていいと言ってくれた。たまに組手をするときだとか、からかうときにだけ俺たちのことを「弟弟子」と呼んだ。俺はいつもこれが苦手だった。弟弟子だから、俺が口説いても何とも思わないのか。アイリスにとって俺たちは弟のような存在でしかないのか。どうしてもそう考えさせられるからだ。けれど同時に、アイリスの慈愛に満ちたようなその笑顔を拝めるのはこの時だけで、それが嬉しくなかったと言えば嘘になる。結局アイリスは、いつだって俺の心をつかんで離さなかったのだ。
「……人間は、今も昔も変わらんな」
階段の上から俺たちを見下ろすワムウが言った。俺のシャボンレンズと、アイリスに流された波紋で負った傷はまだ治りきっていないようだ。
「どちらにせよ死ぬというのに、一時でも長く生かすために互いを守り合う――実に滑稽な姿だ」
「きさま……!」
俺の腕の中で血の気を失っていくアイリスを強く抱き締め、ワムウを睨む。シャボンレンズを喰らわせてやりたいが、生憎と波紋を練るだけの力はあまり残っていない。まずは呼吸を整え、自分を回復させつつアイリスの傷も癒さねば。
「だが、お前たちの戦う姿には敬意を表そう。お前たちが我々に抱く危機感よりも、己の戦意を以て挑んできたことは敬意を表するに足ることだ」
純粋に、戦士として俺とアイリスを評価してくれているらしいワムウを黙って睨み付けた。何か言葉を口にすれば、波紋の呼吸が乱れてしまう。何はともあれ回復に専念しろ。自分にそう言い聞かせた。
「シーザー……先生たちのところに戻って……」
「馬鹿ッ、アイリスを置いていけるか!」
「逃げろって言ってるんじゃないのよ……ワムウも傷を負ってる……今こそジョジョたちの力がいる時だわ」
「それは……」
アイリスの言ってることはもっともだ。いくら柱の男が驚異的な回復力を持つからといって、俺のシャボンレンズとマリアの波紋を食らって無事であるはずがない。この隙を叩けば倒せるはずだ。しかし、俺とアイリスはワムウの神砂嵐を食らってしまった。攻撃するだけの波紋は練れない。だからこそワムウは俺たちに手を出さないのだし、アイリスもこういっているのだ。
「……フッ。逃げるというのなら止めはせん。その足で逃げられるというのならな」
「シーザー、足……?」
「…………右足が使い物にならないんだ」
「そ、んな……!」
アイリスは神砂嵐から俺をかばって傷を負った。体も内臓も、間違いなくぼろぼろになっているだろう。俺はアイリスのおかげで神砂嵐による怪我は多くなかったものの、彼女を抱きとめて階段から落下したときに、右足をやってしまった。立って歩くのは到底不可能だ。這いずれば動くことも可能かもしれないが、そこまでしてアイリスを見捨て、ジョジョたちを呼びに行こうとは思えない。本来ならば、アイリスを見捨ててワムウを倒す方を選ばなければならない。そうでなくては、俺たちが祖父の代からの因縁を受け継いできた意味がわからなくなってしまうからだ。けれど俺はツェペリ家の前に、シーザーというひとりの人間だ。ツェペリはともかく、シーザーである俺がアイリスを見捨てることなどできるはずがない。
戦えるほどではないが、俺はある程度回復した。アイリスを連れてこの場を脱するほどではないが、このままならアイリスの回復にまわることができる。ワムウに気付かれないよう、うまくやらなければならない。
「――さらばだ、戦士たちよ」
しばらく俺たちを見下ろしていたワムウが背中を向けた。後を追いたい。シャボンを仕掛けたい。けれど今は堪えねばならない。俺が生きて、アイリスを生かすのだ。悔しさに唇を噛んでアイリスを抱き締めながら、ワムウを見送る。不意にミシと音が聞こえた。重い音だ。壁の亀裂でも広がったのかと振り返ったが、特に変わった様子はない。
「しー……ザー……」
「アイリス?」
アイリスに名前を呼ばれて顔を見ると、彼女は力の入らない腕を無理に持ち上げ、天をさした。見上げると、ぱらぱらと何かの破片が顔に落ちてくる。
亀裂が入っているのは、天井だったのだ。
「クソッ! アイリス、少し動かすぞ……くっ」
アイリスを抱えたまま地面を這いずる。ワムウはこれを見て俺たちを捨て置くことを決めたのだ。天井はすぐにでも落ちてきそうだ。この際お互いに痛いなどと言っている場合じゃない。神砂嵐で大きく破壊された壁の穴まで行けば、まだ太陽が出ているからたとえワムウが戻って来ても大丈夫だ。いつどこが崩れるかもわからない。額に汗をかきながら、歯を食いしばって動く。
「私のことは、置いていって……邪魔になるわ」
「置いていけるか、このスカタン! どんなに無様でも、二人で生き延びるんだ」
「……重いのに」
「重くない。天使ってのはこんなに軽いのかと驚いたくらいさ」
「……ばか」
波紋のおかげでいつものような軽口を叩けるくらいには回復した。ようやくアイリスが静かになったので、荒くなる息を必死に抑えながら、退避を再開する。ワムウが戻って来ないか、ちらりと振り返って確かめる。大丈夫そうだ。結構移動できたと思っていたが、全然進めていないことに気付く。のんびりしていられない。天井から聞こえる不穏な音も、落ちてくる破片も大きくなった。まだ避けきれていない。アイリスだけでも安全なところへと思って引き寄せたとき、思わぬ抵抗に驚く。
「アイリス……?」
アイリスが、俺から離れようとしている。自分で逃げるから離してくれという意思表示には、とてもじゃないが見えない。波紋の呼吸をする彼女は、ふらつきながらも二本の足で立ち上がって、地面に這いつくばる俺を見下ろした。その瞳に宿るあたたかな何かと、慈愛に満ちた笑顔を見て悟る。
「おいッ!」
「どんなに無様でも――生きて、シーザー」
「アイリスッ!!」
笑顔を消して目を閉じたアイリスが俺に向けて拳を向ける。波紋だから効かないどころか一瞬痛みを忘れるほどだったが、威力は十分で壁際まで吹っ飛ばされた。ろくに受身もとれず、後頭部を瓦礫にぶつけた。頭がぐらぐらする。霞んでいく視界の先で、全身の力が抜けたらしいアイリスが笑っていた。
――笑ってる場合じゃないだろ。
――どうして、そんな力が残っているのに俺を。
――泣きそうな顔して、笑うなよ。
――アイリス……死ぬな、アイリス……。
言いたいことは山ほどあった。だけどそのうちのひとかけらも声にならなかった。
目の前でアイリスの姿をかき消した落盤の映像と、鼓膜が破れるのではないかと思うほどの轟音はやけにちぐはぐだった。
痛いくらいのアイリスの笑顔が、今も、閉じた瞼の裏に焼き付いて消えない。





少し眠っていたようだ。よく覚えていないけれど、何か夢を見ていた気がする。それも不快になる部類のものを。汗をかいている。ゆっくり立ち上がると、雨は止んだはずなのに右足が妙に痛んだ。
喉が渇きを訴えていることに気付いた。水を飲もうとシンクまで足を引きずり、今朝洗ったばかりのコップに出しっぱなしだったミネラルウォーターを注ぐ。一気に飲み下しながら窓の方を見ると、いつの間にか空は赤く夕陽に染まっていた。そんなに眠っていたとは思わなかった。
不意に胃の奥から何かがせりあげてきて、シンクに吐いた。ここ数日ろくに食事をとっていないから、ほとんどが胃液だったけれど。
口のはしからよだれを垂らしたまま、だらしなくその場にずるずるとしゃがみ込む。命日が近付くと、いつもこうだ。何年経っても慣れることがない。この様じゃいつまでも前に進めない。そうわかっていても、未だにうまく気持ちの整理をつけられずにいる。
「――アイリス」
記憶の中の彼女はいつも笑っている。最期まで笑顔だったのだから、彼女らしいといえばそうかもしれない。けれどこちらは笑えない。あの日から笑うことを忘れてしまったかのように、何を言われても、何を考えても心の底から笑うことができない。そこにあるのは、上辺だけの笑顔だ。
彼女が最後に笑顔を見せたのは、「弟弟子」にだったのか、「シーザー」にだったのか、未だにわからない。考えていると頭が痛くなってくるのだ。けれど確かなのは、泣きそうな優しいあの笑顔は、長年一緒にいた彼女が初めて見せたものだった。
――アイリス、俺は無様に生きているよ。
呼吸し続け、心臓が動き続けることを生きるというのならそうだろう。けれど、心はいつまでも死んだままだ。
赤かった空は早くも反対が藍色に染まりはじめていた。
右足がろくに動かなくたって、命よりかけがえのない人が死んだって、世界は回り続ける。残酷すぎる世界に、俺は、たったひとりだった。