short | ナノ






熱病の恋



どうも朝起きてからずっと気怠いと思っていたけれど、体温計で計ってみると予想以上の数値に眩暈がした。
「三十八度……これはまずいなぁ」
学校に行くどころの話じゃない。むしろベッドから起きられない。体温計をおいて這うようにベッドへ戻り、もそもそと布団にくるまって瞼を閉じる。
ああ、数字で見てしまうと体の熱さを嫌でも意識してしまう。芯の方は燃えるように熱いのに、肌の表面はやけに寒い。これはまた立派な風邪をひいてしまったものだ。
「うう、つらい……」
今日の授業なんだっけと考える暇もなく、瞬く間に脳裏を埋めつくしていく一人の人物。彼の声を聞きたい、あわよくば姿を見たいと思うのは仕方ないことだが、かなうはずもない。こんな時もっとも側にいてほしい一輝は、今日も今日とてバイトが忙しく、私に構っている暇などないはずだ。体調を崩している時でさえ彼氏に頼れないなんて、なんと寂しい女なのだ、私は。
一輝は、弟の瞬と二人暮らしをしている。早くに親を亡くしているから、生活保護を受けながらも生活費のほとんどを一輝が稼いでいるのだ。そのため彼は、中学は出たものの高校には行っていない。私と同じところなら公立で負担もそう多くなかっただろうに、一輝は自分の学歴よりも瞬の進学費用を貯めることを優先させた。人には素っ気ないけれど、弟にはとても優しさを見せる一輝のことが好きだ。だから彼が進学しないとしても、瞬の次でいいから見ていてほしいと告白をして、驚いたことに了承してくれ、付き合ってもらっている。けれど忙しいのはもとより、一輝の性格のため、連絡を取り合うこともデートに行くことも滅多にない。たまに電話して、たまにご飯を食べて、それくらい。それも一輝から連絡が来たことはない。いつだって私から。だから好きなのは私だけなのかなあ、と考えてしまう。こんな熱にうなされるような日はなおさらだ。
嫌だ嫌だ、早く寝て治してしまおう。こんな日に限って親は仕事が忙しくて朝早く、帰りもいつになるかわからないときた。病院だって一人で行くには距離があるし、結局寂しく寝込む以外にどうしようもない。心細さを忘れようと強く目をつむると、着信音が枕元から聞こえて驚いた。
「は、はい、もしもし」
驚きすぎて画面も確認せず電話を取ってしまった。けれどすぐに聞きなれた声が耳朶を打ち、ほっと胸をなでおろす。
『桔梗かい? アンタ、学校はどうしたのさ』
「魔鈴……!」
クラスメイトの魔鈴からだった。さっき体温を計った時に時計を見たら、すでに始業十分前だった。そういえば休むときはいつもなら学校と魔鈴に連絡を入れるようにしているから、心配して電話してくれたのだろう。面倒見のいいところが大好きだ。
『その声……もしかして風邪でも引いた?』
「そうなの。先生には連絡してあるんだけど……ごめん、魔鈴に伝え忘れてた」
『アタシのことなんていいんだよ。それより一人? ちゃんとご飯食べるんだよ』
「うん……まあ、努力する」
『まったく……部活がなければ見舞いに行くんだけどね』
「気にしなくていいよ? あ、もう授業始まるよね。それじゃ」
『あ、ああ』
電話を切ったあとで、大きく息を吐く。魔鈴はサバサバしているけれど実の姉のようによく心配してくれる、頼れる親友だ。きっと今日の分のプリントやノートもとっておいてくれるだろう。これで安心して休めるというものだ。
少し話しただけで疲れてしまった。することもないのだし、一眠りしよう。目が覚めたらご飯を食べるなり体温を測るなりすればいいだろう。そう思って改めて目をつむると忍び寄っていた睡魔によって、すぐに眠りの国へと誘われた。



目が覚めた時、部屋の中は暗かった。携帯に何通か着信があったようで、ランプが点滅している。ぼんやりした頭で時間だけ確認すると、十六という文字。一体何時だろうと考えていると、ようやく思考がはっきりしてくる。十六時。午後四時。魔鈴と電話して眠りについたのが始業前で九時ごろのはずだから、七時間も眠っていたようだ。
「さすがに寝すぎた……」
携帯を確認すると、案の定心配した魔鈴や両親からの連絡が入っている。しかしそれらへいちいち返事を書くのも面倒で、全部を確認することすらせずに布団へ放り投げた。
「お腹すいた……何か食べ物あるかな」
朝よりはだるくないので、多少は回復したのだろう。今なら気分も悪くないし、何か食べて薬を飲んで、体温を測ったらもう一眠りしよう。ひとまず布団から出なければと体を起こすと、それだけで眩暈がした。まだ本調子ではないようだ。少しの間呼吸を整えてから、今度はゆっくりと立ち上がる。覚束ない足取りで部屋のドアまで辿り着くと、そこから先は壁に寄りかかるようにしながら歩いた。
誰もいないにせよ、カーテンを引いたままの自室よりは明るい台所で冷蔵庫の中を覗く。何か作る気力は当然ないが、かといってカップ麺とかは食べられそうもない。ヨーグルトを見付けたので、これでいいかとテーブルへ持っていく。
一人でヨーグルトを食べていると、無性に寂しくなってきた。部活がなければお見舞いに来てくれると言っていた魔鈴だが、彼女はきっと来られないだろう。なにせバレー部のエースなのだから。一輝のバイトは今日は何時までだろうか。電話したいと言ったら付き合ってくれるだろうか。頭の中がグルグルしてきて、くらくらしてきた。早く薬を飲んで寝よう。
少し急いでヨーグルトを食べ終えると、タイミングよく玄関のチャイムが鳴った。ぼーっと玄関の方を見ていると、もう一度鳴る。
出た方がいいのか、それとも居留守でやりすごしていいのか悩んでいると、もう一度チャイムの音。よほどの用事でもあるのだろうか。ドアスコープで確認だけでもしようとふらつきながら玄関へ向かう。
玄関につくまでにさらに二度、チャイムが鳴った。明らかに家に人がいると知っているようなしつこさに、もしかして魔鈴だろうかと考える。サンダルをつっかけて小さな穴から外を覗くと、よく知っている人が立っていた。けれどそれは魔鈴でもなければほかの友人でもない。難しい顔をした訪問者が再びチャイムに手を伸ばしたので、慌てて鍵を開けてドアを開ける。
「――一輝!!」
勢いよく動きすぎたので足元がふらついたけれど、正面に立っていた一輝がすぐに支えてくれた。その腕にしがみつきながら顔を上げて確認すると、やはりまぎれもなく一輝が立っている。一番、ここにいるはずのない彼が。
「……思ったより悪くなさそうだな」
「朝よりは回復したから……それより、どうして一輝がいるの? バイトは?」
体調が悪いのも忘れて矢継ぎ早に問うと、一輝はいつもの仏頂面に戻って私の肩を抱いたまま玄関へ入った。きちんと鍵をかけて靴を脱いで、けれどその間は一言も発さない。いつものことではあるけれど、訊いてはいけないことを訊いてしまったような気がして心細くなる。
「ねえ、」
一言も発さず、一歩も動かない一輝の方を見る。自分の部屋に戻ろうにも、強く肩を抱かれているから動くことができない。私を見ずに真っ直ぐ遠くを貫く視線は、何か考えているときの証拠だ。いつもなら話し出すまでちゃんと待つけれど、今日はそう待ってもいられない。一輝に支えられているから何とか立っている状態なのだから。
何だか不安になって一輝の服を強く握りこむと、ようやくこちらを見てくれた。
「……魔鈴が」
「魔鈴?」
「……休憩中に、桔梗が風邪をひいて学校を休んだと連絡をよこしたんだ」
だから、と言いながら一輝は私を抱え上げた。お姫様抱っこなんてロマンチックなものも、無造作な彼にかかればたちまち野暮ったくなってしまう。
「終わってすぐに来た」
言い終えるとすぐに視線をそらしてしまった一輝の体は少し汗ばんでいて、本当にバイトの後ですぐに来てくれたのだと知らせてくれる。ちゃんと抱き締めてもらったのはいつぶりだろうと思いながら頭を預けると、一輝のにおいがした。彼はそれ以上何も言わずに、私の部屋を目指す。一輝の腕の中は心地よくて、次第に瞼が重くなってきた。ここで寝たら一輝が困るだけだというのに、どうにも睡魔に抗えない。
「ね、一輝」
「なんだ」
喋って眠気を飛ばそうとするけれど、無駄な抵抗のようだ。体の力が抜けていく。
「私ばっかりが一輝のこと好きなのかなって、ずっと思ってた」
「……」
「でもこうやって駆けつけてくれるならそれでもいいと思うの。一輝はきっと忙しくて来てくれないだろうと思ってたから」
「……着信履歴、見てないのか」
「電話くれてたの? ごめん、見てないや」
大きな欠伸をすると、一輝は珍しく呆れたようなため息を吐いた。
「おれが好きでもない女のために走ると思うのか、お前は」
「思わない」
「そういうわけだ」
「……うん」
私の部屋につくと、一輝は優しい手つきでベッドにおろしてくれて、布団をかけてくれた。往生際悪く瞼と格闘していると、一輝がベッドの端に腰を下ろした。
「おじさんとおばさんには話しておくから、少し寝ておけ」
「んん、でも、瞬は?」
「星矢のところに預けてある」
「そっか……なら、よかった」
そう言うと、一輝は声には出さなかったけれど少しだけ微笑んでくれた。もう少しその顔を見ていたいけれど、どうやら限界のようだ。瞼を閉じてゆっくり呼吸すると、すぐに意識がぼんやりしてくる。目が覚める頃には、きっと一輝はもういない。それは寂しいことだけれど、私の額を撫でている手のぬくもりがあれば今は十分だと思った。