short | ナノ






スプリング・ハズ・カム



大学生の春休みというものは、基本的に暇の一点張りだ。寝て、起きて、ご飯を食べて、バイトに行って、帰ってきたらまた寝て。その繰り返し。時々友達と遊びに行ったりするイベントも挟まるけれど、おおむね自宅に引きこもっている。その時間を使って読書をすればいいのだろうが、いつも何となくぼうっとしてしまう。
そんな日々を送っていたら、気が付けば三月も下旬。あと二週間もすれば、あれだけ長いと思っていた春休みも終わってしまう日付になっていた。
「今日、もう二十七日なんだ……」
昨夜もバイトで、夜中に一度も起きることはなかった。布団からもそもそと這い出て時計とカレンダーを確認する。まだ脳が覚醒していないのか、外が晴れていていい天気だなあとか、今日何日だっけとか考える。もう一度カレンダーを見て、はたと動きを止める。
「二十……七……?」
薄ぼんやりと、何か予定が入っていた気がして時計を見る。十時二十分。不安になって、布団から届くところにあるテーブルに手を伸ばし、スケジュールを取った。それを開いて、青ざめる。
「やばい……今日ゼミの顔合わせじゃん!!」
予感が間違っていなかったことを確認すると、スケジュール帳を放り投げて慌てて支度を始める。
来年からのゼミの顔合わせが、なぜ四月じゃないのかについては物申したいけれど、先生や友達に会えるのは素直に嬉しい。昨日はバイトが忙しくて疲れてしまい、帰ってから何もせずに寝てしまった。いつもならシャワーくらい浴びてから寝るのだが、気付け役のムウがいなかったからすっかり忘れてしまった。ムウはたしか、ミロの家だと言っていた気がする。
今からシャワーして、着替えて、化粧して……一時間はいらないが、三十分――いや、四十分はほしい。けれど集合は十一時に大学の正門前。大学まではすぐだからいいとしても、支度にはあと三十分かけられるかどうか。とにかく急ぐしかない。
シャワーの前にスマホを確認すると、いくつか連絡と着信が入っていた。着信は三回、すべてムウからのものだ。時間帯からしてモーニングコールだろう。わざわざ電話してくれたのにごめん、と思いながらスマホも放り投げる。今は一分一秒も惜しい。ムウには申し訳ないけれど、あとで連絡させてもらおう。
「あ」
一度立ち止まって振り返る。
今日は三月二十七日。ムウの誕生日だ。
「……あとで!」
メールで祝うよりはゆっくり電話で話したいし、あとで時間が取れたら連絡しようと決めて浴室に飛び込んだ。





「お先に失礼しまーす」
「お疲れ、桔梗ちゃん」
「お疲れでーす」
厨房の中にも声をかけてから、裏口を出る。
ゼミの顔合わせを兼ねた食事会の後、先生の研究室でお茶をしていたらあっという間に時間が経ち、今日もバイトのため慌てて帰宅。朝からずっと慌ただしい一日だと思いながらバイトへ行った。そのバイトは、昨日ほどではないけれどそこそこに忙しく、シフトより少し延長して上がらせてもらった。あと三十分もすれば日付が変わってしまう。
結局ばたばたしていてムウに電話できていなかったので、帰り道で話そうと思い鞄からスマホを出す。ダイヤルを回して耳に押し当てると、近くから着信音が聞こえた。このタイミングということは、と辺りを見回すと、「桔梗」と私の名前を呼ぶ声が、スマホ越しではなく後ろから聞こえた。
「ムウ!」
「お疲れさまです」
スマホを片手に笑いながら立っていたのは、ムウだった。
「今日は何もなかったの?」
「ええ。ミロの家も、昼には引き上げましたし」
「もっとゆっくりすればよかったのに」
「いえ、ミロとカミュが昼過ぎからバイトだと言うので」
「そうなんだ」
あの二人はたしか塾の講師だったか。カミュはともかく、ミロもねえ、と思わないでもないが、本人には黙っておこう。むしろムウの方が向いてるんじゃないかと私は思う。
ムウはアルバイトをしていない。完全に奨学金暮らしだ。そのため、バイトを終えるのが夜遅い私をこうして迎えに来てくれることがある。家まで遠くはないが、今日みたいに日付が変わるような時間に一人で歩いて帰るのは、実際問題寂しいし怖い。とてもありがたいことだ。
「あ、それより」
「はい?」
いつものように、ごく自然に並んで歩き出したところで隣を見る。
「ムウ、誕生日おめでとう」
ムウが立ち止まり、私も立ち止まる。照れたように視線をそらし、頭をかいて、改めて私の方を見てはにかんだ。
「ありがとうございます」
ああもう可愛いなと思ったけれど、180超えで成人済みの男の人にそれを言うのもどうかと思ってなんとか堪える。その笑顔になんだか私の方が恥ずかしくなったので、誰も見ていないことを確認してからムウの手を取った。
「ねえ、ムウ明日何か予定ある?」
「いいえ、ありませんよ」
手をつなぐとちょっと驚いた顔をしたけれど、すぐに握り返してくれた。
「じゃあさ、これから飲みに行こうよ。お祝いしよう」
「今からですか?」
「嫌だった?」
「そうではありませんが……桔梗、あなたは明日、バイトとかないんですか?」
「ないよー!」
そうじゃなきゃ誘わないよ、と言うとムウは苦笑した。ムウと会えて直接おめでとうと言えたのも嬉しいし、一緒に飲みたいのも本当だけど、翌日にバイトがあればさすがに無理はしない。せめて別の日にする。
「どこに行くんですか? 別に私は、桔梗の家でも構わないんですが……」
「誕生日に宅飲みはロマンがないよ。いいお店知ってるんだ」
私は誕生日が結構早いから、下手するとムウとは一年近く差がある。それでもムウの方がずっと大人っぽいし、私は未だに年齢確認される。仕方ないけれど悲しい。これから行くところは、絶対にいつかムウを連れて行きたいと思っていたところだ。本人をイメージしたカクテルを作ってくれるところで、私もあまり行かないけれど、こういう特別な時に人を連れて行ったりする。
「ムウは牡羊座だから、やっぱりラムかなあ……あ、でも綺麗なピンク色でもいいかもね」
「何の話ですか?」
「カクテルの話。作ってくれるんだよ、いろいろ」
ムウの手を引いて歩く。何となく大胆なのは今日がムウの誕生日だからかもしれない。自分の誕生日よりもこんなに嬉しいと感じるなんて。
「あ、見て見て! もう桜が咲き始めてる」
明日が休みで、それでなくともムウと一緒にいられるのが嬉しくて仕方がない。蕾をほころばせ始めている桜を見てはしゃぐと、ムウがまた苦笑した。
「春はもうすぐそこですね」
「そうだね」
あと少しで春休みも終わるし、新入生も入ってくる。私たちは三年生になる。全然実感がないけれど、時の流れとは恐ろしいものだ。
ムウの横顔を見ていて、ふと、私はいつまでこの手を握っていられるのか不安になった。
「ねえ、ムウ……」
「何ですか?」
呼びかければ、すぐに振り返って優しい笑みを浮かべてくれる。私がいつまでも不安そうな顔をしていることを怪訝に思ったのか、不意にムウの手が頭をなでる。
「な、なに?」
「それは私の台詞なんですが」
「……ううん。何でもない」
「そうですか」
今考えたってどうしようもないことだ。何となく、ムウには私が考えていることを見透かされている気がする。頭をなでるのを止める代わりに、手を強く握られた。
「ねえ、ムウ。好きだよ」
「急にどうしたんですか。……私もあなたのことが好きですよ、桔梗」
ただ、今のこの幸せを噛み締めていたいと思った。
春が近付いている。