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落下する心



もうどうにでもなってしまえばいい、とやけくそで頬にあたる風を感じていた。下の方でなにやら人々がうるさく騒いでいるが、どうでもよかった。早まるなとか思いとどまれとか、お前らが一体私の何を知っているのかという話だ。どうせ遠巻きに騒いでいるだけの野次馬にとやかく言われる筋合いはない。
ビルの屋上から少しだけはみ出した足の爪先に目を落とす。その下の地面は遠かった。
別に誰かに自殺を止めてほしいわけじゃない。自殺を止めるくらいなら、私の現状を打破する方法を教えてほしい。そうでないのならば、誰も私なんかに関わらないでほしい。……頭の片隅を誰かの影がよぎったけれど無視をして、足を踏み出して――――落ちた。
風を切る音に混じって悲鳴が聞こえる。けれどその悲鳴は唐突に歓声となった。気になって目を開けようとした瞬間、大きな衝撃が与えられた。しかしその衝撃は予想していたほどでもなければ、コンクリートの硬い感触でもない。私の体は地面に叩きつけられるどころか、何者かによって抱き締められていた。がばりと身を起こすと、予想はついていたけれど、案の定血色の悪い顔をした男が私の下敷きになっていた。
「また……またアンタなの!?」
「俺もまたお前かって気持ちだよ」
口の端から流れ出る血をぼろぼろのコートの袖で拭いながら、目の前の男――S級ヒーローのゾンビマンが体を起こした。自然な流れで私を自分の上から地面におろすと、彼は自分の体を確認した。腹部と腕が若干歪になっていることをのぞけば、異常はない。ゾンビマンならばそれもすぐに治るだろう。
「ったく、お前もどうしてこう毎回飛び降り自殺したがるんだ。他にも自殺の方法はあるだろうが」
そうすりゃ俺にも止めようがないわけだし、とゾンビマンは言うけれど、なぜだかこの男は、私がいつどこで死のうとしても現れる気がした。
「ほっといてよ。アンタもどうして律儀に助けに来るの。アンタ以外のヒーローに助けられた覚えがないわ」
「それはつまり、お前が死のうとしたタイミングには俺が必ず来てるってことだよな」
「うるさい」
そうなのだ。どこで死のうとしても、必ずゾンビマンが駆けつけてきて、今みたいに私の自殺を阻む。遠くの市でS級招集ものの怪人が出た時、混乱に乗じて死のうとしたけれど、それも阻止された。毎回体を壊しながら、高いところから飛び降りる私を、必ず地面で受け止める。その回数は、そろそろ両手では足りなくなってきた。
「大体、お前はなんでそんなに死にてえんだ」
「アンタに関係ないでしょ」
「市民の安全を守るのが俺の仕事だ。その市民が死にてえほどのことなら、何とかしなきゃならねえだろ」
「じゃあ!」
立ち上がってゾンビマンを睨み付ける。彼は体の回復を待ちながら、コートのポケットから取り出した煙草で一服している。
「じゃあ……何とかしてみなさいよ!」
ゾンビマンの視線がこちらに向く。遠巻きにしていた野次馬も耳を傾けているが、この際どうだっていい。
「家族が怪人になった人間の気持ちが、アンタにわかる!? それだけで周りから迫害されて、見ず知らずの人にまで罵声を浴びせられて……未だに進学も就職もできない私の気持ちなんてわからないでしょ!」
肩で息をしながら言い切ると、ゾンビマンは眉間にしわを寄せて、地面に煙草を押し付けて立ち上がった。
ヒーローを恨んでいるわけではない。むしろ、怪人となった兄を殺してくれて良かったとさえ思う。家族だったけれど、それさえ忘れてしまって私たちにも牙をむいた兄はもう兄ではなかった。
ヒーローは怪人や災害からは守ってくれる。だけどいじめや嫌がらせからは守ってくれない。そんなことに対応していたら、いくらヒーローが多いからと言ってカバーしきれる問題ではないからだ。そんなことはわかっている。わかっているけれど、誰かに守ってもらわなければ解決することができない問題もある。多くのヒーローはそのことを知らない。
「アンタたち何にも知らない人間が死ねっていうから死のうとしてるんじゃない。怪人を殺してくれたヒーローには感謝してるわ、これ以上家族を悪者にしないでくれたんだから。でも残された人間まで悪者に仕立て上げるのなら、いっそ私たちも殺してくれればよかったのよ」
声を潜めながら私の言葉にざわつく野次馬を睨む。どうせあれらの人も、私のことも兄のことも、何にも知らないくせに罵るのだ。これじゃあ私や、私のような人間がいつ怪人になったっておかしくない。
「ヒーローが一般人を殺すわけにはいかねえし、そもそもお前の周りの人間がおかしい」
「だからそれを何とかしてよ。どうせできないんでしょ? ヒーローは大多数を助けられても、一握りの人は助けられない。そういうもんなの。……だからもう、私に構わないで」
「それは断る」
ゾンビマンに背を向けて歩き出そうとすると、即座に拒絶の返事があり、肩をつかまれた。
「何よ……言いたいことでもあるわけ」
「ああ、めちゃくちゃあるな」
振り返るとゾンビマンは飄々とした様子で立っていた。
「お前、名前は」
「……は? なんで教えなきゃなんないのよ」
「別に。知らねえなと思っただけだ」
「……桔梗よ」
「そうか。で、桔梗」
どうして私はこの男と話をしているのだろうと思いながらも、どうせまた死にきれず家に帰るだけなのだから、ここらでこの男に諦めてもらうため話をするのもいいかと思った。顔をしかめてゾンビマンの手を振り払うと、向かい合う。
「お前は今俺に話してくれたようなことを、周りに言っていたか?」
「……言ったわよ。誰も取り合ってなんかくれなかった」
「そうか」
じゃあ周りの人間がクズだっただけだな、とゾンビマンは事もなげに言った。ヒーローがそんなことを言ってもいいのかと思ったが、その通りだと思うので黙っていることにした。
「じゃあ桔梗、お前はそれを言い続けたか? 誰にも取り合われず、諦めて、俺にさえようやく言ってくれたって感じだったぜ」
言葉を詰まらせる。学校に通っていた頃は、確かにまだ私たちはもう関係ない、悪くないのだと言っていた。けれどいつからか疲れて、どうせ信じてもらえないのだからと何も言わなくなった。ゾンビマンはまるでそんなことを思い出している私の心を見透かしているような瞳をしていた。
「言わなかったお前を責めるつもりはない。周りの方が悪いに決まってんだ。けど俺は、そういうことはちゃんと言ってもらわないとわからねえし、助けられねえ」
「…………助けてくれるの?」
私個人の問題ではなく、おそらく人々の意識の問題だ。いくら影響力が強いS級のヒーローとはいえ、その解決は容易ではない。
「当たり前だ」
ゾンビマンは、簡単に、けれど確かに頷いた。
「でもアンタ、S級でしょ。災害の方が優先になるに決まってる」
今まで私に手を差し伸べてくれるヒーローはいなかった。助けを求めても「自分で何とかする問題だ」とか、「時間が解決してくれる」とか、無責任な言葉を与えてどこかへ行ってしまった。こうなったら誰も自分たちを助けてくれないのだと悟って自殺しようとした時、初めてゾンビマンと出会った。無責任な言葉なんかじゃなく、文字通り体を張って私の自殺を止めた。感謝はしなかった。生きていてもこの世は地獄だ。そう思って次の自殺を試みた。なぜか偶然にもゾンビマンが居合せ、また私の命を救った。何度も同じことを繰り返した。私が死のうとすれば、必ずゾンビマンが現れて、私を死なせない。いつからか、野次馬の中にゾンビマンの姿を探すようになった。
「んなもん他の奴に任せる」
「はあ? 信じらんない、それがヒーローの言うこと?」
決して本人には言えないけれど、ゾンビマンが助けてくれなかった時が、肉体的にも精神的にも私が死ぬ時なのだろうと思う。
「馬鹿野郎。惚れた女一人救えないで、ヒーローやってる意味なんかねえだろ」
「……え?」
思わず聞き返すと、ゾンビマンが微妙な顔をする。青白い肌が血色良くなったように見えるのは気のせいだろうか。
「待って、今、なんて、」
「うるせえ! 聞こえてただろ、もう言わねえ」
イライラしたように新しい煙草を吸い始めるゾンビマンを見て、ようやく腑に落ちた。私が何度も死のうとしたのは、そのたびにゾンビマンが助けてくれると信じていたかったからだ。今日ゾンビマンに話してみようと思ったのは、彼なら助けてくれると思ったからだ。これが他のヒーローだったら、ゾンビマンが言っていたように他の方法で自殺していたかもしれない。
「だから……絶対に助けてやるから、死ぬなよ」
死のうとしてもまた止めるからな、と彼は続ける。
「……うん」
「は?」
「うん。もう死なないことにするわ」
ゾンビマンの驚いた顔に笑いかける。こうして笑うのは一体いつぶりだろう。
「もう、落ちる必要はないんだもの」
あなたに、恋に落ちたんだから。