ヒーローの生きる意味 ――ピンポーン 玄関のチャイムが鳴る。特に予定のない週末。荷物が届く予定もないし、一体誰だろうか。おすそ分けしてくれるようなご近所さんも、このゴーストタウンではいないはずなのだけれど。 「はーい」 ドアスコープを覗きこむと、金髪の見慣れた青年が立っていた。すぐに鍵を開けてドアを開ける。 「ジェノス、どうしたの?」 「桔梗……」 サイボーグの恋人が弱々しく私の名前を呟く。何かいつもと様子が違うことに気付いて首を傾げると、断りもなく家の中に足を踏み入れた。別に構わないのだけど、いつも一言断ってから入るジェノスにしては珍しい。 「ねえ、」 無機質な顔はいつにもまして薄暗い。いよいよ声をかけると、何も言わずに伸びてきたジェノスの腕に抱きすくめられる。 「え、と……ジェノス?」 身長差のせいで、抱き締められると彼の顔は見えなくなる。戸惑いながら声をかけると、ジェノスの力が少し強くなった。 この辺りで怪人が出た時や、ジェノスが怪人と戦って帰ってきた時にこうして抱き締められることはあったけれど、一言も言わないのははじめてだ。それに玄関に立ち尽くしたままで、動き出す気配もない。 私を抱き締めるジェノスの体は、ほとんどが機械だから冷たく感じる。心臓の鼓動も吐息も感じられないけれど、代わりに低いエンジン音が微かに聞こえる。それが心地よくてそっと目を閉じた。 「急にどうしたの。子供みたいに」 そう言って背中に手を回し、あやすように軽く叩く。ぴくりとジェノスが反応し、腕の力が少しだけ弱まる。けれど離れる様子もないし、口を開く気配もない。 「よしよし、甘えたい気分なのね」 さすがにこれには少し距離を置こうとしたけれど、こちらが抱き締める力を強くすると、その抵抗もやめて頭を預けてきた。 「……ヒーローもお疲れなんだね」 S級ヒーローとして真面目に活動しているジェノスは、あちこちに引っ張りだこだ。頼まれれば基本的にサイタマ先生と一緒に出掛けるのだから、本当に忙しい。サイタマ先生は家で漫画を読んでいたり友人の所へ遊びに行ったりと自由人な生活をしているけれど、ジェノスは修行したり博士の所に行ったり何かと忙しない。その合間にも私の所へ顔を出してくれるのだから、いくらサイボーグとはいえ疲れるのだろう。そして彼は、そうした疲労を決して人前では見せない。心を許しているサイタマ先生にすら見せないどころか、以ての外だと言う。おかげでジェノスは、時々息抜きしにうちへ来る。 「……すまない、ありがとう」 「もう大丈夫なの?」 「ああ。でも少し休んでいっていいか?」 「もちろん」 やっと口を開いたジェノスに頷くと、彼は私を解放した。私が彼専用のスリッパを用意すると、靴を脱いで上がる。そういえば、ずっと玄関にいたのだった。 「コーヒーでもいい?」 「ああ」 すぐに出せるものを用意する。遊びに来たわけじゃないから、お菓子とかはいらないだろうか。確かジェノスはブラックだったはず。 彼を先に部屋に通しておいて、キッチンでぐるぐる考える。部屋に寄ってくれるということは、話してくれる気があるんだろう。二人分のマグカップを持って部屋に戻ると、二人掛けのソファに身を沈めているジェノスがいた。考え事でもしているのか、壁の一点を凝視している。 「はい」 「ああ」 ジェノスの隣に腰を下ろして、両手でマグカップを持つ。私はジェノスとちがってミルクも砂糖も入れるから、ずいぶん甘い。だけどこれくらいがちょうどいいのだ。 なんとなく無言の時間が続く。元々ジェノスから話しかけてくることは少ないけれど、こういう時には自分から話し出すのを待つのが暗黙の了解だ。 横目でジェノスを見ると、彼はゆらゆらと揺れるコーヒーの表面を見ていた。いや、見ているように見えるだけで、本当は何も見ていないのかもしれない。彼の瞳は、私の瞳とはちがうものだから。 「俺は、」 ぽつりとジェノスが口を開く。 「俺は、今のままでいいんだろうか」 顔を向けて、話してくれるのを待つ。ジェノスの視線はマグカップに注がれたままだ。 「サイタマ先生の元で弟子として日々学ばせてもらっているが、一向に強くなった実感がわかない。そもそも、あの人と同じ次元の強さを手に入れられる気がしないんだ」 カップを握る機械の手が、少しだけ震えているように見える。 「それなのに俺は、忙しくも穏やかな日々の中に身を置くことで、狂サイボーグへの憎しみを時々忘れそうになっている。この平和な日々がずっと続くんじゃないか、本当はもう狂サイボーグなんていないんじゃないか、そう思うことがある。だけどそれでは、俺が機械の体を手に入れた理由がなくなってしまう。強くもなれず、仇も討てず、俺は……何のために生きているのだろう」 「そんなの!」 思わず大きな声が出てしまって自分でも驚く。こちらを振り返ったジェノスから視線をそらし、声を抑える。 「……そんなの必要ないよ。生きている理由なんて、誰もが持ってるわけじゃない」 ただ生きているだけじゃ駄目なの、と問えば、ジェノスは顔をそらした。 ジェノスの過去は教えてもらったし、ジェノス自身がどうしたいのかも聞いている。彼の中の憎しみが本物で、狂サイボーグを倒すことでしか消えないものだとしても、たとえ彼の決意がどれだけ固くとも、私と変わらない19歳の一人の人間なのだから、その思いが揺らぐことがないわけない。悩んで、不安で、それでも前に進まなければと自分に言い聞かせて、ジェノスは立っている。そうでもなければ、体の大部分を機械にしてまでも生きてはいないだろう。 サイタマ先生から言われたことがある。「あいつは気負いすぎるから、頼むぞ」と。 「平和な世界を創るために、ジェノスみたいな人をもう生み出さないために、ヒーローになったんでしょ? 平和でいいじゃない。ヒーローだけが平和じゃない平和なんて、本物の平和じゃない」 口を開くたびに、なぜか鼻の奥がツンとする。理由はわからないけれど、涙が零れそうだった。 「――ジェノスは人間なんだよ」 伝えなければならないと思った。自分は人間とは異なる存在であると思っている、目の前の相手に。 「機械のデータを上書きするみたいに強くなれるわけじゃない。ロボットみたいに人の言いなりになるわけじゃない。泣いて、笑って、怒って、悩んで、それでいいんだと思う」 ジェノスは、ただ黙って私の言葉を聞いている。 「悩んでもいい。迷ってもいい。だけど、どうして生きているかなんて言わないでよ……そんなさびしいこと、聞きたくない」 ……そうか。私はただ、ジェノスに生きていてほしかったんだ。生きていていいよ、生きていてほしいよと伝えたかったんだ。 「……すまない、桔梗」 泣かせたな、と言いながらジェノスが片手で私の頭を抱き寄せる。すでに涙の堰は壊れてしまっている。 「人間、か……そう言ってくれたのは先生と桔梗くらいだ」 「先生、も……?」 「全身が機械だとしても、感情と意思を持ってるんだから人間だろうとな」 笑いながらジェノスはコーヒーを啜った。もう迷いはないのか、いつも通りのジェノスだ。私が一人でべそかいて、馬鹿みたいに思えてきた。だけど涙は止まらないから、顔を上げるわけにもいかない。 「桔梗」 名前を呼ばれ、だけどブサイクな顔をしていること間違いなしだから顔を上げられない。 「今日、泊まっても平気か?」 「え?」 思わず顔を上げた。マグカップをテーブルに置いた、武骨な機械の手が頬をすべる。 「え、でも……先生は?」 「帰らないかもしれない、とは言ってある」 「そ、っか」 いつの間にか目の前にあるジェノスの顔に驚く暇もなく、返事をする暇もなく、冷たいけれどほんのりとあたたかい唇を重ねられた。 |