愛へもう一歩 目を開けると、朝だった。 昨夜は遅くまで修復の仕事をしていたけれど、いい加減眠気で手元が覚束なくなってきたので、仕方がなく眠りについたのだったか。一度も目覚めずに、よく眠っていたようだ。 「ムウさま」 「ああ、貴鬼ですか」 私が起きたところを見計らってか、弟子の貴鬼がそっと顔を覗かせる。欠伸を手で隠しながら、ベッドから下りた。 「朝ご飯の支度ができてますよ」 「今行きます。……彼女は?」 「おいらが起きるよりも早く来てたみたいです」 貴鬼の言葉にため息を吐いて、なおのことすぐに行かねばならぬと足を速めた。 焼きたてのパンの香りと、優しいスープの香りが近付く。毎朝律儀なことだと思いつつ、このおいしそうな匂いが実は楽しみだと言うのは誰にも言っていない。 「今朝も早かったみたいですね、アイリス」 「おはよう、ムウ。わたしはいつも通りだよ」 「なるほど。いつも通り、空が白むころから支度してくれていたのですね」 もはや止めてもやめないことがわかっているので、彼女の好意をありがたく頂戴することにする。椅子を引いて腰を下ろすと、ためらいがちに貴鬼も腰を下ろす。 湯気の立つスープを二人分、テーブルに置くと、アイリスはパンを入れていたであろう籠を持って片付け始める。 「貴女も食べていったらいいじゃないですか」 テーブルに肘をついてアイリスに声をかけると、彼女は一度手を止めてこちらを振り返った。当たり前のことだけれど、その顔は銀色に輝くお面で隠されていて、どんな表情かはわからない。 「わたしは自分のところで食べるから、お構いなく」 「手間でしょう、ここと自分のを用意するのは」 「ムウは気にしないでいいよ。わたしが勝手にしていることだから」 気にするというより、若干迷惑なのですが、とは言わせてもらえない。アイリスが片付けを済ませたからだ。 「じゃあ、これで」 「ええ。いつもすみませんね」 「ありがとう、アイリス!」 お礼を言う貴鬼に手を振って、アイリスは白羊宮を出て行った。すぐに彼女の小宇宙が離れていき、追うのも億劫になる。 「……ムウさま、」 「貴鬼。お喋りは後ですよ。せっかくアイリスが用意してくれたのですから、あたたかいうちにいただきましょう」 スープに口をつけると、あたたかい液体が喉を通っていった。野菜をよく煮込んだ味がする。おそらく昨晩から煮込んでいたのだろう。 手を止めて、考え込む。 常に仮面をしている女聖闘士と、直接関わりを持ったことはなかった。そもそもアリエスの聖衣を授かってから間もなく白羊宮を出た私は、ほかの聖闘士との関わり自体が少なかった。女であることを捨てた女聖闘士がいるというのは聞いていたが、彼女たちに科された掟までは知らなかった。 ――仮面の下を見られた女聖闘士は、自分の顔を見た相手を殺すか、愛すること。 両極端な、けれどもそうでもしなければ女が聖闘士になることが許されない事実に驚くと同時に、それでも聖闘士になった女がいるという事実には純粋に驚いた。意志の強い、そして実力も伴った真の聖闘士には性別など関係ないのだろうと。 ……自身が巻き込まれるまでは。 不慮の事故で、トライアングレムの白銀聖闘士であるアイリスの素顔を見てしまった。以来彼女は、黄金聖闘士である私を殺すのではなく、愛することに決めたらしい。賢明な判断とも言えるが、いっそのこと自ら命を絶てば互いに面倒をこうむることもなかったのに、と思わずにいられない。そうしてほしいわけでもないし、そうしろというわけでもないが。 「ムウさま、食べないんですか?」 「ああ……いえ、いただきますよ」 止めていた手を再び動かす。少し冷めてしまったけれど、やはりスープはおいしい。 愛情表現の一種だと言って、こうして毎朝朝食を作りに来てくれるアイリスは、律儀だと思う。私が迷惑だと一言いえばすぐにやめるのだろうけれど、言うまではやめないつもりらしい。意外と頑固だ。 「ムウさまは、アイリスのことが嫌いなんですか?」 「突然何を言いだすかと思えば……」 呆れた弟子だ。ともにアイリスの恩恵にあずかっているとはいえ、彼女が堂々と「ムウのことを愛すると決めた!」などと宣言したものだから、気になってしまうのだろう。 「嫌いではありませんよ」 好きかもしれない、という後半は飲み込んで、空にした食器を持って席を立つ。 「さあ貴鬼。さっさとお食べなさい。今日もやることは多いですよ」 「は、はあい!」 慌ててかきこむ貴鬼を見て、誰ともなくクスリと笑った。 目が覚めると、朝だった。 夜に寝たのだから、当然と言えば当然のことだった。けれども今朝は、何かがいつもと違う気がした。 「……気のせい、ですね」 妙にざわつく自らの小宇宙を気のせいだと落ち着けてベッドから下りたとき、気のせいではないことに気が付いた。 「……貴鬼!」 乱暴な足取りで部屋を出ると、弟子の名前を呼ぶ。すると、まさに呼んでいた貴鬼の小宇宙が近付いてくるのを感じ取った。乱れている小宇宙から自分の予想が当たっているのだと察する。 「ムウさま!」 ぶつかりそうになった貴鬼の肩を持って向きを反転させると、彼がやってきた方へ足を進めながら念のために確認する。 「アイリスは、来ていないのですか?」 「! 来てます、来てたんですけど……」 言葉を濁す弟子を見て、確信する。 「やはりそうですか」 いつもならおいしい匂いが誘ってくる部屋に飛び込むと、床にアイリスが倒れていた。起きたらすでに白羊宮にあるはずのアイリスの小宇宙が感じられないから違和感を感じていたのだ。正確には、いつもと調子が違う、弱々しい小宇宙を感じていたのだけれども。 「アイリス、しっかりしてください。私の声が聞こえますか?」 「う……ムウ……?」 駆け寄って抱き起すと、仮面の下から小さいけれども声が聞こえた。意識はあるようだ。 「貴鬼、すぐにベッドの用意を」 「はい!」 アイリスの住処まで運ぶのは造作もないけれど、下手に動かすわけにもいかないし、何より一人であろうところへ返すのはさすがに良心が咎めた。貴鬼に面倒を見せればいいのだと気が付いたのは、貴鬼が飛び出していった後。もうこのままでよいと頭を軽く振って雑念を払った。 「アイリス、一体どうしたのです」 「……ちょっと目眩が……」 熱でもあるのかとアイリスの額に手を当てようとして、冷たい銀の仮面が邪魔なことに気が付いた。その仮面の下で、アイリスの喉が唸っている。 「体調が良くない時にまで来て下さらなくて結構」 「……迷惑かけてるな。ごめん」 「自覚があるのなら反省はしていますね」 「ああ」 腐っても聖闘士。はっきりとした返事に頷くと、アイリスを抱き上げる。 「な、なに!?」 「自分じゃ歩けないでしょう。しばらく白羊宮で休みなさい」 「それはさすがに悪いから!」 「貴女のところまで運ぶ方が手間なので」 「……ああ、それもそっか」 素直に言葉を受け入れて、腕の中のアイリスがおとなしくなる。 女が聖闘士になるための掟は良いと思うけれど、そのせいで表情が見えないのは惜しいと思う。 「……迷惑か、ムウ」 「何がですか」 あえてすっとぼけると、アイリスは身を起こしかけてやめた。 「お前が迷惑だと思うなら、わたしもいい加減やめようと思うんだ」 「……やめるって、何を」 「お前を愛することだよ」 「やめて、どうするんですか」 薄々予想はついていたけれども、それでもアイリスの口から聞こうと訊ねる。 「死ぬしかないさ。わたしたち女聖闘士は、素顔を見られたら相手を殺すか愛するしかない。そのどちらもできないとなれば、自分が死ぬしかないよ」 「アイリス、貴女はそれでいいのですか」 足を止めて訊ねれば、「いいわけない」と返事。貴鬼の小宇宙を探ると、空き部屋でうろうろとしている。こちらへ向かってきていないのはよいことだ。 「ならば、死ぬ必要もないでしょう」 「な、」 人を抱きかかえたまま手を動かすのは簡単ではないけれど、片方の手でアイリスの仮面を取り去る。 「に、を」 不慮の事故で顔を見てしまった時、ほぼ反射的に顔をそらしたからよく見えなかった。改めて見てみると、綺麗な顔をしている。丸い瞳などは吸い込まれそうなほどに青い。 「迷惑などではないのですから」 古典的にも胃袋を掴まれるとは思わなかった。 「ああ、そうだ。朝食の代わりに」 そう言って半ば呆然とした顔のアイリスの唇をついばむと、彼女は顔を真っ赤にして言葉を失くした。 アイリスは気付いていなかったのだろうか。私が自分の寝ている時間帯に、宮への立ち入りを許可するほどには心を許しているのだということに。 |