short | ナノ






きみにふれたい



「ムウさま、ムウさま」
晴れ渡る青空のした、聖域の白羊宮に声が響く。
「どこにいらっしゃるのです。食事の時間にはいらしてくださいと、何度も申しあげているでしょう」
もう一度、同じ声が「ムウさま」と呼んだとき、声の主から離れた柱の陰からひょっこりとムウが顔を出した。輝く黄金聖衣をまとっていないムウは、優しいまなじりで声の主をとらえると、足早によってくる。
「すみません。切りのいいところまで、と思っていたら」
「……ムウさまのお仕事ですから、わたくしからとやかく申し上げることは出来ません。ですが、食事にはいらしてくださらないと、本当に倒れてしまいますよ」
数日前より少しだけやつれた様子のムウを心配そうに見上げる声の主――黒い髪の美しい女性に、ムウは微笑みかけた。
「いつも心配してくださりありがとうございます。でも、アイリスも無理をして倒れないでくださいね」
「わたくしにはもったいないお言葉です」
長年主が不在だったにも関わらず、白羊宮がきれいに保たれていたのは、アイリスのおかげだった。毎日ちりを掃き、床を磨き、いつでもムウが帰ってこられるようにと掃除をしていた。ムウが弟子の貴鬼をつれて帰って来てからも、毎日掃除をし、食事を作り、こまごまと世話を焼いている。
ところが、このアイリス――女官ではない。
「貴女は別に、働く必要はないと何度も言っているでしょう」
「そういうわけにも参りません。わたくしは、ムウさまとシオンさまに助けていただいた身です。恩を返すのは、人として当然のこと」
どうかお気になさらず、と微笑を浮かべるアイリスに、またしてもムウは頭を抱えるのだった。
アリエスの弟子でもなければ、女官でもない。アイリスが白羊宮にいるのは、ムウが――正確にはシオンがつれてきたため。いわばムウの遊び相手として、あるいは幼馴染として拾われた。
「……まあ、女官を雇わない私が悪いんでしょうが」
「ムウさま、何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も」
アイリスがいては、雇うに雇えない。それに女官を雇うのは正直なところ面倒だ。しかし誰か雇って仕事を奪わねば、アイリスが働くことをやめるわけもない。まったく悪循環だと思いながら、ムウはアイリスの後を追う。
元々売られている娘だったアイリスを、幼いムウがたまたま見かけたことがはじまりだった。妙にムウがアイリスを気にかけているものだから、師であったシオンが見かねて彼女を引き取り、ムウとともに面倒を見ていた。その恩を思ってか、アイリスは何度言ってもシオンとムウを主人として扱い、しもべのように仕えようとした。シオンさえその必要はないと言ったが、今に至るまで聞き入れられていない。
「アイリスは、掃除が好きなのですか?」
「掃除が、ですか」
食事をとるための部屋につくまで、距離がある。ムウならばテレポーテーションですぐに到着するが、アイリスがいる。先に行っても彼女は気にしないが、ムウ自身が気にしてしまう。それに、できることなら彼女と話せる時間は多い方がいい。それでなくともムウは忙しい身だし、アイリスも何かと仕事を見つけてはどこかに行ってしまうので、存外顔を合わせる時間は多くない。
「とりわけというわけではありませんが、好きです。なんだか無心になれますから」
「では、料理は?」
「料理は好きです。ムウさまと、貴鬼さまのお口に合うのか心配ですが、それでも喜んでいただけるように作ることはとても楽しいですから」
「そうですか。アイリスの食事はいつもおいしいですよ」
「ありがとうございます」
ムウの言葉に笑顔で礼を言うアイリスから、無理をしている様子は感じられない。掃除や料理を嫌がっているのならやめさせることもできるが、楽しんでいるとなればやめさせるわけにもいかない。
ムウはしばしば、いっそのこと自分付の女官にしようかと考えることがある。アイリスならきっと従ってくれるし、そうなればアイリスがそばにいる時間は長くなる。けれど、そうではない。ムウはそんなことがしたいわけではないのだ。
「貴女は、働くことが好きなのですか?」
真正面から言ったことはなかったが、遠回しにアイリスは特別なのだと、ムウは何度も伝えてきた。そのたびにアイリスは提案を断り、常に仕える側に立ち続けた。もしもムウのことが嫌いならば、ムウが白羊宮を空けている間に行方をくらましていただろう。けれどそうではなかった。つまり、アイリスはムウを嫌っているわけではないのだ。しかし特別な立場につくことは拒む。ムウには、アイリスの考えていることがわからなかった。
「はい。わたくしが、ムウさまのお役に立てていると思えますから」
「貴女がそばにいてくれるだけで、私は十分ですよ」
「それでは、とてもご恩を返せません。一生分の感謝をしても、したりないくらいなのですから」
ムウは本音を言っているだけなのだが、アイリスは額面通りに受け取らない。それで身体を壊したら、ムウは心配になって仕事も手に付かなくなる。そう言ったらアイリスは、きっと体調を崩しても決してムウになにも言わなくなるだけなのだ。それがわかっているから、ムウもそれ以上言うことはない。どうしても、今以上に近付けない。
「ムウさま、お食事が冷めてしまいます」
「ああ、それはいけませんね。急ぎましょう」
アイリスと会話したいがためにゆっくりと歩いていたムウは、彼女の言葉に足を速めた。前を行くアイリスの手を取ってすぐにでも駆け出したかったが、なんとか堪える。慰労の意を兼ねて頭をそっと撫でようとするが、やはりその手も宙をさまよって終わる。
「ところで、貴鬼の姿が見えませんでしたね」
おかげでムウはアイリスと話すことができたのだが、いつもならそばにある弟子の姿がないのはいささか不安だ。
「貴鬼さまなら、先にお席についておられます」
「……まったく、あの子は」
師より先に席につくものがありますか、とムウが呟くと、アイリスは慌てて貴鬼を弁護した。
「ムウさまのところへ行く途中で、貴鬼さまにお会いして先に行ってくださるようお願いしたのです。貴鬼さまは、一度はご自分がムウさまを呼んでくるとおっしゃってくださいました」
「……別に責めているわけじゃありません。貴鬼も、貴女も」
我がことのように心配するアイリスを見て、ムウはやり場のない感情を収める。わずかでも、幼い弟子に嫉妬した自分を馬鹿らしく思った。
「アイリス」
ムウは、聖域を出て行くときにアイリスをつれては行かなかった。当然、危険だったからだ。けれど聖域にいても危険だからと好きなところへ行くように言ったが、彼女は十三年間、ムウの帰りを待ち続けた。そしてムウが帰って来てからも、十三年前と変わらず受け入れてくれた。それだけで、ムウは十分だった。もしアイリスがムウに恩を感じているとしても、その十三年間で返し終わったと、そう思っている。
「女官になるつもりはありませんか?」
「女官、ですか。……白羊宮の?」
「ええ」
「……うれしいお話ですが、お給金をいただいてしまっては、恩返しの意味がありません」
「……貴女なら、そういうと思っていましたよ」
このままタダ働きをしていれば、むしろムウがアイリスに恩を返さねばならなくなる。それ自体は構わないが、アイリスは絶対にそれを受け入れてくれないだろう。そちらの方が問題だった。
「ムウさま、わたくしはムウさまに仕えることを許していただき、こうしてお気遣いいただくだけで十分しあわせです」
そう言いながら、アイリスは扉を開けてムウに入るよう促した。無言で入りながら、ムウは拳を握りしめた。
昔のようにその頭を撫で、頬に触れ、手を握りしめたら、アイリスも少しはムウの言葉に心を揺らしてくれるだろうか。掃除も料理も続けて構わないから、せめて隣に立ってくれるよう頼んだら、聞いてくれるだろうか。
「アイリスもこちらにおいでなさい」
席に座り、部屋を出て行こうとするアイリスをムウが呼び止める。
「いえ、わたくしは後でいただきます」
ご命令でしたら、と呟く声を聞き取って、ムウは隣の席を軽く叩いた。
「では命令です。私の隣へ」
「……はい」
自分の食事を用意しておとなしくムウの隣に腰を下ろしたアイリスは、体をちぢこませている。
君に触れたら、何か変わるのだろうか。
ムウは、そう思いながら料理に手を付けた。