LIVE 両親の墓の前に、見慣れた酒瓶が備えられなくなってから随分経った。こちらにいるうちは、身体に障るからと厳しく目を光らせていたらしいけれども、今はどうなのだろう。彼の同行者は、彼の酒を取り上げてくれているだろうか。 「またここにいたのか」 何ということもなくぼうっとしていると、後ろから聞きなれた声。 どこにいたって一番最初に見つけてくれるけれど、最近はすぐここに来るから、彼は探すまでもなく私を見つけてしまう。 「蒼世」 「身体を冷やすぞ」 見慣れた制服姿ではなく、見慣れない着物姿。そうだ、彼はもう犲の安倍蒼世ではない。私の夫の、ただの安倍蒼世なのだ。 体の向きを変える気配のない私に苛立つこともなく、隣に立つ。目を閉じて手を合わせ、私の両親、すなわち蒼世の師に挨拶する。律儀なことだが、私がここへ来るからそうさせているのだろう。父も相変わらずな彼の性格に笑っているに違いない。 「大丈夫よ。天火が来ないんじゃ、父さんも母さんも寂しいだろうと思って」 「あれは天火が煩いだけだ」 「そうとも言う」 的確な指摘に肩を揺らして笑うと、肺が痛んだ。 「げほっ、ごほっ」 「! 大丈夫か?」 口の中に鉄の味が広がって、呼吸がひきつったように浅くなる。蒼世の言葉に答えられずに咳き込んでいると、しゃがんで背中を優しく撫でてくれた。慈しむような手つきに嬉しくなるが、咳は止まらない。 「ごほっ」 口元を押さえていた手に血を吐き出したとき、やっと収まった。不定期に訪れるこの発作は、やはり確実に残りの命が少なくなっていることを教える。 「桔梗……」 何か言いたげに見つめてくる蒼世に微笑みかける。どうしようもないのだ。それは私だって、彼だってわかっている。 「帰るぞ」 「空丸と、宙太郎の顔を見てから帰りたいわ」 「今日はもう駄目だ」 きっぱりと言うと、蒼世は私の肩に羽織をかけて立ち上がり、車いすの持ち手を引いて両親の墓に背を向けた。血が付いていない方の手で、彼のぬくもりが残る羽織をきつく握りしめる。彼も大概頑固な方だが、私だって曇家の人間。頑固さで負けるつもりはない。 「ね、お願い。顔だけでいいの。私は下で待っているから、呼んできて」 「その間お前が一人になるだろう」 「大丈夫よ、ちょっとくらい」 「駄目だ」 厳しい言葉とは裏腹に、車いすを押し進める手つきはとても丁寧だ。小さな凹凸にも気を遣い、落ちている石もできるだけ避け、段差の前では必ず声をかけてくれる。これほど大切にしてもらっているのに、いつも我が儘を言ってしまう自分に罪悪感を覚える。けれどやはり、両親の、曇の墓に来るのは弟達に会いたいから。その目的を達せずに帰れるものか。 「蒼世」 「……何を言っても、今日は駄目だ。回復していれば、明日連れて来てやる」 「嫌。今日がいいの。明日が来ないかもしれないのは、あなただって知ってるでしょ」 「…………」 いつものように、私の命を盾にすれば。 「私は、毎日を後悔したくない」 誰よりも訳を知っている蒼世なら。 「ねえ、お願い。……連れて行って」 きっと最後には、首を縦に振るのだ。 「……桔梗」 溜息交じりの呼びかけと同時に、蒼世は足を止めた。声をかけずに立ち止まるなんて普段は絶対にしないから、少しだけ驚く。 今日はお説教だろうかと思いながら振り返り彼の顔を仰ぐと、悲しげに歪められた表情があった。 「そう、せい」 彼の元へ嫁いで以来見たことのない顔だった。けれども、これに似た表情を私は知っている。父が、曇大湖が亡くなったとき、その墓の前でこんな顔をしていた。 「……あの、」 こんな顔をさせたかったんじゃない。 いつものように、ちょっと困った、ちょっと呆れた、そんな顔で、「仕方のない奴だ」と言ってほしかった。それだけだったのに。 「お前の人生だ。止めはしない」 犲にいたときのような、感情を殺した無表情で言ってくれるのならいっそのこと楽になれたのに、どうして、そんなにつらそうな顔をしているの。 「ただ、覚えておけ」 こちらを向いて、悲しそうな顔を引っ込める。あの時ついた右顔の火傷が痛々しい。 「俺の人生でもある」 「!!」 その言葉に言葉を失う。 そうだ。 私は、この人と、安倍蒼世と共に生きていくと誓ったのだ。 それは、ただそばにいるだけではない。 同じものを見て、違うことを感じて、それでも一緒にいる。 一緒にいたいと、そう思えること。 残り少ない生涯だとしても、そうしたいと自分自身が望んだ相手。 それが、この人だ。 「少しくらい、桔梗を独り占めしても罰は当たらないと思うんだが」 微笑を浮かべて、蒼世は「動かすぞ」と言った。顔を前に戻して膝に視線を落とす。 元々口数が少ない人ではあるが、ここで何も言わない優しすぎる蒼世の気持ちを考えると涙が零れそうだった。私は、共に生きようと言ったのに、自分の我が儘ばかりを押し通していたのだ。元からあまり我が儘を言う人ではなかったけれど、確かに結婚してから蒼世の口から我が儘らしい我が儘を聞いたことはなかった。 私が、言わせなかったのだ。 「重く考えるな」 あなたはそう言うけれど、私は気付いてしまったから。 昔から、蒼世には我が儘ばかり言っていた。天火と一緒になって困らせたこともあったし、紀子より迷惑をかけたこともあった。つらいのは同じはずなのに、天火を処刑するときに糾弾しても何も言わなかった。 蒼世は、ずっと、ずっと、私を受け止めていてくれた。 「……ごめんね」 「何がだ」 素っ気ない言葉さえも気遣いと悟れてしまう。周りに迷惑をかけ、甘え続けていた私とは違ってなんと大人なことだろう。 「我が儘ばかり言って」 「天火の妹という時点で諦めているから、気にするな」 「それはひどいわ!」 さすがに天火とは一緒にしないで、と不満を口にすると、彼は喉の奥で笑った。 いつだって、こうして私に気まずい思いをさせないのだ。否、させてくれないのだ。冷たくて、不愛想な印象があるけれども、そんなことはない。蒼世はきっと誰よりも人のことを見ている。だから人を信頼するまでに時間がかかるし、信頼されるまでも同じくらいかかる。本当は天火にも、空丸にも、宙太郎にも負けないくらい優しい心を持っていることを、私は知っている。 「蒼世」 「なんだ?」 なんとなく冷たくなってきたような気がする羽織をかきよせて、彼の名を呼ぶ。億劫がることなく返事をしてくれるようになったのは、さすがに結婚してからだ。幼いころは何度「鬱陶しいから止めろ」と言われたことか。 「……あのね」 今更気が付いたって、過去は戻ってこない。それなら、たとえ僅かでも、残された未来で、今度は私が彼を受け止めればいい。 謝るのは、過去のことをだ。 そうではなく、限りなく近い死を待つだけだとしても、未来のことを考えていたい。そのためには、彼に、周囲の人に伝えなければならない言葉がある。 「ありがとう。私の我が儘を、たくさん聞いてくれて」 たくさん話して、考えてしまったから、収まった発作がぶり返しそうに呼吸が浅くなる。けれど蒼世には気付かれないよう、静かに息を整える。 「私ね、嬉しかったの。蒼世が、自分から新しい人生を生きるって言ってくれて」 その人生を、共に歩もうと言ってくれたことが、何よりも嬉しかった。大蛇の一部ではなくなった私に与えられたのも新しい人生だと、そう言ってくれたことがこの上なく嬉しかった。 「これからは、私もちゃんと蒼世の我が儘を聞くから」 だから。 「だから、蒼世も、ちゃんと言ってね」 それが、共に生きていくということに違いないのだから。 「……そうだな。そうしよう」 「うん! 良かった……て、あれ?」 改めて、隣に並べた気がした。それが嬉しくて大きく頷く。いつの間にか、発作は収まっていた。 そして周囲の風景の変化に気が付き、振り返る。 「蒼世、ここ……」 「姉貴、師匠!」 向かいから、買い物籠を持った空丸が駆けてくる。 「どうしたんだ――って、姉貴また体調崩したのか? 外に出ちゃ駄目だろ!」 「こ、これは何でもないの。ね、蒼世」 「いや、大有りだ。だから今から帰るんだ」 「ちょ!」 弟に心配をかけまいという天火の性格が移ったのか、空丸を誤魔化そうとするも蒼世はまるで手伝ってくれない。意外と根に持つと天火が言っていたし、もしかするとそれが原因かもしれない。 「まったく……呼んでくれれば俺たちが会いに行くんだから。姉貴は養生してくれよ」 「だ、だって、父さんと母さんに挨拶するついでだもの……」 手に付いた吐血だけは見られないようにと袖の中に隠す。 「その挨拶する先に姉貴が加わったら嫌だからな」 「うっ」 思わず唸ると、後ろで彼が「空丸が正論だな」などと擁護するものだから、いよいよ言葉に窮してしまう。宙太郎には会えなかったけれど、ここはおとなしく言う通りにした方がいいだろう。 「……わかった、今日はもう帰るわ。それでいいでしょ、蒼世?」 「最初からそのつもりだ」 空丸が街から神社まで帰るときに使う道をわざわざ選んでおいて、なんという言い方だろうか。けれどそれを指摘するほど意地悪くはない。これも彼なりの優しさだとわかっている。 「じゃあ姉貴のこと頼みました、師匠」 「ああ」 「またね、空丸」 私が別れを告げると、蒼世は再び車いすを押し進める。 「ねえ、蒼世」 「今日はやけに話すな。疲れないのか?」 「大丈夫。それより、私思ったの」 身体は確かに疲れているけれど、調子は悪くない。 「生きているって、素晴らしいことね」 どんなに醜く、惨めであっても、生きていれば、何とかなる。 大蛇の器だったって、大蛇の細胞を埋め込まれていたって、大蛇に内臓を持っていかれていたって、人は生きていける。 「その言葉、どこかの馬鹿にも聞かせてやりたいものだな」 「あはは。それ、天火のこと?」 他に誰がいる、と笑いながら蒼世が言う。 他愛もないこの時間が、とても愛おしかった。 |