short | ナノ






鼓動の音



まただ、と辰伶は昇降口から出た歩みを止めた。
辺りは夕焼け色できれいなオレンジに染まっていて、部活動中の生徒の声が響いている。生徒会の仕事を終えてからの帰宅だから、この時間帯に自分と同じく帰ろうとしている生徒はいないだろうと思っていたのに、見事に予想を裏切られたのである。
――それも、これで二回目。
まさに下校中の、一人の女子生徒。
一回目は数日前で、今日よりも遠くを歩いていたのであまり気に留めなかったが、鞄を見るにどうやら同じ生徒のようだ。
辰伶の少し前を歩く彼女は、辰伶よりも歩幅が小さい。すぐに追いついて、後ろからの気配に気づいた少女が控えめに振り返った。
「辰伶、くん」
その顔は夕陽に照らされていたので辰伶は一瞬気付かなかったが、名前を呼ばれて少女が誰か知る。
「桔梗――か」
お互いに名前くらいしか知らないクラスメイト。正直言って、話したこともないから声も知らなかった。こんな風な声なのかと思ったくらいだ。
思わず歩みを止めてしまった二人だが、先に桔梗がそれに気が付いて小さく笑う。
「な、なんだ」
「ううん。でも、ここで立ち止まる必要はないよなあと思って」
「……それもそうだな」
辰伶が立ち止まったゆえに桔梗も立ち止まったのだが、それに気付く様子もなく辰伶が率先して歩き出す。別に、それこそ一緒に歩く道理もないのだが、知らない仲でもなく、なぜか方向も同じなために、無言でペースを合わせながら歩く二人。
ねえ、と呼びかける桔梗の声に、びくりと大仰に反応した辰伶に目を丸くする。桔梗がそれを見てくすりと笑うと、辰伶はむっと眉を寄せた。
「なぜ笑う」
「だって、何も言ってないのに辰伶くんが驚くから」
「急に話しかけられたからだっ」
なぜかむきになる辰伶に、桔梗はますます笑った。対して、辰伶の機嫌は反比例するように下がっていく。そろそろまずいと思った桔梗が笑うの止めて、再び口を開く。
「辰伶くんって、生徒会だったよね。だからこの時間なの?」
自らの名前が出てきた段階で内心どきりとしていた辰伶だが、桔梗の言葉を聞いて胸をなでおろした。
「そうだ。オレはいつも生徒会の仕事をしてから帰るから、これくらいの……いや待て。それよりも、桔梗はなぜこの時間なのだ。部活には入っていないのか?」
仕事があまりはかどらなかったので早く切り上げてきたとは言えずに、辰伶は顔を背けて言いながら、すぐに気が付いたように顔を桔梗の方に向け直す。これこそが、彼の気になっていることだったのだ。同時に、仕事が手につかなかった原因でもある。――つまり、数日前に辰伶の前を歩いていた女子生徒のことだ。
桔梗は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした後、少しの間をおいてにこりと笑った。辰伶は桔梗を見ていられなくて、慌てて視線を前に戻した。
その顔が少しだけ赤くなっていることに、桔梗は気が付かない。
「部活には入ってないよ。今日は、ちょっと先生に質問があったから残ってただけ」
「そうか」
会話が途切れて沈黙が流れると、二人分の足音しか聞こえなくなる。
もともと歩くのが速い辰伶だから、いつの間にか二人の距離が徐々に広くなっていた。先を歩く辰伶はそれに気付かず、桔梗もわざわざ呼び止めないので、足音が遠くなったことに気が付いた辰伶が振り返ったころには、桔梗はだいぶ後ろを歩いていた。
「すまん、速かったか」
「え? ううん、平気だよ。私が遅いだけだし」
そういって笑う桔梗に申し訳なく感じ、今度はゆっくりと歩き出した。
何か話題を振ろうと頭をひねる辰伶の横で、何気なく空を見上げた桔梗が嬉しそうな声をあげる。
「一番星だ」
辰伶がつられて空を仰ぐと、赤々と燃えている空に、小さく輝く星が一つ。まだ藍色のにじみすら見せていない夕焼けが広がっていた。
「一番星って、なんだっけ?」
「金星だろう。今の時間なら、宵の明星だな」
「そうそう、それ」
最近授業でやっただろうが、と辰伶が呆れると、桔梗は誤魔化すように舌をぺろりと出した。上ばかり見ていると危ないという忠告に従って、桔梗は金星を見上げるのをやめた。
そうしてそれから、辰伶が口火を切ってぽつりぽつりと学校の話をする。夕方の買い出しには早い時間で、学校が終わって帰宅するには少し遅い時間で、辺りには人が少ない。
「あ」
声をあげて立ち止まる桔梗より半歩先で、辰伶も立ち止まる。
「どうかしたのか」
「私、こっちだから」
分かれ道で指を差したのは、辰伶の家がある方向ではなく。
「そうか……」
「うん。それじゃあまたね、辰伶くん」
手を振って少しずつ離れていく桔梗を立ち尽くして見送る。
何となく振り返った桔梗が、辰伶を見て微笑んで手を振る。片手を中途半端にあげた辰伶が、そのまま硬直する。再び前を向いて、もう振り返ることのない桔梗はそんな辰伶の様子に気付くはずもない。
ゆっくりと手を下ろしていく辰伶の視界の端で、暗くなっていく空に光る星が一つ二つと増え始めた。
遠ざかっていく桔梗の背中を見ながら辰伶は、強く拳を握って駆けだした。
足音に気が付いて振り返った桔梗の顔が驚きに変わる。たった数十メートルの距離で息せき切るように走る辰伶に、続けて桔梗は不思議そうな顔を向けた。
「辰伶くん……?」
桔梗の呟きが聞こえるほどの距離まで追いついた時、思わず桔梗の腕をつかんだ辰伶ははっとして、肩で息をしながら黙って桔梗を見つめた。桔梗も同じように辰伶を見つめ返す。
「――ああ」
自分らしくないと思いながらもこの際どうにでもなってしまえと思った辰伶は、赤くなる顔を隠すように桔梗から背けながら、桔梗の手を取ってゆっくり歩き出した。
「え、ちょ」
夕陽でも隠し切れない、辰伶の赤くなった横顔を見て桔梗も頬を染め、俯いて手を引かれるままに歩く。二人とも口を開かずに、黙々と歩を進める。
つい勢いのまま駆け出してあまつさえ手まで握ってしまったが、何も考えていなかった辰伶は激しい羞恥と後悔に襲われながら、それでも握った手を離さない。オレは何をしているんだと自問自答するも、辰伶の中で答えは出ない。
手を握られる桔梗も、その手を振り払う兆しはない。別れるのが名残惜しいと思っていたからこそ、驚きはしたものの辰伶を拒まなかったのだ。
互いに、あと少しだけ一緒にいたい……そう思っていた。けれどその思いは、互いの心には届かない。
「……ねえ」
「……なんだ」
とうとう耐え切れずに口を開いたのは、やはり桔梗だった。間を置いてから、辰伶も言葉を返す。
「辰伶くん、こっちじゃないんじゃないの」
「ああ、家はさっきの道を真っ直ぐだ」
「……なんで、こっちにいるの」
黙り込んだ辰伶に、桔梗が立ち止まる。強く握ったわけではない手がするりとほどけて、辰伶が数歩先で歩みを止め、振り返った。何かを言いかけて口を開き、しかし言葉が思い浮かばずまた口を閉ざす。
思うことはただ一つなのに、伝えることができない。辰伶自身の自尊心が邪魔をして、素直に感情が吐露できない。
「……私ね」
桔梗が、スカートの折り目を気にしながら、俯いたまま言う。
「あんまり話したことなかった辰伶くんと話せて、嬉しかった。もうちょっとお話しできたらいいなって思ってた」
辰伶が言葉を続けようとしたが、それよりも先に桔梗の言葉が続く。
「でもなんか、いまはうまく言えないや。隣にいたいけど、近くにいたら私の心臓の音が聞こえちゃいそうだから」
照れくさそうに笑いながら、自分の左胸に手を当てた桔梗に、大きな一歩で辰伶が近寄る。
「オレもだ、桔梗」
振り返ったあの時のお前に惚れたのだとは言えず、それでも赤い顔のままの辰伶が同じように左胸に手を当ててはにかんだ。