short | ナノ






しらゆき



寒さは感じなかった。俺のためにしつらえられた洋服はあちこちがぼろぼろになってしまっているが、それでも風を凌ぐくらいはできる。ひどく重たく濁った冬の空を見上げる。
――ああ、違う。これは幻だ。
俺はきちんと糊のきいた開襟シャツに、ずっと使ってきた襟巻きと羽織を着ている。誠を掲げていた俺は、もうここにはいないはずなのに。
あれから随分、戦い続けてきた。けれど最後には新政府軍へ投降し、誠の旗を降ろしてしまった。俺は一人、山奥で謹慎を受けている。他の者がどうなるのか、詳細は教えてくれなかった。ただ、指示があるまで大人しくしていろ、間違っても自刃するなと言われ、この洋服などを与えられたのだ。自分が情けなかった。副長や、他の仲間たちはどうしているだろうか。……連絡はない。こんな山奥に、人が来るはずもないのだから当然と言えば当然、なのだが。
「もし、すみません」
……人が、いるはずはないのだが。
「あの…、聞いておられますか?」
「……ああ。どうかしたのか」
振り返って、ついに幻覚まで見えるようになったかと思った。動きやすい旅の装いをした女が立っている。深く笠をかぶり、手甲をつけて。しかし目を奪われたのはそこではなかった。左耳の下で緩くまとめられた髪や、どこかあどけない容貌。
「…雪、村…?」
最後に別れたときと恰好こそ違え、確かに雪村だ。副長と共に北上して行ったはずだが、なぜこんなところへ、旅支度をして訪れているのだろう。
「あのう、人違い…してませんか?」
雪村より落ち着いた低い声が耳朶を打つ。また意識の底へ沈んでいたようで、軽く頭を振った。……そうだ。彼女がここにいるはずはない、そう確認したばかりだ。きっと他人の空似というやつだろう。
「……すまない」
「いえ…。あの、それより道をお尋ねしたいんですが」
雪村によく似た女はそう言って地図を取り出した。周囲に民家がないから地形は把握し辛いが、ある程度ならばわかる。しかし、その地図を覗き込んで目を丸くする。
「あんた、これは地図を間違えていないか?」
「え? いえ、私が行きたいのはここですよ」
「……これはこのあたりの地図ではない。恐らく、もっと北のものだろう」
あまりにも地形や地名が見慣れぬものであったので、そう指摘する。すると女は、落胆したように肩を落とした。これだけ地図を読み間違えれば無理もないことだが。
「そうですか…ありがとうございました」
背を向けて歩き出した姿は、やはり雪村にそっくりで。
「っ、ちょっと」
肩のあたりに手をおいて、思わず呼び止める。首だけで振り返った女は、怪訝そうな表情を浮かべた。
「何か?」
「もう日が暮れる。今から麓まで下りるのは危険だ」
燃えるような夕焼けが、山の端から覗いている。遠くの稜線は、すでにぼんやりと闇に覆われ始めている。じきにあたりは暗くなり、前も後ろもわからなくなるだろう。
「だから、…その、よかったら泊まっていくといい」
「…いいんですか?」
自分でも言葉には驚いたが、そのあとに小さく笑って頷いたことは、ますます不可思議だった。



「私は桔梗と言います。あなたはお侍さま、なのですか?」
床の間の刀を見て、桔梗が問う。西洋の恰好をしている俺でも、少しは侍に見えるのだろうか。
「今は、浪人だ。俺は斎藤…いや、藤田吾郎という」
名乗りかけて、言い換える。この名前で名乗ることはもう許されていない。実際、名乗れば怖がらせてしまうだろうとは思う。…好きな、名であったのだか。
「あんたは、なぜこんな山奥へ? まだ女の一人旅は危ないだろう」
まだ、という言い方に呆れ果てた。いずれ安寧の時がくると思っているのか。そしてそれも、新政府によって。
「私は弔いをしております」
「弔い…?」
持っていた包みを大事そうに開くと、そこには二房の髪束があった。長さが違うから、恐らくは別人のものであろう。
「父と母のものです」
桔梗は顔を伏せた。部屋の中は蝋燭だけを灯しているので、やけに暗い。
「…少し前のことです。仕事で遅くなった両親は、夜の市中を歩いていました。私の家はただの商人です。腰に下げるものもなく、ただ急いでいたのでしょう」
静かに聞き入る。外は何も音がない。秋を過ぎて虫の声も、風の音もすべてがなくなった。
「そこへ、攘夷志士…それとも、旧幕府軍か。どちらにせよ、その切り結びに巻き込まれ、両親は命を落としました」
鼓動がうるさい。
「誰かが、噂していました。白い髪の鬼がやったのだと」
呼吸が浅くなる。
「もはや、誰だっていいんです。私は二人に、平和な日本を見せてあげたい。たくさんの景色を見せてあげたい」
「それ、で」
「はい。それで、旅をしています」
白い髪――その言葉が耳から離れない。
それは間違いなく、変若水を飲んだ、山南率いる羅刹隊のことだろう。つまり、彼が生きていた頃の話ということだ。そう前のことではない。
「…藤田さん? 大丈夫ですか」
「は、」
「とても、苦しそうです」
自分に呆れて言葉も出ない。行きあいの他人に心配されるほど顔に出ているとは、情けない話だ。
「……大丈夫、だ。…桔梗、あんたはやはり、下手人を恨むか? 俺たち武士を恨むか?」
俺は何を求めているのだろう。誠を降ろし、名を変えて、自分の武士道さえ忘れてしまったのだろうか。恨まれて当然だ。戦いはいつも、無関係な町人を巻き込む。刀を下げていれば、それが関係ない者であれ恨めしくもなるだろう。
「…いえ。確かに、下手人は憎いです。けれど憎しみで両親は帰ってきませんし、お侍さまを全員厭うていたらきりがないですから」
弱々しくではあるが、桔梗は確かに笑っていた。そんな顔をさせているのは他でもない俺自身だというのに、その言葉に安堵している自分がいることに一番嫌気が差した。
「……蒲団を敷こう」
引き止めておきながら風邪をひかせては悪い。何か言いかけた桔梗を振り切るように立ち上がった。



目が覚めて、外に出た。やけに冷えると思ったら、一晩のうちに雪が降ったらしい。真っ白なそれが深い山を覆っていた。
思い出すのは、新撰組の仲間のこと。北上していった副長と雪村だけではなく、道半ばに倒れた藤堂や山南、沖田と局長。道を別にしてしまった永倉や原田。一人戦場に残り、島田や決して多くはない軍勢を率いたあの時。あの時から、胸につかえている思いがある。それが何であるかははっきりとわからないが、思考を巡らすたびに息が詰まり、苦しくなる。このまま銀色の世界に包まれて消えてしまえたのなら――。
「藤田さん。…体、冷えてしまいますよ」
ふわりと肩を覆う、柔らかで温かな感触。それが羽織をかけられたのだとすぐにわかった。
「すごい……雪ですね。真っ白で、きれいです」
桔梗は白い息を吐いて、けれど嬉しそうに笑う。何がそんなに楽しいのかわからないが、冷え切った体の芯が少しだけ温かくなった。
「…おはよう」
「おはようございます。…あの、泊めてくださってありがとうございました。本当に助かりました」
「いや、気にするな…」
そもそもは俺が強引に呼び止めただけなのだから、感謝される謂われはない。
それでも桔梗は、旅支度をすっかり整え、笠をかぶって笑う。よく笑うところも雪村にそっくりだが、やはり彼女とは違う微笑みだ。
「行くのか」
「はい」
「どこへ行くんだ?」
これから冬も深くなるのに、と無意識に眉間に皺を寄せた。
「北へ――東北と、蝦夷の方へ足をのばしてみようと思います」
思い出すのは、凛とした後ろ姿。憧れてやまなかった、厳格で孤独な男の姿だ。耳の奥で高い音と低く唸るような音がする。目の前が、眩んだ。
「藤田さん…!?」
気がついたら、桔梗を腕に閉じこめていた。雪村の影が重なったのではない。ただ、北へ見送りたくなかっただけ。もしかすると命を落とすかもしれない、そう思うと、例え両親のためであってもただ送り出すことはできなかった。
「あ、あの……」
強く抱き締める。誰かの温もりを近くに感じるのは、いったいいつ以来であろうか。ただ温かく、優しかった。
「…――生きろ…っ」
平和な世界を、新時代を、どうか永く生きてくれと願った。