『そうやって、ぼんやりと生きて死ぬのかい』

だとしたら、何が悪いというのか。
誰もそれ以上もそれ以下の生き方を教えてはくれなかった。

どう、生きていけというのか。



頼りない朝日が目蓋を覆った。
漣のように押し寄せる覚醒に重い目蓋を持ち上げる。見慣れない天井の色も草臥れた藺草の匂いも、記憶には真新しい。鉛のように重い疼痛がこめかみに走り、一瞬だけ息が詰まった。
――しかし脳内に延々と響いている赤子の声は、妙に意識に馴染んでしまっている。

緩慢な動作で上体を起こす。胸元にかけてある布団は畳に力なく落ち、障子が薄く朝日を透かしていた。何気なしに視線をさまよわせると、小さな身体が視界に映る。
イタチくんだ。あの後、結局ここで寝てしまったのだろう。部屋の片隅で身を縮めている少年の姿に、苦笑が零れた。毛布を被り、身体を丸くするその姿は年相応だ。昨晩はひどく気を使わせてしまった。まだ幼さの抜けない男の子に、そこまで心的負荷を与えてしまうなんて情けない。
私は組織の末端を担うだとか、久瀬の人間であるとか言う前に、まずはひとりの人間としてしっかりしなければならない。
少なくとも、小さな子供と同等で許される年ではないのだ。

……イタチくんが起きる前に、着替えを済ましてしまおう。ふと、ひとつ息を吐き出し、布団から抜け出した。

何気なしにイタチくんを見やる。外気に晒された、まだ小さい彼の指先を布団の中に戻し、傍らにある掻巻を被せてやった。小さく身動いだその肢体を眺め、目元にかかった前髪を指先で払った。
妙な既視感が思考を舐め上げる。
胸中で疼いた虚しさに、目を伏せた。




昨晩私が騒いだせいもあるのだろうが、おそらく、日頃の疲れが一気に漏れだしたのもあるのだろう。
イタチくんが起き出したのは、昼近くだった。
ここに来るまで、ずっと彼の目元に居続けていた隈は随分と薄れた。やはり、雨隠れにいた時は、満足に寝てはいなかったのだろう。
目覚めるなり、ばつが悪そうに部屋を出ていった彼の姿には笑みが零れた。

私の方が年は上であるが、立場上は組織の正員である彼の方が上だ。ここに来るときもどちらかというと大人びた言動が多かった分、ふとしたように見え隠れする子どもの部分は、あまり他人には見せたくないのだろう。
彼から聞こえる音から、彼自身が自分から子どもの部分を剥離させたことくらい想像がつく。
何かに甘えることは、許されないと思っているのだろうか。

そんな仕様もない考えをクルクルと廻らせながら旅籠を出る準備に取り掛かる。荷物自体は大したものを持ってきていないので、さほど準備に時間はかからなかった。

そうして身支度を整え、適当に部屋を確認し、私たちは旅籠を後にした。
旅籠を出る時、女将さんは別の仕事があるとかで挨拶をすることは叶わなかった。代わりに番頭の男性にお礼を伝え、私たちは昼過ぎに旅籠を発った。

街は相変わらず賑やかだ。
昨晩見た悪夢も、旅籠に眠る古い時代の汚点も、何も知らない。そんな、奇妙なまでに明るく、虚しく華やいだ道を進んだ。

「予定より、少し遅れている。次の街に着くのは夜中になります」
「そっか、頑張って歩かないとね」
「……」
「やだな、イタチくんのせいじゃないよ。私だって起こそうと思えば起こしたところを放って置いたわけだし」
「……起こせばよかったものを」
「だって、雨隠れに来てから満足に眠れてないみたいだったから。せっかくの機会かなって。ほら、隈もだいぶ良くなった」
「そんなに、オレは酷い顔をしてましたか」
「心配してた」

特に意図して紡いだ言葉ではなかった。しかしイタチくんは何を思ったのか、進めていた歩を止める。それに一瞬遅れて私もまた立ち止まった。どうしたのだろう。首を傾げ、俯いている彼に視線を向ける。

「どうしたの」

何か、無意識に気に障ることでも言ってしまったのだろうか。ふつりと発露する自己嫌悪と不安に、気後れする。彼はおもむろに顔を上げては首を傾げた。

「逃げようと思えば、逃げられますよ」
「え?」
「今なら、久瀬からも、暁からも。オレは追いません。貴女は、自由になれます」
「何を言ってるの」

らしくない冗談だなあ。
心中の焦燥にも似た感情を、誤魔化すように言った。彼は私をただ真っ直ぐに見ているだけである。

「久瀬から逃げた先が暁だと、言いましたね。ならば、暁からも逃げればいい」
「イタチくん」
「貴女は此処に、居るべきではない」

重く突き刺さる言葉に、私は瞠目した。
逃げようと試みたことはあった。しかし全て失敗に終わった。同時にそれは予定調和でもあった。逃げられるはずがないとわかって、逃げようとしていたのだ。変わらないのだ。変わることのない自分の立ち位置を理解していた。お遊びのような逃走ごっこだった。

しかし今は。
彼は、ふと力の抜けた穏やかな顔をした。何故か、ゾッとする自分がいた。
――逃げる。
今なら、逃げられる。
しかし逃げて、何処に行けばいいのだろう。
何処で、どうやって生きていけばいい。
外に知り合いはいない。
生きていけるだけの何かを持っているわけでもない。
何もかもが零である。
何もないのに、有象無象の中に放り出されたら、どう生きていけばいい。

それは、絶海に放り出されるような、途方のない不安だ。

『久瀬が滅びればお前は独りだ。独りで生きていくすべも宛も持たないお前に、不都合はないだろう』

――あの人が、私を此処に連れてくる時に言った言葉だった。
打算的な自分が耳打ちする。
根を下ろす場所など、何処でもいい。
ただ、生きていくのに今のままで在り続けることが許されるならそれでいい。
恐ろしいのは、無力な自分が独り世界に放り込まれることだ。
この男は、それをよく知っている。

「千草さん」
「私」
「……」
「ごめん、ごめん、無理、できない」
「……」
「ごめんね、ありがとう。早く、次に行こう」
「……はい」

彼はかすかに表情を曇らせ、ゆっくりと私の前を歩き出した。理由を聞かないその優しさに甘え、私は口を噤んだ。喉の奥を押し潰すような不安に、ついぞ前を向けなくなる。
木の葉が静かに足元で踊る。




彼は、次の街に着いても、その街を発っても、終始口数が少なかった。
最低限の会話はあるが、それ以上はない。
いや、彼はもともと口数が少ない。
なら、私があまり彼に言葉をかけなくなったのだろうか。
途端に、接し方が分からなくなる。
不安定になる足場に、何もかもが憂鬱に感じられた。

そうして雨隠れを発って4日後の夜、私達は西のアジトに着いた。





20130208




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