第一話




 それは幼い頃の記憶だった。

 名前の地元に、とある小さな神社があった。そこは昔から地域の子どもたちの遊び場となっており、名前の世代もそれに該当した。
 小さき神社は稲荷神社の一つであるのだが、有名どころの神社に比べれば随分とこぢんまりとした広さだ。門を抜けて石畳を進むと少々傷のついた朱色の鳥居があり、子どもながらに立派だと感じられるものであった。その先にはお稲荷さんの像が石畳を挟んで鎮座しており、顔は本物の狐よりもかなり目元が吊り上がっている。逆らう者には天罰を下すような、鋭くも厳しい目元だ。名前は小学校低学年の頃、そのお稲荷さんが少々怖く見えたのだが、ある日その旨を神主に話すと「悪者から守ってくれているんだよ」と諭され、恐怖心は愛着へと徐々に変化していった。
 名前は毎日学校帰りに友達とその神社へ寄り道をしては境内で遊び、高学年になると賽銭箱前の階段に座って女子特有の噂話や恋バナに花を咲かせていた。立派だと感じていた鳥居が自分の背が高くなれば案外大した大きさでないと気付いたことも、お稲荷さんの像も「いつもいてくれる」安心感に変化していったことも、なんとなく記憶に残っている。
 小さき稲荷神社は名前が中学生になっても相変わらず友達との集合場所になっていた。だが成長に比例して勉強や部活、恋愛など、各々の生活に忙しさや別の楽しみが生まれるとその神社に足を運ぶことは少なくなっていった。
 名前が最後にそこへ行ったのは中学校生活最後の卒業式の日だ。思い出作りに馴染みのある友達とそこへ行き、集合写真を撮った。
 それがその神社で過ごした最後の思い出だった。



***



「…先輩、苗字先輩!」

 後ろで女性の小声がすると、反射的に肩が震えた。「えっ…何?」名前は気の抜けた返事と共に振り返った。化粧で施された涙袋の下には薄ら隈がある。メイクで隠しているつもりなのだが、慢性的な寝不足が続いているので若干青みが出ているのだ。

「先輩、例の韓国ドラマ見て寝不足なんでしょう?何話まで見たんですか?」
「えっと…確か八話くらい…だったかな…」
「めっちゃ見てるじゃないですか!しかも八話って、一番面白いトコロですよね!?」
「いや〜、そうなんだよね。寝なきゃいけないのは分かってるんだけど、続きが気になっちゃって…」
「じゃあそろそろあの人とあの人がくっついて、あの人はフラれて…って感じですよ?」
「ちょっと!ネタバレしないでよ!」

 てへ、と舌を出して誤魔化す後輩はお調子者タイプだ。愛嬌もあって可愛げのある子だが、たまにこうした関わりをしてくる。この際どくも度が過ぎない絶妙な距離感は、ある意味彼女の長所だ。自分の魅力を理解しているからこそ、仕事でもしっかり数字を取って評価に表れている。「今日中に最終回まで見ちゃうのは確定ですね」含み笑いを左手で隠した、その薬指にキラリと光るダイアモンドに自然と視線が流れてゆく。所謂、婚約指輪というやつだ。

「…そろそろ部長が来るぞ」

 名前と後輩の肩を叩いた男性社員が人差し指を口元に当てて教えてくれた。彼は名前の同期であり、就職活動を共に励んだ戦友でもある。後輩が生返事をすると男性社員は名前へ鋭い視線を送った。
「おい、教育係は一体何やってるんだ」
 そんな旨が伝わってくるが、残念ながら彼女の教育係についたのは随分昔のことだ。仕事内容はもちろん、社内のルールや暗黙の了解等も細かに教えたものの、所謂縦社会の常識は残念ながらあまり伝わってなかったらしい。彼女の性質上愛嬌で済まされることもあるのだが「甘やかすな」「俺らが新人の時はもっと厳しくされただろう」と、正直面白くないと思っている輩がいるのも事実だ。同期の彼もその一員であり、後輩の長所が短所となって表れているところでもある。
 名前は視線を流し「分かってるって…」と呟いた。
 日々の膨大な仕事量や人間関係のいざこざ、客のクレーム対応その他諸々ーーーこんな光景は日常茶飯事だ。
 波風立てず、穏やかに平凡に過ごしたい。頼むから巻き込まないでくれ。それだけが今の名前の願いであるのだが、もしかしたらこれが一番非現実的なことかもしれない。何故なら、今日から新たな人材がこの部署にやってくるからだ。
 繁忙期を目前に人事の動きがあったらしく、それが決まったのはほんの数週間前だ。異動してくるその社員も気の毒であるが、噂では意外にも飄々としており特に気に留めていないのだとか。そしてどうやらその社員というのは営業成績が優秀であり、更にいうとイケメンらしい。その“イケメン”という言葉だけが独り歩きしていたので、今日の女性社員は普段以上の気合の入ったメイクをしており、相反して男性社員は不服そうにしている。ただ、名前と後輩だけはそのどちらでもなかった。
 名前の大嫌いなイレギュラーな日だというのに、何故か彼女の脳裏には先ほどの幼き頃の記憶が一瞬だけ蘇った。…あれは一体なんだったのだろう。
 しばらくすると入口のドアが開けられた。ドアノブの音が部署に響くと同時に、背筋が伸びる。オフィス内の空気が引き締まると、今日という一日が始まった。
 まずはじめに部長が入室したのだが、その後ろに一人の男性社員がいた。おそらく例の噂の彼だろう。部長が挨拶をすると、名前と他の社員がそれに倣った。下げた頭を上げれば、自然と視線は部長の隣へ流れてゆく。

「先日話した通り、今日からうちの部署に配属された南野君を紹介する」

 部長の促しにより、南野という男性社員は一歩前に出た。長身で端正な顔立ちな上、艶やかな赤髪が特徴的なのだが、その容姿に劣らない清廉さや気品の高さが自信として溢れているようにも見える。名前以外の、女性社員の目の色が瞬く間に変わった。

「今日からこちらの部署に配属されました。南野秀一です。よろしくお願いします」

 南野秀一が慇懃に頭を下げると周りから拍手が上がった。その音に紛れて女性社員の黄色い声が混じっている。

「南野君の事はかねがね聞いている。強力な助っ人が来てくれたのだからウチも安泰だな!」

 部長の到底冗談には聞こえないジョークに周りは苦笑する。「いえ、僕はそんな…」謙遜している南野に女性社員は既に熱い視線を送り、小声で盛り上がっていた。先日プロポーズを受け、婚約指輪をチラつかせていたあの後輩までもがすっかり虜だ。
 名前は「確かに噂通りの人だよな…」と納得する傍ら、恋愛感情抜きで何故かこの男から目が離せなかった。何が、と問われれば具体的に説明は出来ない。眉目秀麗で秀才、それだけで他者から注目を集める理由になるのだが、それとは全く別物の不思議な感覚だった。

「あれ、先輩も南野さんの虜ですか?」

 耳元で後輩が小突いてくる。どうやら南野にまんまと心が奪われたと思われていたらしい。面白そうにニヤついてくるのが何よりの証拠だ。
 彼女には長年付き合っている彼氏がいて、数か月前婚約者という呼称に昇格した。先日某結婚雑誌を購入したらしいのだが、やはりイケメンは別枠らしい。「あんなカッコいい人がウチの部署に来るなんてヤバイっすね!私、指輪、外そうか迷いましたもん!」「あのねぇ…」名前が呆れて返答したその瞬間、南野と名前の視線が絡んだ。南野は一瞬目元を鋭くしたが、瞬く間にその鋭さを消し口元に弧を描いた。
 …何、今の。
 率直な疑問が浮上した途端、周りの女性社員からはいよいよ興奮気味な声が上がった。「こらこら、みんな静かに!」部長が宥めるが彼女たちの黄色い声は止まない。…と、同時に某派閥の一部女性が名前に鋭い視線を送り始めた。おまけに蚊帳の外にいる男性社員は遠くを見つめていたり、慰めあったり、邪推を持って南野に絡もうとしている。
 …全く冗談じゃない。面倒事に巻き込まれるのはまっぴら御免だ。それが名前の本心だった為、南野という男とは極力関わらないことを誓った。無論、仕事の神様に、だ。私は恋愛沙汰を楽しむ為に会社に来ているわけではない。
 名前がフイ、と素っ気なく南野の視線から逸らした。だが、彼は表情を一つも変えず、すぐに他社員との雑談を始めた。その間何度も名前に視線を送っていたが、彼女がそれに反応することはなかった。



「では、南野君が我が部署に助っ人に来てくれたことを祝って、乾杯!!」

 部長が上機嫌で乾杯の音頭を取ってから既に数時間が経過していた。
 “ようこそ、南野くん!!”と、まるで大学生のような雰囲気の歓迎会は、華金の某大衆居酒屋で行われていた。この部署は良い意味でも悪い意味でも飲兵衛がわんさかいるため、何かと理由をつけて盃を交わす機会が他の部署よりも多い。「今日は無礼講だからな!」部長のお決まり台詞もこれまで何度聞いたことか。
 今までの飲み会もそこそこ人数は集まっていたのだが、今日はいかんせんあの“南野君”が主役なので女性社員の出席率が非常に高い。南野は上座で上司に挟まれているが、二次会が始まれば話は別だ。女性社員はその機会を今か今かと待ち構えていた。「私が南野君の隣に…」それを狙い、表面上は笑顔で会話の花を咲かせているが、実は恐ろしい爪を隠している。上司に酒を注いでいる傍ら、隙あらば南野と話をしたいがためにお酌の機会を互いに見計らっているのだ。目つきはもはや女豹であり、この同調性を乱す者がいたら即座に鋭い爪の矛先となるだろう。
 薄っぺらくも甲高い猫撫で声、豪快に酒を飲み干し下品な笑い声が飛び交う空間、トドメは疲労感の限界を迎える金曜日の夜ときたものだ。名前はこの歓迎会の出席は決して乗り気ではなかったし、かといって女性社員の同調圧力に反発する気にもなれなかった。
「私たちの南野君に、余計なちょっかい出さないでね?」
「あなたは南野君と釣り合わない」
 これが彼女らの本音であり、わざわざ見せつけたい私欲もあったのだろう。そこに逆らうつもりも毛頭なかったので「お好きにどうぞ」の精神で渋々この場にいる。おまけに先ほどから同期男性社員の「俺も彼女との結婚をどうしたら…」という、毎度恒例の悩みを聞かされており、正直うんざりしていた。
 こんな場所で時間とお金を奪われるくらいなら、やはり終わりを待たずとも帰りたい。名前は二杯目のハイボールを半分飲み切ったところで静かに視線を泳がせた。
 周りは相当酔いが回っており、尚且つ相変わらず南野へのヨイショが止まらず盛り上がっている。そして南野も南野で持ち前のコミュニケーション能力を大いに発揮し、ずっと笑顔を保持しているではないか。

(すごいな…あの人…)

 いくら酒が入っているとはいえ、率直な感想がそれだった。時間もそこそこ経ってる中雰囲気を壊さず、寧ろ保ち続ける上に時々場を盛り上がらせているのは弁が立つ証拠だ。おまけに女性社員からの明らかなアプローチも嫌な顔をせず、しかし相手を傷つけず上手に避けている。
 営業成績がトップなだけに、南野は本当に優秀な社員なんだと改めて実感した。実際彼がこの部署に来てから全体の士気が高まり、仕事が円滑が進み風通しも良くなった。それは上司を含む社員一人ひとりとの関わり方や選ぶ言葉のセンス、雰囲気作り等、統括して全てが上手い。末端社員の自分とは大きな違いだ。南野はサラリーマンの鏡であり、これからもずっとエリートで出世コースを歩んでいくんだろうな、と勝手な想像をしてしまう。
 そんなことをぼんやり考えていると、ふいに南野と視線が絡んだ。それも初対面の時のように微笑んできたのだ。
 名前は不覚にも胸が高まり、グラスを持つ指に力が入った。

「おい…聞いてんのか?」

 名前俺は気付かぬうちに体が硬直していたらしい。同期男性社員に声をかけられ、ハッと現実に戻った。「あー…ちょっと、酔ったかも」今の自分を誤魔化すように、残りの酒を一気に喉へ流し込んだ。今日ばかりは後輩が隣にいなくて良かった。今の状況を見られていたら絶対に冷やかされるに違いない。彼女と彼の、両親の顔合わせがこの土日に行われるようで良かった。前泊しようと案が出たことに感謝せねばならない。
 小一時間経った頃、一次会はようやく解散となった。部長に捕まった男性社員が飲み屋街に消えていく様子を憐れんで見送った後、残った男性社員と女性社員が二次会の場所を決めかねている。当然南野もその輪にいた。

「苗字も行くだろう?」

 先ほどまでグチグチ悩んでいた男性社員が声をかけてきた。時間が経って少々酒が抜けたらしい。故に再び飲み直したいのだろう。

「あ〜…。私はいいかな。明日朝から予定あるし」

 嘘。本当は予定なんてない。一応、場の雰囲気は読んだつもりだ。「え〜そうなの!?」「もっと一緒に飲みたかったのに〜!」女性社員からの見え見えな社交辞令は伝わっているが名前は笑顔で軽く謝った。

「苗字さん、忙しいんだね。じゃあ仕方ないか…。気を付けて帰ってね。お疲れ様」

 例の、某派閥内の一人が発した言葉はまるで感情がなかった。名前の眉尻が一瞬上がったが、ここで歯向かうのは英断ではない。「ありがとう。お疲れ様でした」名前は軽く挨拶をして踵を返した。「人数も決まったことだし、どこに行くか決めようか」その場に残った社員の声が後ろから聞こえる。名前は当然そこに反応するつもりもなかったので歩み続けたが、南野がこちらに視線を送っていることは気付かなかった。

(なんだかとんだ華金になったな…)

 名前はトレンチコートのポケットに手を入れて歩き続けながら、ぼんやりとそんなことを考えた。嫌でも反芻してしまうのが先ほどの件だが、それを上回るほど印象強く残ったのはやはり南野のことだ。
 どんちゃん騒ぎのさ中、下座に座っていた自分とまさか視線が絡むとは思いもしなかった。おまけにあの雰囲気の中で笑顔を見せられれば、否が応でも特別感を感じてしまう。…そんなわけ、ないのに。
 南野が異動してきてから、仕事上何度か会話を交わすことはあった。しかしお互い別の案件を抱えている中だったので、内容は必要なことを確認する程度のものだ。故に踏み込むような会話は一切していない。だが南野はいつだって話しやすい良い雰囲気を作り、こちらの意図を汲んで円滑に仕事が進むような配慮や、労う言葉をかけてくれた。これは名前に限らず他の社員に対してもそうなので、それが南野の人柄でもあり魅力なのだと直に感じるその一方で、彼の内に秘める思いや考えに触れたわけではないのだ。
 南野は普段、どんなことを考えているのだろう。休みの日は何をしているんだろう。好きな食べ物はなんだろう。どんな音楽を聴くんだろう。
 
(…あれ?)

 なんでこんなにも南野くんのこと、気になってるんだ?
 
 名前が悶々としているさ中、理性が戦っているのは自覚していた。この気付きは知っている。しかしその先にチラつくのは女性社員の顔だ。伊達に長年大人をやっているわけではない。故に学生の頃のように、素直に認められないのだ。
 …これはきっとアルコールのせいで高揚しているんだ。だからこんな思考になっているに違いない。こんな思い、認めたくない。払拭したい。必要のない邪推を忘れるためにはもっと酒の力を借りたい。…だったらこの際、とことん朝まで飲んでしまおうか。
 名前がそんなことを考えていた矢先のこと、急に右肩が重たくなり体の重心が傾いた。思わず転びそうになるほどの勢いだった。

「ねぇ、お姉さん一人?」

 顔を覗き込んできたのは見ず知らずの男だ。所謂反社会的な組織に属していそうな風貌なその男性は、名前の右肩を抱き寄せて体を密着させてくる。ほのかに香るアルコール臭に背筋が粟だった。

「ちょっと…やめてください!」
「えー、いいじゃん!ちょっとくらいさ〜!お姉さんだってこういうの、求めていたんでしょう?」
「はぁ!?」

 男が前方に視線を送ると、そこには数人の男性達がこちらを見ている。彼らの出で立ちもまた、名前に絡んできた男と似たようなものだ。ここで初めて名前はハッと気が付いた。この先にはネオン街が続き、左右に所狭しとラブホテルが並んでいるではないか。おまけに客引きが所々にいる上、露出の多い女性が中年男性を口説いていたり、卑猥な写真が使われている電子看板が道の端に置かれていたり等、夜の街のディープさが露見している。男性たちが屯っている店も地下に薄暗い階段が続いており、どう見ても危険な匂いしかしない。ここで改めて名前は身の危険を自覚した。
 
「本当にやめてください!警察呼びますよ!?」
「怒らないでよ〜!お姉さんくらい可愛かったら、まぁまぁ稼げるよ?どう?世の中不景気だし、俺と一緒に稼いでみない?」

 男の腕に力が入り、より顔を近づけてきた。気持ち悪い。触らないでほしい。嫌悪感を全面に出して抵抗しようとも、男の力には敵わずズルズルとあの危険な場所に近づいてゆく。

「いい女、見つけましたよ〜!」

 男が叫ぶと、彼らは近づいてきた。名前の指先は恐怖のあまり熱が奪われ、みるみるうちに顔面蒼白へと変わってゆく。否が応でも腰を落として抵抗するが、男性の力にはやはり敵わない。

「お願い、やめて…!」

 絞りだした小さき声に反応するように、男の腕が名前の腰に回る。「俺たちと気持ちいいこと、しようよ」耳元で囁かれた瞬間、名前の全身が震え、瞳に涙が潤み始めた。すると名前の右腕が急に引っ張られ、体は男から引き離された。名前は自分より大きな誰かに抱き留められると、ほんのり漂ったのは甘い薔薇のような香りだった。更に視界を埋めたのは見覚えのあるネクタイとスーツ、そして特徴的な赤い髪だ。

「すみません。俺の連れに手を出さないでいただけますか」

 大きな胸板に抱きしめられていると気付いたのは、頭上から馴染みのある声が聞こえた時だった。

「南野…くん…!」



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