第二話




 レンガ調の壁と木目柄の扉の上には、温かみのあるランプが光を灯している。その光が二人の影を作っており、背丈の高い影が前に出るとドアノブに手をかけた。木目調の扉が開かれると頭上から高いベルの音が鳴る。「いらっしゃいませ」店内ではカウンター越しに、白髪頭を綺麗に整えた老人が慇懃に頭を下げた。

「二人です。カウンター、空いてますか?」

 南野が答えた。彼の背後から名前がひょこっと顔を出している。

「はい。どうぞこちらへ」

 恐らくこの店のマスターであろう老人が真ん中よりも少々端の席を案内した。南野は軽く会釈するとこなれた様子でさっさと上着を脱ぎ始め、席に着く準備をしている。名前はそれに倣い慌てて会釈すると、マスターは目尻にしわを作り微笑んだ。
 名前もまた、上着をホールスタッフに預けると改めて周りを見渡した。マスターの背後にはワインやシャンパンのボトルが所狭しと並べられ、それがカウンターのライトに照らされてより味の出たインテリアと化している。
 カウンター席の後ろにはホール席がいくつかあった。店内は決して広々とはしていないのだが、一つ一つの席が硝子調のテーブルであったり、高級感溢れる上質な皮を使用したソファー席が設けられている。更には店内を照らす暖色の照明や、インテリアのアクセントとなる絵画、耳心地のよいモダンなBGM等がムーディな雰囲気を引き立てていた。
 角の一席にはスーツ姿の男性客が三人座っており、その出で立ちからは清潔感や気品の高さを感じる。さすがに会話の内容までは聞こえないが、名前が普段使わないような横文字の単語を使っているのだけは伝わった。いわゆる意識高い系、とやらだろうか。それだけでどこかの上場企業の界隈なのだろうと、邪な勘を働かせてしまう。
 …一体なんだ、ここは。これまでの人生でまるで縁もゆかりもない場所なのだが。名前は自分の置かれている状況や場の雰囲気をようやく冷静に理解し始めると、徐々に現実味を帯びてきた。

「飲み物、何にする?」
「へっ!?あ…飲み物…飲み物ね…。え…っと、どうしよう…かな…」
「ゆっくり決めていいよ」

 南野が提示してくれたメニュー表には洋酒やカクテル、ノンアルコールのドリンクまでもが整然と並んでいる。そこで思わず目を剥いたのは値段だ。この店で提供しているドリンクは普段通い慣れている大衆居酒屋では絶対にありえない金額であり、名前の脳内は一瞬にして財布の中身やクレジットカードの引き落とし金額が過った。
 南野は名前がメニュー表を見たまま逡巡していることに気が付くと、困ったように口角を上げた。

「今日は俺の奢りだから気にしないで?遠慮されるとこっちも申し訳なくなるから」
「えっ…。さすがにこれは…」
「ほら、ここは元々俺が来てみたかったお店だし。苗字さんの飲みたいものを頼んでいいよ」
「でも…」
「いいから。ね?」

 このまま遠慮合戦をしても埒が明かない。南野は折れる気がなさそうだ。名前は申し訳なさそうに礼を言うと「じゃあ…ジントニックで…」と呟いた。南野は快諾するとマスターに注文した。「同じ物を、」この一言がこんなにも様になるような男性もまた、今までに見たことがない。
 名前はウェイターから受け取ったおしぼりを広げた。手のひら全体を湿った熱が覆い、それだけで緊張が少しほぐれた。指先の細かなところを拭き終えれば、開放感や爽快感で深い吐息が漏れる。

「顔色、だいぶよくなったね」

 南野が名前の顔を覗き込んで微笑んだ。

「南野くんのおかげだよ。さっきは本当に助けてくれてありがとう。南野くんがいなかったら今頃どうなっていたか…考えただけでもゾッとする…」
「突然あんなことされて驚かない人なんていないよ。…でも無事で良かった」
 
 南野が再び微笑んだ。…ああ、ずるいな。こんな扱いされたら本当に勘違いしてしまうじゃないか。
 …とはいえ、先ほどは本当に南野の存在に助けられたのだ。…今でも鮮明に思い出せる。
 あの時の南野は呼吸が浅かった。彼の白く染まる吐息が目の前で空気の中に消えゆく様や、街灯の温かい明かりに照らされる赤髪と透明感溢れる翡翠色の瞳。そして肩を抱いてくれた彼の腕は、捲り上げたシャツから引き締まった二の腕が見えた。
 おそらく、遠目で名前を見つけて慌てて駆けつけてくれたのであろう。
 名前に絡んできたあの男たちは、最初は噛みついてきたものの、南野の鋭い睨みと恐ろしいほどの威圧感を感じとった途端、すぐさま尻尾を巻いて逃げてしまった。彼の、まるで威嚇した様はこちらでさえも慄いたほどだ。それは南野の感情がむき出された意外な一面というか、知らなかった一面でもあった。
「怪我はない?」
 しかし彼の威圧感は一瞬で消え、眉を下げた顔を覗き込まれると、今度は別の意味で四肢が動かなかった。恐怖心と安堵感が見事に交錯したあの瞬間ばかりは声も出せず、頷くほかなかったのだ。観察力の高い南野のことだ。それを瞬時に解すると「場所、変えようか」と提案し、あれやこれやと言ううちにこのダイニングバーへやってきたのである。
 この店に着くまで南野は余計な言葉はかけず、ただただ肩を抱いて、歩調を合わせてくれた。何せあんな経験が初めてだったからこそ、恐怖心はすぐには和らがなかったが、南野らしい気遣いは彼の手のひらから伝わった。無言でいられる雰囲気がこんなにもありがたいと思ったのも初めてだ。
 南野と名前の前にジントニックが置かれた。「ごゆっくりどうぞ」マスターは会釈すると再びカウンターの奥へ消えた。

「二次会スタートってことでいい?」

 南野が遠慮がちに聞いてきた。ひょんなことでこんな場に来たが、これもまた南野なりの気遣いなのであろう。心を後ろ向きにさせない、そのひと言に再び安堵する。

「うん。…連れて来てくれて、ありがとう」

 一瞬、南野は面食らったような表情を見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「それじゃあ、乾杯」

 二つのグラスが触れて軽い音が鳴ると、南野と名前は同時に喉へ流し込んだ。こくん、と名前の喉が鳴り、身体中が一瞬にして潤った。…さっぱりしていて飲みやすい。先ほどの件で一度酔いが覚めたが、これは再び気持ちよく酔えそうだ。

「ん…。美味しい…!」
「良かった。気に入ってもらえたみたいで」
「南野くんってこの辺のお店に詳しいの?…私、初めてこんな隠れ家みたいなバーに来たよ」
「それなら尚更良かったよ。実は俺の友達がこの近くで屋台ラーメンをやっていてね。だからこの辺のお店のことはちょっとだけ詳しいんだよ」
「へぇ。南野くんのお友達が…屋台ラーメン…」
「いつも最高に美味しいラーメンを作ってくれるんだ」

 正直、南野と屋台ラーメンはあまり結びつかない。こんな店を知ってるからこそ、普段から高貴な雰囲気の店ばかり行ってそうなイメージだったが、実はそうではないらしい。しかも友人がラーメン屋を営んでいるのも、これまた意外だった。…案外庶民的なところもあるんだ。
 名前は南野の新たな一面が見れたことがなんだか嬉しく、自然と口元が緩んだ。普段では考えられない肴をいただきながらの酒は、やはり美味しい。
 しかしふと、疑問が浮かんだ。

「あのさ…南野くんはみんなと二次会に行かなくて良かったの?」

 結果、ここで特別感溢れる二次会をしている中、随分と野暮なことを聞いたかな、とも思った。しかし助けてもらった身とはいえ、自分と一緒にいて良かったのか純粋に気になったのだ。それに彼に色めいていた女性社員や、部長の相手から解放された男性社員等は、もっと南野と盃を交わしたかっただろう。あの場で弁舌な姿を見れば誰だってもっと話してみたい、関わってみたいと思うに違いない。
 前者はさすがに伏せたが、名前はその旨を伝えた。すると南野は数口酒を飲んだ後、しばし黙考した。そして名前の顔を下から覗き、視線を絡めてきた。

「…苗字さんと、二人で話してみたかった。…っていうのが正直な理由なんだけど…」

 全く予想なんてしていなかった突飛な発言。更には上目遣い。それらは名前の動きを一旦全て止めるのには十分であり、目を剥いた。

「…は…い…?」
「…何度も同じこと、言わせないでよ」

 南野は少々頬を染め、憎々しげに答えた。同時に名前の脳内では彼の言葉が反芻される。…今、何が起きたんだろう。名前のグラスを持つ手に再び力が入る。

「一次会は楽しかったよ。部長さんとたくさん話せたし、他のみんなも場を盛り上げてくれたからね。あんな賑やかな飲み会は久々だったから、ついつい俺も羽目外しちゃったんだ。くどく喋りすぎちゃったよ」
「いや、全然そんなことないよ!まぁ…確かに今日の飲み会はみんないつもよりテンション高かったけど…。…でもそれって、みんなが南野くんと話せて嬉しかったんだと思う。ほら、何せ南野くんはうちの部署の救いの神みたいなものだから」
「…俺、みんなが思ってるほどそんな大それたことしてないよ。寧ろこの部署は苗字さんのサポートがあった上で上手く回してきたって思うことが多いかな…」
「え、私…!?」

 これまた予想外の展開だ。本当にいい意味で、酔いが回りそうである。名前は動揺を隠すように酒を喉に流し続けた。

「みんなそれぞれ自分の案件抱えながら仕事進めているけど、細かな配慮は苗字さんの努力の賜物だと俺は思ってるよ。取引先との商談や電話対応も丁寧だし、周りで困っている人がいると必ず声をかけているし、人間関係の橋渡しも空気を読みながらやってるよね?それから…そうだな…、あとは備品の細かな整理とか…」
「え、ちょっと待って。なんでそんなところまで知ってるの!?」
「俺が気付いてやろうと思ったこと、苗字さんが先回りしてやってくれてることが多かったから。…周りは“俺が来たから全てが上手く行ってる”みたいなこと話してるけど、そうじゃない。苗字さんの、そういう細かな気付きが風通しのよさに繋がったんだと思うよ」

 南野の真摯な言葉は、名前のえぐられたような心が満たされた感覚だった。グラスを握った手からは徐々に力が抜けていき、自分を保っていた何かがプツンと切れた。弛緩した体は正直だ。名前の瞳には涙が滲み、瞬きをすると一つの雫が頬を伝った。

「わっ、ごめん!俺そんなつもりで話したわけじゃ…!」
「ううん…。いや、ちょっとびっくりして…。私のことをそんなふうに言ってくれる人、今までいなかったから嬉しくて…。ありがとう…」

 指先で目頭を抑え、必死に作り笑いをする名前。しかし南野はその手を取り、名前と視線を絡めた。

「俺…誰にでもこういうこと、言ってるわけじゃないからね?」

 麗しくも美しい翡翠色の瞳が覗き込んだ。名前の呼吸が今にも止まりそうなほどの、緊張と高揚が入り交じった感情が混沌とする。「苗字さん…」南野が何か言いかけたその瞬間、聞き慣れない着信音が響いた。彼のスマートフォンに電話が入ったのだ。
 南野は画面を確認すると一瞬瞳が揺らいだが、瞬時に眉を下げ、申し訳なさそうに立ち上がった。

「ごめん、ちょっと電話に出てくる」
「う…うん…」
「待ってる間、お酒追加注文して構わないからね」

 そう言い残すと南野は「もしもし?」と話しながら店の外へ出て行った。
 カランカラン。ベルの軽やかな音が鳴ると名前は途端に脱力し、大きく深きなため息をついた。少々肩の力が落ちたが、先ほどの会話が反芻されると思わず両手で顔を覆ってしまう。
 やばい。ニヤけが止まらない。同時に涙も再び溢れそうになった。…まるで夢のようなひと時だった。絶対お酒だけのせいでもないし、酔いが回ったせいでもない。しかしあの場で、勢いだけで自らの大切な思いを伝えなくて良かった。あの雰囲気なら、この感情を認めてもいいと思ってしまったのだ。ある意味、南野のもとに着信が入ったことに感謝せねばならない。
 …思いのほか顔の熱はすぐには引かなかった。いや、寧ろ上がる一方だ。名前は残ったジントニックを全て飲み干すと、マスターにお冷を頼んだ。その折、ドアのベルが鳴り、南野が戻ってきた。しかしその表情は先ほどよりも曇っている。…何かあったのだろうか。

「ごめん、席外しちゃって…」
「ううん、大丈夫だよ。…何かあった?」
「ちょっと仕事のことで…」

 マスターが名前の前にお冷が入ったグラスを置いた。

「…お酒、頼まなかったの?」
「あ、うん…。ちょっと酔っ払っちゃって…ははは…。それよりも、仕事のことって?何かトラブルでも起きた?」
「いや、トラブルってわけじゃないんだけど…。…苗字さん、来週のスケジュールがわかるものってある?木曜日のミーティングのことで相談があって…」
「私、手帳あるよ。ちょっと待ってて」

 名前は身を屈ませて鞄の中を漁った。手帳は大きめの内ポケットに常に入れているのですぐに取り出せた。

「えっと…来週の木曜日…だよね…」

 手際よく表紙の裏にかけてあったボールペンや挟めていた付箋を手に取り、パラパラとページを捲る名前。南野もいつの間にか手帳を準備しており、彼女の様子を伺っている。

「あ、あった…。うん、確かにあるね。第二会議室を抑えてあるよ。議題は…次のプロジェクトに向けてか…。長くなりそうだよね…」
「実はこの日の夜、どうしても外せない用事が出来ちゃって…」
「…開始時間、早められないか部長に相談してみようか?」

 名前の発言に南野は目を丸くする。

「今日ご馳走してくれたお礼、させて?事前資料は作っておくよ。私、来週はそんなに忙しくないんだ。…って言っても、予想外のトラブルがない限りは、だけどね。部長にはスケジュール調整したいって話せばなんとかなると思うんだ。…だから心配しなくて大丈夫だよ!」

 名前は付箋にメモを取り、開いてあるページの隅に貼った。彼女の自信あふれる笑顔は眩しく、どこか頼もしさも感じた。
 南野はフ、と静かに口元に弧を描いた。「…そういうところだよ」まるで蚊の鳴くような声。その言葉は名前には届かず、何かを有耶無耶にされたように聞こえる。

「…何か言った?」
「いえ、何も。…ありがとう。そうしてもらえると助かるよ。…ところで、さっき気になったことがあるんだけど」
「…何か変なこと、書いてあった?」
「いや、そうじゃなくて。…表紙のカバーに写真、入ってなかった?」
「写真…?…あぁ、これ?」

 名前は再びページを戻して表紙裏を出した。確かに、付箋の後ろに一枚の写真が収まっている。

「よく気付いたね」
「俺、目は別格いいんだ」
「そうなの?南野くん視力いいんだ。いいな〜羨ましい」

 会話を進める中、名前は南野が示した写真に手を伸ばした。しかし取り出したはいいものの、どこか気恥ずかしいのか、なかなか机上には置いてくれない。

「…見せてくれないの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど…。…笑わないって、約束してくれる?」
「…そんなに笑いを期待できる写真なの?」
「うーん…人によっては…?」

 名前は少々照れながら、ようやく写真を机上に置いた。そこに写っているのは学生服を着用した男女八人の写真だった。少年、少女らしいあどけない眩しい笑顔で、全員が黒い筒を手にしている。一人の少年は紙を広げて写っていた。そこには小さな文字であるが卒業証書と書いてある。背景には朱色の鳥居が映っていた。どうやら神社で撮影したらしい。

「これ、私が中学校を卒業した日に撮った写真なの。ここに写っているのは全員幼馴染なんだ。…地元の友達って話した方が早いかな」

 なるほど。人によっては、の意味が分かった。南野は改めてこの写真をまじまじと見つめた。

「…みんな若いね。制服だからっていうのもあると思うけど、中学生って感じがするよ。…これ、もしかして苗字さん?」

 南野は一列目の、左の端に写っている少女を指差した。そこに映る少女はショートカットで、笑顔からは活発さが伝わってくる。名前の笑顔には当時の面影が残っているのだと、南野は思った。

「よく分かったね!そう、これが私。中学の時はずっと髪が短かったの。高校に行ってから髪を伸ばし始めたんだ」
「へぇ、そうなんだ。でもこの苗字さんも可愛いね」
「あはは!南野くんって冗談が上手いよね」

 いや、冗談じゃないんだけど。南野はその言葉発する直前で呑みこんだ。
 名前は、自分では気付いていないだろうが頬も耳も赤く染まっている。いい塩梅に酔いが回っているのだろう。さきほどよりも、表情や言葉に高揚感が表れている。
 名前は酔いを中和するように水をどんどん喉に流し込んだ。南野も残ったジントニックを静かに飲んでいる。

「この写真ね、私の宝物なんだ。上京した時に何かお守りになるものが欲しくて…。引っ越しの時、荷物を整理してたら出てきたの」

 名前は懐かしそうに写真を見つめながら続けた。

「この写真、みんな笑顔だけど実は卒業式の直前まで大変だったんだ〜。所謂…三角関係的なやつ?この子とこの子が、この人を好きになっちゃって…」
「へぇ。そんなことがあったんだ」

 名前は律儀にも、例の三角関係になった三人を順番に示した。

「そうなんだよ。漫画とかでよくある話しだけど、まさか自分の周りでそんなこと起きるとは思ってもいなくって。みんなで「アイツらのこと、どうするよ?」みたいなこと、たくさん話したんだ。懐かしいな…。…あ、」

 名前の動きが止まると同時に、視線は南野に向けられた。南野はそれが予想外だったのか、目を丸くしている。

「…急にどうしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけど…。一つ思い出したことがあって…」
「何?」

 名前は目線を左上に向けた。

「そういえば南野くんがウチの部署に来た時、何故か一瞬この神社のことを思い出したんだよね」

 南野の眉尻がピクリと微動した。

「…へぇ。そうだったんだ。知らなかったな」
「今まで忘れてたってのもあるんだけど…。あの日の朝、すごく不思議だったんだよね。別に夢に出てきたわけでもないのに、なんで急に神社のことを思い出したりしたんだろうって…」

 名前の目線が再び南野へ向けられると、彼の笑顔に陰りが生じたような気がした。口元は相変わらず弧を描いているが、雰囲気がさきほどとはどことなく違う。名前は隣でそれを直感で感じると、突然瞼が重くなった。

「…なんでだろう…変だよ…ね…。こんな風に…思う…の…は…」

 次いで、目の焦点が合わなくなってきた。視界が霞み、景色が歪んで見える。更には白い霧がかかったように、徐々に何も見えなくなってきた。頭も重くなり、呂律もうまく回らない。「あ…れ…?」名前がなんとか意識を保とうと口を開く。しかしその瞬間、霧がかかった歪んだ視界の先に見えたのは、特徴的な大きな二つの耳や銀色の長い髪の毛、そしてこちらを見つめる金色の瞳だった。その姿に重なって見えるのは、例の思い出の神社にいたお稲荷の像だ。

「み…なみ…の…くん…は…」

 南野は、舟をこぐように揺れている名前を見て微笑んでいる。

「きつ…ね…さん…な…の…?」

 しかし南野の表情は一転し、目を剥くと同時に眉尻が大きく上がった。名前の瞼は完全に閉じると、ぐらりと南野の元に寄りかかった。睡魔に侵された彼女は心地よさそうに寝息を立てている。

「…まいったな。これは予想していなかった」

 南野はぽつりと呟くと、ウェイターから上着を預かり、トレーにカードを載せて会計を済ませた。カウンター越しから、マスターが心配そうに見ている。

「あ、大丈夫です。酔っぱらったみたいで…。連れて帰りますし、どうかお気遣いなく」

 南野はカードを預かり、支度を整えると、名前の肩を抱いて外へ出た。
 ここは繁華街から少々奥まった場所にあるので、遠くから酒を楽しむ人々の声は微かに聞こえるものの、人通りは少ない。南野は周囲の様子を入念に確認すると、名前の身体を横にし、膝下に手を回した。いわゆる、お姫様抱っこだ。自身の肩には二人分のビジネスバッグがかかっているが、こんな重さは全く気にしならない。
 南野はそのまま細い路地を駆け抜けていき、再び周囲を確認するとビルの壁を何度か蹴って俊敏に跳躍した。人間離れした動きであるが、軽やかな動きの中にはしっかりとした安定感があった。
 南野は屋上に辿り着くと、次々と隣のビルへ転々と跳躍を続ける。そして街中の雑踏が豆粒ほどの小さく見える高いビルに到着すると、先ほどよりも冷ややかな夜風が靡き、髪が大きく揺れた。
 南野の目線の先には二人の男が立っていた。

「待たせてすまない」

 南野が平謝りしながら二人の男に近づいてゆく。相反して、対峙した男たちは南野の腕の中で眠っている名前を一瞥すると、怪訝な表情になった。

「…こりゃあ思ってたよりも厄介だな」

 対峙しているうちの一人、リーゼント頭の男が呟いた。隣にいるもう一人の男は額に第三の眼を宿しており、自身は双眸を閉じているが、額の眼は名前を見つめていた。

「フン…。信じられほどのタチの悪いモンが憑いてやがるぜ…」

 男は第三の眼を隠し、瞼を開いた。

「幽助、飛影。…準備は出来たってことでいいんですね?」
「あたりめーよ!電話をかけた時から万端だったんだぜ」
「つまらん御託はいいだろう。俺は先に行っている」

 飛影、と呼ばれた男はビルの柵に足をかけ、先ほどの南野のように俊敏に跳躍して行った。

「荷物くらい持ってやるぜ。その子はお前が抱いて行けよ」
「ありがとう、幽助」

 先ほどのリーゼント頭の男、幽助は南野から二人分のビジネスバッグを受け取った。

「うげっ…!お前らいつもこんなモン持ち歩いてんのか!?世のサラリーマンとOLってすげぇな…」

 どうやらそれは見た目以上の重さだったらしい。幽助は両肩にそれぞれの鞄をかけた。パソコンが入っているから慎重に、と南野から忠告をされている。

「しかしよぉ。手帳を取る隙に眠り薬を入れるなんて、さすがだよなぁ。久々に腕が鳴ったんじゃねぇの?大盗賊さんよ」
「元、ですよ」
「へぇーへぇー。失礼しやした。…じゃあ、俺らも行くか。蔵馬、気を付けて着いて来いよ」
「お気遣いどうも」

 幽助もまた、先ほどの飛影のように俊敏にビルを渡っていった。
 南野秀一―――もとい、蔵馬は口元に薄ら弧を描いた。こういう時こそ、つくづく思うのだ。本当に、良い友を持った、と。
 名前が過去を懐かしむあの思いも、今は尚更共感できる。

「…必ず、俺が守るからね」

 蔵馬は腕の中で眠っている名前に声をかけると、大きく地を蹴り夜の闇へと消えて行った。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -