カウンター越しの店員の眉間の皺が、徐々に増えてゆく。丸いレンズ越しに見つめているのは紙面とパソコンの画面。それを交互に見比べ、小さく唸り嘆息をつくと、鼻に掛かる眼鏡の淵を指でクイと上げた。
 何度見ても結果は変わらなかったようで、諦めるとようやく目の前の来店客へと視線が移った。

「お客さん、やっぱりだめです。市内のどこの店舗にも在庫が…」
「では、市外なら?」
「そうですねえ…市外ですと…うーん、やっぱりどこも同じです。何せ人気ベストセラーシリーズですからね。予約していないとなるとやはり難しいかと…」

 来店客の男は、それでも引こうとはしなかった。どうしてもその書籍を手にしたいのだろうか、依然と諦める素振りも再来店する気配も、微塵も感じない。尚且つ男の端正で清閑な顔立ちがまるで有無を言わせないようだ。店員は丸眼鏡越しで、瞳が揺らぐのを感じた。
 恐らく本人はそんなつもりはないのだろうが、どこか威圧的で、まるで狙った獲物は逃さぬ獣のような動物的なものまで感じるのは気のせいだろうか。早く何か手を打たねば、なんだか肝を冷やしてしまいそうだ。店員は再び、市外の店舗の在庫リストを念入りに確認した。
 羅列する数字と赤字の罰印を目で往復するが、ある店舗の欄を見つけると「あっ」と小さく声を上げた。瞬きを何度しても、やはり結果は同じだった。どうやら神様は微笑んでくれたようだ。

「お客さん、奇跡的に一冊だけありました。ただ、ここから離れている店なので配送には時間がかかりそうですが…」
「どこの店ですか?」

 店員が店舗の名を上げると、意外にも男は目を丸くさせた。次いで目を細め微笑むと、先ほどの威勢は嘘のように穏やかな雰囲気を出す。やりとりの最中、一切感情が伝わってこなかったが、転じて見せた笑顔は所謂美少年に該当するものだった。

「その街なら、直接取りに行きますよ。早く続きを読みたいですし」
「ですが、皿屋敷市から随分と離れて…」
「いえ、大丈夫です。その街なら馴染みがあるので」
「はぁ…」

 そんな会話の最中、男から少し離れた自動ドアが開いた。新たな来店客と共に風が入り、男の赤い長髪がほのかに靡く。顔に掛かった髪の毛を耳にかけるその仕草は、男性である店員も何故かうっとりする程だった。その証拠に、美容雑誌コーナーにいた女性客が数名黄色い声を微かに上げている。
 だが、当の男は特に気にもせず店員から視線を外さなかった。恐らくこれがこの男の日常なのだろう。

「じゃあ、改めて予約しても?」
「え、あっ、はい…そうですね…」

 ぽかんとする店員を現実に戻すかのよう、男が再び声を掛けた。貴方に見とれていました、なんて寒い言葉が言えるはずがない店員は、急いでレジ隣にあるメモ帳、そしてボールペンを用意すると、そこに“取り置き”と走り書きした。

「では、お客様のお名前をお願いします」

の視線がメモ帳から来店客へと移る。目の前には尚も穏やかに微笑む男がいた。うむ、やはり美少年だ。

「南野秀一です」




***




 終業のチャイムが鳴ったと同時に、クラスメイトは続々と教室を後にして行く。
 数日後に控える漢字の小テストに向け、テキストを鞄にしまっていると「凪沙!」と後方から声をかけられた。振り向くと、移動教室や昼食を共にする顔馴染みのある女子生徒が近づいて来た。リュックを背負っているので、既に帰り支度が出来たのだろう。凪沙は「ちょっと待ってて」と慌てて残りの荷物を鞄にしまった。

「お待たせ、準備出来たよ」
「相変わらず真面目だねえ凪沙は。次の小テスト、割と内容簡単らしいじゃん?うちのお兄ちゃんが言ってたよ」
「でも去年とは内容が違うかもしれないし、もし成績落ちたら後が怖いからさ…」
「そっか、凪沙ん家のおばあちゃん、相当厳しいんだっけ?」
「ははは…」

 凪沙の乾いた笑い声が教室に残った。

 前回の小テストで点数がガタ落ちし、幻海にこっぴどく叱られた凪沙。それがトラウマとなり、最近はどんな小さなテストだろうと少々敏感になってしまっていた。彼女にとって幻海のお咎めほど、この世で恐ろしいものはない。それ故、帰宅してからテキストと向き合うのは憂鬱であったが、保身のためなら仕方ないのであった。
友人と会話の花を咲かせ廊下を進み、階段を降りると玄関に着いた。そして靴を履き替え、外へ出ようとした、その時。
 二人の視界には、校門のあたりからこちらへ駆けてくる一人の女子生徒が映った。おまけに、校門へと続く道には下校する生徒もちらほらいたのだが、気のせいか普段よりもざわついている。
 そしてその女子生徒が玄関へ来ると、凪沙の隣にいた友人が「みっちゃん!?」と声を上げた。みっちゃん、と聞いて凪沙が思い浮かんだのは、確かサッカー部の先輩に告白してオッケーをもらったと、以前噂になっていた人物だった。…あのみっちゃんなのであろうか。
 みっちゃんと思われるその女生徒は友人の前で止まり、息が上がる中であったが声を上げた。何故か、視線は凪沙へ向けられている。

「ねえ、あなた凪沙ちゃんでしょう!?転校してきた…!」
「え、あ、うん…!」

目を丸くして驚く凪沙を他所に、友人もまた問うた。

「ね、どうしたのみっちゃん。今日先輩の高校行って、部活の様子見てくるって言ってなかった?」

 やはり、あのみっちゃんで間違いなさそうだった。友人の、みっちゃんの恋愛事情に頭を突っ込み聞き質している様子を見ると、割と親密な仲なのかもしれない。だが、凪沙自身みっちゃんとは友人を介して以外接点はない。寧ろお互い顔と名前を知っている程度の関係のはずなのだが、何故彼女は凪沙に用があるのだろうか。
 肩で荒く呼吸をしているみっちゃんが、続けた。

「こ、校門前に…国宝級のイケメンがいるの!で、その人が凪沙ちゃんいるかって私に聞いてきて…!もう、死ぬかと思った…!」

 走ってきたからなのか、その国宝級イケメンとやらに心を射抜かれたからなのか、みっちゃんの頬は紅潮している。なるほど、その影響で校門前にいる生徒達がざわついていたのか。一つ納得したその一方、凪沙の脳裏にふと疑問が過る。
 …国宝級イケメンって、一体誰だ?

「ねえ、…みっちゃん?その人って私に用があるの?」
「そうなの!いいからとにかく一緒に来て!」
「あ、ちょっと待ってよ!」

 みっちゃんに手を引かれ、その後方から友人も後を追い、三人は急いで駆けると校門前へ着いた。そして道路と面している門の方へ目を配ると、そこには見覚えのある長身で赤い長髪が特徴的な男性が、門に寄りかかりながら本を読んでいた。その様に凪沙はぎょっとするが、瞬時にみっちゃんが騒ぐ意味を解した。…うん、これは確かに国宝級イケメンと騒がれてもおかしくない人物だ。だが、あまりに突飛な事であったためか、凪沙思った。なんで、この男はここにいるのだ。

「…あ、凪沙ちゃん。待ってたよ」

 こちらに気が付いたのか、男はにこやかに微笑んできた。

「くらっ…ッ!み、なみの、先輩…。こんに、ちは…」

 危うく墓穴を掘りそうだったが、寸でのところで気付いて良かった。以前失態を犯した桑原の白い顔が過ったおかげだった。
 凪沙のぎこちない挨拶、そして彼女なりの精一杯の配慮に、満足そうに微笑むこの男、南野秀一…もとい、蔵馬は開いていた本を閉じると、三人と対峙した。

「急にごめんね。近くまできたものだから、会えないかなって…」
「それならそれで、連絡してくれたらよかったのに…」
「凪沙ちゃんに会うの久々だったから驚かせたくって。…迷惑だった?」
「い、いやそんな事はないけどさ…」

 眉を下げ、首を傾げる蔵馬の仕草に、動悸が正常を保っていられるはずがなかった。天然なのか、はたまた計算なのか。蔵馬の女性に対する態度って本当色々な意味でずるいというか、ある意味羨ましいというか。とにかく自分には出来ないようなことをすんなり表に出せるこの男は、妖怪だけでなくどこかの国の王子の血も流れているのではないだろうか。
 そして凪沙が困ったような、しかし懸命に向き合おうとするその姿勢が気に召したのか、蔵馬は再び目を細め優しく微笑む。

「ははっ。ごめんね、いじわるしちゃって。凪沙ちゃんと久々に会えて嬉しくってさ」
「もう!からかわないでよ!…ッ!」

 蔵馬とやりとりをしていた最中、ふと背後からの圧にようやく気が付くと凪沙はハッとし、ゆっくり振り返った。
 そこには友人やみっちゃん、おまけに先ほどまで玄関前をうろついていた生徒たちが自分たちを囲むようにして、全員がこちらに視線を向けていたのだ。
転校生の凪沙と知り合いのこの男は一体誰なんだ。そして一体どんな関係なんだ。そんな疑問がそこらじゅうから聞こえてくような、好奇な目が集中している。

「凪沙ちゃん、その人って凪沙ちゃんの…」

 しびれを切らしたのか、みっちゃんが聞いてきた。目を爛々とさせ、先ほどよりも頬がより紅潮している。かなり興奮しているのか、心なしか身体も疼いてるようにも見える。その隣にいる友人もぽかんとしつつも、凪沙の返答を待っているようだった。
 これはその、と凪沙が説明しようとした、その時。

「君、さっきはありがとう。凪沙ちゃんの友達かな?」
「へっ!?あ、はあ…まあ、そう、です…」

 国宝級イケメンとやらが急に話しかけてきたものだから、みっちゃんにもまた緊張が走ったようだ。いいえ、友達じゃありません。なんて言えたもんじゃない。身体が強張りながらもどうにか答えられたが、変な汗と緊張でもはや現実で何が起きているのか分からない状態だった。
 だが、蔵馬は「そう。連れてきてくれて、ありがとう」とサラリと答え、そのまま凪沙の肩に手を回すと。

「悪いけど、今日は俺に凪沙ちゃんを貸してくれないかな?」
「もっ、勿論です!!どうぞ、いくらでも持って行ってください!!」

 次いで、友人が声を上げた。みっちゃん同様、端正な顔立ちのこの男に、やはり心が射抜かれたようだった。
 どうぞいくらでも、って。ちょっと失礼なんじゃないのか、と凪沙は思うが、すっかり蔵馬のペースに持って行かれたので、やはり言えるはずもなかった。

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。凪沙ちゃん、行こうっか」
「あ、うん…」

 蔵馬に促され、踵を返した凪沙。そして次いで蔵馬も踵を返そうとした瞬間、視界の端に好奇な目とはまた別な視線に気が付き、一瞥した。邪念が含まれるような、強い視線。それを辿ると一人の男子生徒がおり、彼の手には小さな紙袋とCDがあった。そのCDには付箋が貼ってあり、そこに書かれていたのは簡易メッセージのようだったが、文の中にあったのは間違いなく凪沙の名前だった。
 …そうか、なるほど。そりゃあ別の目を向けるわけだ。でも、だからと言って彼女を返す気はないよ。
 見知らぬ少年の恋心を砕いたが、敢えて見て見ぬ振りをした蔵馬は凪沙と共に歩み始めた。


「なんで急に来たの?」
「いやだなあ。凪沙ちゃんに会いに来たってさっきも言ったじゃないか」
「えー…絶対嘘でしょう?」
「嘘だと思う?」
「うん。…だって、金曜日の夕方わざわざこの街に来る必要なくない?蔵馬こそ学校はどうしたの?」
「ははっバレちゃったか」
「もう…」

 まるで答えになってないじゃないか。凪沙はそんな悪態の意を込めた視線を送るが、当の蔵馬はあっけらかんとしている。

 学校を後にした二人は、幻海邸へ向かうためバスに乗っていた。他の乗客は既に降り、バスの中は蔵馬と凪沙の二人だけ。周りに人がいなくなったのを機に、ようやく「蔵馬」と呼べる事に安堵した凪沙は、改めて問うたところだった。
 会話が始まる前は、凪沙の手には漢字のテキストが、蔵馬の手には先ほど校門前で読んでいた本がそれぞれ開かれていた。
蔵馬の答えになっていない言葉に半ば呆れ、凪沙は再び紙面に視線を落とす。さすがに気を悪くさせたかな、と思った蔵馬は「本当はね、」と切り出す。

「この小説が置いてある本屋さんが、たまたま凪沙ちゃんの学校の近くだったんだよ」
「…へ?」

 顔を上げた凪沙がキョトンとする。話しが見えてこないのか、頭上には疑問符が上がっていた。

「この小説、俺の好きな作家さんの新作なんだ。本当は予約しようと思ってたんだけど、テストの時期と被っちゃって予約し忘れてたんだよね。そしたら皿屋敷市内の書店には在庫がないって言われてさ。唯一あったのが…」
「うちの学校の近くの本屋さんだった、って事?」
「そういうこと。で、学校もテスト最終日だったから午前放課だったんだ」
「…ふうん。でも、蔵馬もそんな事、あるんだね」
「らしくないってこと?」
「うん」

 そんな事、というのは事前に本を予約しなかった、蔵馬らしからぬ事だった。蔵馬の抜けてる所なんて、なんだか珍しいな。

「俺、凪沙ちゃんから普段どんなイメージ持たれてるの?」
「…頭の良い王子様みたいな人?」
「ははっ。面白い冗談を言うんだね」
「いや、冗談じゃないんだけど…」

 現に先ほどの校門での件がそれを物語っていた。その眉目秀麗な姿は男女問わず十分人を魅了する力があるだろうに。次いで、聡明である蔵馬だが、こうして抜けた一面を見せてくれたのも、なんだか人間味を感じる。

「…あ、もうすぐ停留所に着くよ」

 凪沙がいつものタイミングで降車ボタンを押す。お互い手にしていた冊子を鞄にしまっていると、走行していたバスは停留所が見えてくると減速し、じき停車した。
 運転手に礼を述べ、まず蔵馬が降車した。次いで凪沙が降車し、最後の一段を降りようとした時。

「ぅわ!?」

 着地した場所に小石があり、バランスを崩して身体がよろけた。そのまま勢いよく前掲姿勢になり、転びそうになったのだが。
 ぽすっ、と上半身が何かに支えられ、背に腕が回された。一瞬何が起きたか分からず顔を上げると、目を丸くしていた蔵馬と視線が絡んだ。倒れかけた身体は蔵馬に抱きとめられていた。

「お客さん、大丈夫かい?」
「あ、はい。大丈夫です。ご心配おかけしました」

 運転手の言葉に、蔵馬が冷静に返した。

「それならいいんだけどよ。お嬢ちゃん、気ィつけて帰んな」

 運転手が会釈すると、蔵馬もまた軽く頭を下げた。
 バスが発車した頃、蔵馬は改めて凪沙を見やると。

「…大丈夫?」
「う、うん。ごめん、」
「ううん。凪沙ちゃんが無事なら良かったよ」
「ありがとう、蔵馬」
「いいえ」

 その流れのまま、どういうわけか蔵馬は凪沙の手を取り、手を繋いだまま歩み始めた。
 …危なっかしい、子どものような扱いをされているのだろうか。凪沙が眉を下げたまま、自分の頭一つ分以上に大きな背の蔵馬を見上げる。すると、蔵馬もまた同じタイミングで視線を落とした。次いで目を細め、口角上げる。その笑みは優しさと慈愛が込められたような、そんな温かい笑顔だった。

「…っ!」

 凪沙は顔に熱を感じてしまい、思わず目を逸らしてしまった。…なんだ、今の。
動悸が早まったのは先ほど転びそうになったからであり、顔が熱いのも西日が当たっているからだ。そうだ、そうに違いない。
 凪沙は視線を落としたまま歩んでいたが、とても蔵馬の顔は見れなかった。見るとまた、あの気のせいな感覚に身体が取り込まれそうだったからだ。
だが蔵馬は、まるでこっちを見ろ、と言うかのよう、繋がれていた手は指を絡ませられた。細長くしなやか指、その一方で逞しさを感じる掌。それらから、蔵馬の熱が伝わる。

「凪沙ちゃん」

 名を呼ばれ、ぴくんと肩が震える。見上がれば尚も微笑み続ける蔵馬と視線が絡んだ。

「な、なに…?」
「…俺、」
「…?」
「…いや、いいや。なんでもない」
「え…?」
「俺が買った本のタイトル、言ってなかったな、と思って」
「…?」
「茜さす君、って本だよ」
「…そう、なんだ?」
「うん。そう」

 蔵馬はこれ以上、答えなかった。…何で、途中で話すのをやめたんだろう。疑問符を上げる凪沙を他所に、蔵馬は再び前を見据えた。
 その本の意味を追求したところで、どうなるというのだ。これもまた、己の気まぐれな思いの欠片であるだけ。深い意味など、無い。精神が弛緩しそうなのをぐっと堪え、蔵馬は落ち着き払った仕草を見せた。

 夕日に照らされ二人の後方には二つの影が伸び始める。茜色に照らされた凪沙の頬は赤く染まり、また蔵馬の赤髪もより艶がかかったような麗しさを見せた。
変な緊張感が包む中、二人が歩んで行くと、じきに幻海邸へと続く石段が遠くに見える。
「もうすぐ着くね、蔵馬」と、凪沙がようやく声をかけたところだったが。
 ふと、前方に見えたのは石段に腰を掛けている黒い影。向こうがこちらに気が付いたのか、腰を上げ対峙する体勢を取ると、凪沙は驚愕した。

「…飛影?」

 飛影はポケットに手を入れたまま、蔵馬と凪沙を見やった。そして繋がれている手を一瞥すると軽く舌打ちをし、蔵馬へと鋭い眼光を送る。

「…ご丁寧にお出迎えですか」
「まあな」

 蔵馬もまた、先ほど凪沙に向けていた笑顔は瞬時に消え去り、飛影同様睨みを利かせた。



三角方程式(前編)



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