26 揺らぐ心

大広間の机上に、細長い紙きれが置かれていた。そこに記されていたのは“前期期末テスト結果”という、恐ろしいタイトルだった。下記には全教科分のテストの結果が数字として羅列されている。幻海は黙ってその結果に目を通していた。
重苦しい時間が凪沙の緊張を促進させた。手汗を握り拳を見つめる自身の顔は、恐らく恐怖で慄いているに違いない。率直に言うと前を向けなかった。幻海の顔が見れなかったのだ。…机上にあるその紙切れ一枚のせいで。

「…凪沙、顔を上げな」
「はっはひっ!!!」

武者震いというやつか、電流が体中に走ったかの如く凪沙は身体を震わせた。目の前にいる幻海は、無表情のままだ。だが、それがまた恐ろしい。しばらく沈黙が続いたが、しびれを切らした凪沙は恐る恐る口を開いた。

「…あ、あの、おばあちゃん…」
「あんた、一体何しに学校行ってるんだい?」
「…勉強、です」
「ほう、勉強ね…。勉強しててこの点数かい?」
「お、おっしゃる通りで…」
「たわけ!!!このクソ小娘が!!!」

ばぁん!!!と、机上に拳を落とした幻海。
あ、これ多分今までで一番やばいやつだ。と察したが時は既に遅く。背後に般若が見えるのは、恐らく幻覚ではない。凪沙は修行でもなく、妖怪との実践でもない、この瞬間に死を覚悟した。

「平日は学業に専念するって約束だったろう?何故こんな結果になったんだい?学校に通い始めた頃、授業に追いつかないって必死に這い上がったはずなのに、なんだいこれは!!」
「それは…その…」
「夜、飛影とイチャこく暇があるならね、やることやって筋通してからにしな!!甘ったれんじゃないよ!!」
「…すみませんでした」

本当に、迂闊だった。
転校してしばらくの間、授業に追いつかず死に物狂いで空いた時間をほぼ全て勉強に当ててきた。おかげで全体に追いつき安堵していた矢先、先日飛影とめでたく恋仲と呼ぶ関係になった。だが、そこからが堕落の道だったのだ。
授業に追いつき余裕を見せていたのが仇となった。夜、飛影は頻繁に会いに来てくれるようになり、今まで勉強に当てていた時間は全て彼に向けるようにしていた。それが全ての結果だった。
期末テストの点数は今までで一番最悪なものであり、課目によっては補修を免れないものもある。一番恐れていた地雷を、凪沙は自分自身で踏み自爆したのも同然。幻海の怒りは治まるはずがなかった。

「いいかい、補修は勿論だが次のテストまでに成績を元通りにさせるんだよ!出来なかったらこの家から出ていきな!!!」


…なんて言われたものだから、凪沙が助けを求めたのはかの有名な進学校に通う蔵馬であって。
電話越しで半泣きだった理由も明確になったあの日の事を、蔵馬は回顧しながら遊歩道を歩んでいた。無論、それは凪沙と待ち合わせいている図書館へと続く道だ。

しばらく歩んでいくと図書館が見えた。入口の前にはリュックを背負い、ベージュ色のパーカーに黒を基調とした小花柄のロングスカートに身を包む一人の少女が立っている。背丈や雰囲気から凪沙だとすぐに分かった。そしてまた、こちらの視線に気が付いた凪沙は声を上げた。

「蔵馬っ!」
「ごめん、待たせたかな?」
「ううん、私も今来たところだよ。休みの日なのに付き合わせちゃってごめんね」
「いや、気にしないで。それじゃあ、行こうか」
「今日はよろしくお願いします、先生」
「ははっ…。じゃあスパルタで教育してあげますよ」

凪沙の冗談に乗ってみれば、彼女も眩しい笑顔を返してくれた。…あぁ、これか。恐らく幽助や飛影を虜にした笑顔は。屈託のない純粋な彼女の表情は、確かに可愛らしい。
蔵馬もまた、ドキリと胸が小さく鳴ったのを見て見ぬフリをするかのよう彼女と肩を並べた。
二人は図書館の中へ入るや否や、人気の少ない空いている席へ腰を下した。傍から見ればデート中のカップルに見えたりするのだろうか。…なんて期待を蔵馬はする。だが、当の凪沙にとっては今後の生活がかかっているだけあり、表情は強張っていた。そして早速、机上にテキストやノート、参考書が広げられ、凪沙の熱意が十分に伝わる。
…浅はかな考えはやめよう。自分の教え方に全ての責任がかかっているため、蔵馬もまた凪沙に真剣に向き合った。

凪沙がテキストと向き合い、数時間経った頃。蔵馬は彼女が問題を解いている間は読書をしていた。序章、第一章、二章と小説を読み進めるていたが、どうも隣にいる凪沙が気がかりで集中できない。蔵馬は紙面から一旦視線を外し、彼女を見やった。
普段はセミロングの髪を下している凪沙だが、今日は私服に合わせて髪を結ってきた。耳元から流れる後れ毛やうなじのラインに、普段ななかなか感じられない女性らしさが表れている。そして露わになる横顔から覗くのは、軽く化粧をしているのか、普段より長めの睫毛に薄っすら桃色に染まる頬、そしてティントが潤う唇。
気付けば蔵馬は凪沙から目を外せなくなった。

…飛影は、いつも凪沙と一緒にいるのだろうか。
今自分だけに見せているこの姿も、知っているのだろうか。そんなこと考えると、いつぞやの幽助が飛影に嫉妬の念を送っていたことをふと思い出した。…確かに、これは妬けるかもしれない。
純粋に、凪沙を独り占めできる権限を持つ彼に、沸々と熱い感情が込み上げてくる。…だが。

「…よし!出来たよ、蔵馬!…蔵馬?」
「…っ!あ、何…?」

凪沙が声を掛けてくれたおかげで、現実に引き戻された。
俺は今、何を考えていた…?彼女は大事な仲間の、…恋人だ。

「…ごめん、ちょっとぼうっとしちゃって…」
「蔵馬でもぼうっとすること、あるんだね」
「俺、凪沙ちゃんが思ってるほど完璧じゃないよ?」
「え、うっそだ〜!」

小声でコソコソ話すこの瞬間でさえも、特別感が否めない。飛影に悪いと思いながらも、この雰囲気を楽しみたい自分もいる。じわじわと背徳感に侵食されてゆく感覚になってきた。
…なんだか、色々と不味い気がする。蔵馬は凪沙に新たなページの問題を指定させ、こちらに意識が向かぬよう促した。
冷静に、冷静になれ、俺。と何度も念じるが、考えれば考える程、渦に飲み込まれてゆく。

そして数時間後。ほぼ箱詰めでテキストと向き合っていた凪沙は、今日の目標としていた分を見事やり遂げ達成感に満ち溢れていた。二人は肩を並べ、図書館を後にした。

「蔵馬のおかげで捗ったよ!本当にありがとう!」
「いえ、これくらいお安い御用ですよ。とりあえず補修はどうにかなりそう?」
「うん、大丈夫だと思う!…そうだ。あのさ、蔵馬」
「どうしました?」
「私が引っ越す前に香り袋作ってくれたでしょう?それに今日も勉強付き合ってもらって…。いっぱいお世話になってるから、何かお礼をしたいんだけど…私に出来る事、何かないかな?」
「え、そんな、いいよ。別に俺そんなつもりで…」
「でも、私の気持ちが収まらないの!!色々考えたんだけど、やっぱり蔵馬本人に聞いた方が確実かなって…」
「…俺のためにいっぱい考えてくれてありがとう」

ぽん、と凪沙の頭に蔵馬の掌が乗った。そして優しい笑みを見せる蔵馬に、凪沙の頬が少々赤くなる。…幽助の家で彼に抱き寄せられた時もそうだったが、彼の端正な顔立ちは勿論、こうして女性に対する扱いというか佇まいというか、本当に完璧な人だと改めて思う。率直に、モテるんだろうなぁ、と。
凪沙が呑気にそんなことを考えている一方で、蔵馬の心には黒い靄が漂った。飛影への後ろめたい気持ちと相反し、やはり己の欲が抑えられそうにない。…この感情もまた、盗賊だったあの頃の自分を彷彿させるものなのだろうか。
無垢な彼女をこの手に出来たら。笑顔も全て、手に出来たら。

「…じゃあ、ひとつお願いなんだけど」
「あ、うん!何?」
「今度、俺とデートしてくれない?」
「…は?」
「来月、俺の母さんの誕生日でね。プレゼントを一緒に買いに行ってほしいんだ。…だめかな?」
「…え、いや、その、」

全くもって予想外だった。まさかの、デート。それも蔵馬のお母さんのプレゼント選び。
…嫌じゃない。嫌なわけではないんだけど。一抹の不安と同時に脳裏を過るのは、言わずもがな、一人だけ。

「―――蔵馬、いい加減にしろ」

ガサッ、と木の葉が落ちてきたと同時に、まさしく今思い当たっていた人物…飛影が飛び降りてきた。そして凪沙の前に立ちはだかり、自分の後ろへ彼女を隠すように促した。



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