100 流渡りに臆すなよ

 移動要塞百足の中には数多くの部屋が用意されている。薄暗く足元に光が灯る一階の廊下を歩んで行くと、中央には医務室が設けられておりそこには十数個のベッドが置かれていた。この部屋が満床になる事態はここ長年なかったが、今は魔界の情勢が変わろうとしている。もしかしたらそんな未来はそう遠くないのかもしれない。
 光明はそんな事を考えながら、入口に一番近い二つのベッドに視線を落とした。そこには二人の人物が横になっており、今も尚瞼を閉じている。どちらも意識はないのだが、時々眉を寄せたり目元を力ませたりと、決して穏やかではなかった。二人は一体何を思い、何を感じているのか。まるでそれを表すかのように、頭部に繋がれた無数の管は電子器具へと続き、表情の変化がある度に電子の図は波が大きくなる。それも二人が同時に波打つ時もあれば片方だけの時もあって、決して規則的ではなかった。

「あ、」

 またも、画面上の線が波を打った。その張本人に視線を落とすと、閉じられた目の端から涙が流れているではないか。それも一筋だけでなく、一つの雫が落ちると次々に溢れてくる。光明はその涙を指の腹で拭いながら、数日前の記憶を思い返した。

“飛影に何かあったの!?”

 凪沙の緊迫感溢れる声色が脳裏に過った。そう、光明が今涙を拭っているのは凪沙だった。そして横たわる凪沙の隣にいるのが、彼女が追い求めた張本人でもある飛影だ。二人は念願の再会を果たしたものの、当の飛影は既に意識を失っており凪沙は躯の力によってその後を追った。
 凪沙を人間界から攫ってきたあの日から既に数日が経っている。飛影の身体に負った傷がようやく完治したのを機に、二人は医務室に運ばれた。しかし、躯が施した意識の共有は未だ終わっていない。
 飛影も多少は苦しそうにするものの、そこまで大きな変化はなかった。終始穏やかなわけではないが、負担の度合いを見れば凪沙の方が明らかだ。苦しそうに表情を歪める日もあれば今みたいに涙する日もあった。
 光明にとって、現段階では敵でも味方でもない二人のことなど関係ない。それを承知の上で、躯がここまで二人を気にかける理由は一体なんなのだろう。
 しばらくすると入口のドアが開閉する音がした。光明は咄嗟に手を引っ込め、入口に視線を移した。

「様子はどうだ?」

 訪ねて来たのは躯の側近でもある奇淋だった。荘厳な鎧を身に纏う彼は表情がなかなか読み取れないのだが、声色は相変わらず抑揚がない。恐らく躯の指示で様子を見に来たのだろう。

「大きな変化は特に見られません。ですが、凪沙さんの方は時々表情を歪めたり涙を流しています」
「ふむ…」

 奇淋は飛影を一瞥した後、凪沙に視線を落とした。光明の言う通り、表情を歪め頬に涙が伝っている。

「…人間には重すぎるのかもな」

 奇淋が少々黙考した後、ぽつりと呟いた。「え?」光明は奇淋の言葉が解せずにいる。

「魔界の住人は各々重さの異なる過去を背負っている者が多い。それも強さが比例すればするほど、重みは深くなる。…どこぞの平和ボケた人間界ではありえないような事が、な」

 一瞬だが光明の頭に躯の姿が浮かんだ。詳しくは聞いていないが躯もまた辛い過去を背負っているらしい。

「意識の共有は互いの精神力が鍵となる。どちらかの器が壊れた時…それが最後になるだろう」
「最後って…。それじゃあ命を落とす危険もあるって事ですか?」
「少なくとも、我々妖怪は人間よりかは劣っていない。この娘は半妖怪だが、元は人間界で育った。もしかしたら飛影の過去は温室育ちのお嬢様には受容しきれない可能性も勿論ある」
「それって…躯様はご存じなのでしょうか?」
「当然だろう。全てを見越した上でこの少女を呼んだんだ。…飛影にもう一度生きる目的を与える為にな」
「じゃあ、もし凪沙さんの意識が戻らなかったら…」
「その時はそういう事だ。せいぜい我々の未来の為に使わせてもらおう」

 奇淋は一言残すと医務室を後にした。部屋には無機質な機械音、そして飛影と凪沙の呼吸音しか残っていない。
 光明は奇淋の弁に当惑した。確かに彼の言う通り、肉体だけでなく精神面も人間より優れている自負はある。だが…本当に躯は凪沙を捨て駒のような扱いをするつもりだったのだろうか。彼女を人間界から攫うように命令が出た時の躯からは、そんな悪辣さは一切見えなかった。寧ろ丁重に扱えと念を押されたほどだ。
 光明は再び二人に視線を落とした。凪沙は尚も涙を零しているが、いよいよ飛影の表情も徐々に歪み始め、先ほどよりも苦しそうである。
 一体何に苦しんでいるのだろう。何と戦っているのだろう。
 電子の波は再び激しい動きを見せた。光明は二人を案じる他為す術はなかった。





***





 凪沙が気が付いた時には頬に何かが伝っていた。そうっと指先で触れればその雫が指先を濡らし、たちまち細かな震えが走る。その震えは次第に全身へと伝わり、まるでつま先から力が抜き取られていくような消失感が襲った。がくんと膝から崩れ、無意識に地に手をつき、ふと前を見やれば薄紫色の球体がふわりふわりと浮遊している。心なしか、先ほどよりも光が弱まっているような気がした。更にその奥にいたのは自分と瓜二つの出で立ちをしている人魚、潮だった。
 それら全てようやく認知すると凪沙の視界は再び涙で潤み、溢れた雫は瞬きと共に手の甲に落ちた。しゃくり上がる悲痛な涙声は喉の奥から絞り出したような苦しさを伴っている。何度涙を拭っても、零れる雫は止むことを知らずに次々と零れ落ちた。
 凪沙にとって飛影の過去はあまりも壮絶だった。痛み、苦しみ、そして深い闇を抱えており、それらを受容する度量は彼女には備わっていなかったのだ。今まで彼は何を思い、何を感じてこれまで生きて来たのか。それを知らず、…いや、知ろうともせず、飄々と生きて来た自身を恥じると共に自責の念に押し潰されそうだった。
 
 私は本当に何も知らなかったんだ。飛影の事、何も理解出来ていなかったんだ。

「飛影っ…飛影っ…!」

 凪沙の背が蹲っていく。それに反し切なさや苦しみに始まる、複雑で纏わりつくような感情は胸の中で滞留して膨らんで行く一方だ。飛影の名を呼べば呼ぶほど、まるで彼の存在が遠のくような、そんな絶望的な錯覚に陥りそうだった。

「…凪沙、顔を上げて」

 ここでようやく、今まで口を閉ざしていた潮が声を掛けた。しかし凪沙の震えは止まらず、背は丸まったままだ。潮の眉尻がピクリと上がり、目元が鋭くなる。

「このまま、飛影が命を落としてもいいのね?」

 凪沙は目を見張った。潮の言葉は聞き間違いかと疑いたくなるほど、意表を突いてきた。凪沙はえずきながらもゆっくりと顔を上げた。すると潮は凪沙の両肩に手を置き、しっかりと視線を絡めてくる。まるで硝子玉のような美しい瑠璃色の瞳には、凪沙の泣き崩れた顔が映っていた。それに気付くと凪沙はようやく自我を取り戻せたような気がした。
 自分はこんなにもひどく、情けない顔をしていたのか、と。

「潮さん、飛影が命を落とすって…どういうことなの?」
「…もう気付いてるでしょう?この光がさっきよりも弱まっていること」
「気のせいじゃなかったんだ…」
「これは飛影の魂そのものを表しているの。凪沙と意識を共有して…飛影のこれまでの人生が分かったでしょう?飛影の中では生きる目的を達成したのよ。…表向きはね」
「表向きって…?」
「…要は、飛影は凪沙の安全を第一に考えてこの選択をした。でも本音はそうじゃない。本当は…飛影だって凪沙と共に生きる道を選びたかったのよ」
「それは…私も分かった。でも私も飛影と同じ気持ちだよ…?本当は魔界に行ってほしくなかったし、ずっと一緒にいたいと思ってる」
「うん、そうよね。それは…近くで見てきた私が一番よく分かってる。だからこそ、凪沙の言葉が必要なのよ」
「私の、言葉…?」

 その弁を聞くと、ふと凪沙の頭に躯の姿が浮かんだ。

“飛影の心に響く言葉は、凪沙にしか生み出せない”

 確かそんな事を言っていた。それは潮が躯に語った内容と同じだったのだ。
 凪沙の瞳が徐々に光を取り戻していく。暗澹に塗れ闇を彷徨う瞳は既にそこになかった。そして改め潮と真っ正面で向き合い視線を絡めた。
 振り返れば、もしかしたら自分より潮の方がずっと飛影の事を思い案じていたのではないだろうか。思いと言うのは好意ももちろん含まれるが、きっとそれだけではない。もっと深い愛情のような…相手との絆や厭うものだ。それはなんだか自分が母親から注がれた愛情に酷似している気がした。
 しかし、潮は自分の立場をわきまえていた。自分は既にこの世におらず、飛影に直接触れることも語りかけることも出来ない。それに飛影への思いは残ってるといえども、飛影が未来を夢見ていたのは凪沙だ。それら全て承知した上で凪沙にそのような言葉をかけたのだろう。
 凪沙はようやく本質が見えてきたような気がした。眉根がピクリと上がり、まるで頬が引きつるような感覚が顔面に走る。その微々たる変化を、潮は見逃すはずがなかった。
 潮には先ほどの怪訝な表情は既になく、穏やかに口元を緩めている。

「飛影に希望の光を与えられるのは凪沙なのよ。…私はその役割は出来ない。でもいつだって飛影の事を忘れる日なんてなかった。命を落とす間際までずっと…彼の事を思っていたの」
「潮さん…。痛い思いをして海に飲み込まれながらずっと飛影の事…考えてたの?」

 凪沙の疑問に、今度は潮が意表を突かれた。一瞬で心臓を鷲掴みされたように息が詰まったのだ。だが、凪沙は飛影の記憶の中でしか潮の最後を知らない。それに気が付くと、彼女がそういう考えになるのも無理はなかった。
 潮は項垂れて深く息を吐くと、自然と掌に拳を作り力が籠った。そして乾いた唇を舐めると、意を決して凪沙と向き合った。

「…真実は時と共に明かされる。今は…その時を待っててほしい」
「え?」
「全ての答えは…霊界にあるわ」
「霊界に…?待って、どういうこと!?」
「…時間がないわ」

 潮はかぶりを振り、薄紫色の球体に視線を投げた。凪沙は潮の言葉に納得できず訝しんだが、確かに今優先すべきなのは飛影のことだ。
 凪沙は改め薄紫色の球体と対峙した。だが、いざ目の前にしても潮や躯が求める“言葉”というのはすぐには思いつかなかった。「ずっと一緒にいたい」「隣にいてほしい」確かにこれは本音ではあるが、飛影は凪沙の今後の安全を配慮して魔界へ渡ったのだ。だったら…なんと言葉をかければよいのだろうか。
 答えに一歩でも近づきたい。そんな思いから自然と凪沙の手がゆっくりと伸びていく。そして指先が薄紫の光に触れた、その瞬間。

「ひゃっ…!?」

 薄紫色の光の間から次々と黒い閃光が飛び出し、一通り凪沙の身体に渦巻いた後少し離れた場所にそれらは集まって行った。閃光の塊は次々とそこへ目掛けて進み、膨らんでいくとわずかな間に大きな漆黒の塊へと変化していった。
 凪沙はその様子を見ている最中、この数秒間に何が起きたのか解せなかった。たかだか数秒間あの黒い光が己の身体を這った際、まるで身の毛がよだつほどの恐怖や嫌悪が身体中に走ったのだ。今更ながら身体中に細かな震えが走っている。

「大丈夫!?」

 潮が慌てて凪沙の肩を抱いた。潮から体温は感じないが、触れられている感覚が微かにあったので少々安堵した。「大丈夫だよ」凪沙は笑顔で応えるが、力のない返事に潮は不安げに眉を下げた。
 二人がその大きな塊を見やれば、それはたちまち姿を変えていく。黒い塊の中心が大きく膨らみ、四方八方からは鋭い爪先が伸びていった。そして中心の手前には徐々に輪郭が生まれ、頭部には鋭い角が二本生えてきた。まるで鬼を連想させるその出で立ちに、二人は目を見張り息を呑んだ。
 黒い塊が変化していく最中、二人はそれをどこかで見た事のあるような気がした。その既視感の正体がようやく明らかとなったのだ。決め手は、黒い塊の後ろから長い尾が生まれそれが高々と上に挙げられた様だ。そして感情が読み取れない漆黒の顔なのに、何故か白目は嘲笑しているように見えてならない。まるで獲物を見定めたと言っているようで、嫌でも虫唾が走る。そして肌がピリつくようなひしひしと伝わる嫌悪感…まさしく飛影の記憶の中で見たものと一致した。

「牛鬼…蜘蛛…?」

 凪沙が恐る恐る声を掛けた。するとその黒い塊は高らかに鳴き声を上げたのだが、知性は感じられず獣の雄叫びでしかなかった。
 凪沙と潮の目の前に現れた黒い塊は確かに牛鬼蜘蛛と同じフォルムをしている。飛影の記憶の中で見たものと異なるといえば、姿形は黒い塊であり、顔面にある唯一の異なる色…白目が際立っており印象的だ。しかし身体の大きさや威圧感は本物と同様であった。

「どう…なってるの…?何で牛鬼蜘蛛が飛影の魂に…?」
「飛影の中で大きな念となっていたんじゃないかしら…」
「大きな…念…?」
「…自責の念、よ」

 潮が硬い口調で答えた。
 凪沙の脳裏に、潮が牛鬼蜘蛛に串刺しされたあの場面が過った。惨く酷薄であったあの瞬間を、飛影は目の前で見たのだ。それも自分の身体が毒と傷に犯され、助けたくても助けられない状況下で。
 飛影の人一倍プライドが高く誰よりも戦いの勝利を望むのは、あの背景が要因しているのは間違いない。それ故、未来を共に誓った潮を助けられなかった己の弱さを激昂し、悔やみ、そして愕然とさせた。その結果があの黒い塊を生み出したのではないだろうか。それが潮の見解だった。

「やっぱり…それだけ飛影はずっと潮さんの事を思ってたんだよ…。潮さんもそれを分かってたんでしょう?」

 凪沙は仙水と戦った際、潮が意識の中で語りかけた旨を忘れていなかった。「あの人は優しい人だから」潮が述べたあの弁の意味がここでようやく理解出来たからでもある。

「そうね…。でも、ここからは凪沙の出番よ」
「出番?」
「―――来る!!」

 凪沙の言葉を遮るように潮が叫んだ。それと同時に牛鬼蜘蛛の尻尾が勢いよく振りかざされ、二人を目掛け落下してきたのだ。潮の声を合図に凪沙は彼女を抱き横へ転がると、尻尾は勢いよく地面に打ち付けられた。そこはまさしく先ほどまで自分達がいた場所だった。
 牛鬼蜘蛛は尻尾を上げると再び雄叫びを上げた。まるで地響きがしそうな重圧的な太い声だ。その悍ましさに凪沙の背筋が粟だった。

「言ったでしょう…。飛影を助けられるのは…凪沙だけだって…」
「そうだけど…まさかこんな物理的だとは思わなかったよ…」
「私に出来るのはここまでよ。あとは…凪沙次第だから…」
「そんな…!」
「凪沙、さっき黒い光が身体を這って分かったでしょう?飛影は…ずっとあれを抱えて今まで生きて来たのよ。誰にも触れられない殻に閉じ込めて、誰にも気付かれないように…ずっと…!」
「…潮さん、気付いてたの?」
「人魚族は心術が長けてるから。意識を共有した時には気付いてた。…でも、ずっと気付かないふりをしていたかったわ。飛影が…あの人が背負っていた重みを思うと…切なくて、私も…辛い…ッ」

 凪沙は目を見張った。今まで気丈だった潮がここで初めて涙を流したのだ。…もしかしたら潮も自分の気付かぬところで自責の念に押し潰されそうだったのではないだろうか。凪沙の中でそんな疑念が浮上すると、牛鬼蜘蛛は更なる声を上げた。
 凪沙が見やると、嘲笑を続ける牛鬼蜘蛛の化身と初めて視線が絡んだ。
 …きっと、ここで立ち向かわないと何も変わらない。飛影も、潮も、この辛さから解放させるためには…あの化身を倒して二人を安心させる他ないのだろう。これがきっと潮が繋いでくれた命…いや、人魚族の運命なのかもしれない。
 凪沙は震える拳を握ると立ち上がった。

「…潮さんはここで待ってて」

 潮が涙を拭いながら凪沙を見上げた。凪沙の表情には先ほどの恐怖心はなく、凛として前を見据えている。覚悟を決めて迷いを断ち切った精悍なその姿は勇ましく勇敢だった。

「潮さん…。色々と教えてくれてありがとう。まだ何が正解か分からないけど…私は私のやり方で…飛影を助けたい!」

 凪沙は眉を吊り上がらせ、大きく目を見張った。威圧感とでもいうべき迫力があった。
 牛鬼蜘蛛の白目は着実に凪沙を捉えている。獲物だと確実に見定めたのだろう。凪沙は構えを図った。

「…よく落ち着いてね。あくまでも飛影の負の感情だけど、伝わる威圧感や不気味さは牛鬼蜘蛛そのものよ」
「潮さんが言うなら間違いないね…」

 こんな強敵を二人で相手をしていたのか。雰囲気だけでも十分伝わるこの悍ましさ、並大抵なものではない。そう考えると今にでも足が竦み、後退りしたくなる。だが、それを許してしまったら飛影は…潮の思いは…。

「おばあちゃん…舜潤さん…。ちょっと早いけど修行の成果を試す時が来たみたい」

 本当は霊界探偵で人間界を守るために、そして…飛影に心配をかけないために、というつもりだったけど。飛影を助ける為ならば寧ろ本望だ。

 凪沙が武者震いを感じつつ間合いを詰めている最中、潮は涙を拭い胸元で指を組んだ。そして静かに瞼を閉じると、内なる声で祈りを捧げた。

 ―――綿津海様、どうか凪沙をお守りください。そして救いの手を…。

 
 牛鬼蜘蛛が再び雄叫びを上げた。それを合図に凪沙は地を蹴った。



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