88 剥がれていく心

 牛鬼蜘蛛が前足を振りかざした際、飛影の視界は既にグラつき、そこから重力に沿って身体が落下していったのは間違いなかった。飛影にはそれら全て、まるで時間が止まっているかのようなスローモーションに見えた。崖の下を覗く牛鬼蜘蛛が徐々に遠くなってゆく。そして視界を占めるのは岩石の側面や細かに舞う粉塵や石の欠片だった。背後からは荘厳な荒波の音が近付いてくる。この高さから背面を下にすると確実に命を落とすだろう。
 負傷した腹部を抑えつつも握った刀だけは死んでも離さぬと決め、息を呑んだ。あと、数メートルで着水する。その僅かな数秒間内に空中でどうにか体勢だけは整えた。全身の痺れに苦しむ最中、辛うじて足を延ばし入水する姿勢を図ったその瞬間。大きな着水音が鳴ると同時に、全身にナイフが刺さったような激痛が走った。
 幾多の水泡が瞬く間に生まれにびりびりとした激痛が身体を襲い、思わず息を少し漏らしてしまう。辛うじて上を確認すれば、海面まで幾分距離がある。だが、全身の痛みや痺れ、そしてまごつく間に海水に体温を奪われてしまい、思うように四肢が動かない。次いで腹部に海水が沁み、その箇所に一番痛みが走った。
 息苦しい。空気が欲しい。その欲だけが占めてゆくのだが、その思いとは裏腹に海面は徐々に遠のく。息詰まる苦しさから、ここで初めて死を近くに感じた。
 …俺は、こんなところで死ぬのだろうか。いや、そんな事はありえない。認めない。許さない。
 尋常ではない息苦しさに襲われる最中、薄れゆく意識の中で垣間見えたのは氷河の国だった。まさか、最後の最後までこの忌々しい記憶が纏わりつくなんて。
 飛影の口から大きな水泡が吐かれ、腹部に当てていた手が海水の動きに応じて徐々に浮遊する。そして海面から差し込む日の光を掴むよう、最後の力を振り絞り指先まで伸ばしたが、その願いが届くことは無かった。
 瞼がゆっくりと閉じ、力を無くしたその手は行き場を失い、再び浮遊した。


 飛影の身体が海の底に向かって沈んでゆく最中、突如一人の女が海底から現れた。その女は栗色の長い髪で、瞳は美しい蒼色に染まっている。上半身は女性らしい身体つきなのだが、下半身は魚体で翡翠色の鱗や立派な尾ひれが特徴的だ。女は人魚だった。
 その人魚は海水の動きに負けることなく力強く泳ぎ、沈みゆく飛影の身体にそっと触れ、次いで彼の脇の下に手を入れた。女は気を失った飛影の身体の重さに面食らったようだが歯を食いしばり、どうにか海面へと向かい必死に泳いでいった。
 しばらくすると海面から顔を出したのだが、そこは岩石の真下だった。岩場に荒波が激しく打ち付けるこの場所は危険だ。どこか安全な場所は…と人魚が目を凝らして目配せしていると、左手遠くに海蝕洞を見つけた。そして岩石の上を確認すると、あの場所なら地上から死角になるので安全だろう。

「…もう少しだよ。頑張って」

 女は飛影に声を掛けた。だが、飛影にはその可憐で甘美な声は届かず、未だ気を失っている。「ちょっと苦しいかもしれないけど、ごめんね」女は再び声を掛けると潜り、海蝕洞に向かって行った。
 女は波や海水の動きに負けじと魚体を上下にうねらせて泳いでゆく。幸いにも、今日の天気が晴れで波が穏やかな日で良かった。
 しばらくすると海蝕洞にようやく辿り着き、中を覗くと小さな洞窟になっていた。恐らく、長年海水によって地形が削られて今の形になったのだろう。いびつな岩石が幾つもあるのだが、運良くも数人寝泊まりできそうな空間はある。
 人魚は胸を撫で下ろすと飛影の身体を海から上げ、酷く瞠目した。この男は気を失っているにも関わらず、未だ力強く刀を握りしめていたのだ。海中を泳いで来た最中、絶対に刀を手放さなかったこの男は、こちらの予想を遥かに上回る闘志を抱いているのだろう。
 人魚は飛影の身体を横にさせ、そして刀を手から外し傍らに置いた。そして飛影の腹部の中心、傷口の二か所に手を翳し、意識を集中させると橙色の仄かな光が灯る。しばらくの間その光を当てていると、飛影は飲み込んでいた海水を吐き出し噎せた。息を返し呼吸は整ったが、腹部の傷が深い事から意識は未だ戻らない。人魚は傷口に両手を翳し、光を当て続けた。



***



「…ん、」

 飛影はゆっくりと瞼を上げ、目を覚ました。ぼんやりとした眠気眼で捉えたのは、いびつな岩石。それも視界全体を占め、何故か高さがある。…いや、そもそも牛鬼蜘蛛の攻撃から逃れるために海に落ちたはずだ。それなのに、何故地上にいて、そして寝かされているのだろう。…確かに、死と隣り合わせになり、覚悟したはずだったのに。

「…?」

 まるで思考が追い付かない。とりあえず、身体を起こそうと上半身を動かした瞬間、腹部に痛みが走り思わず顔を顰めた。「ぐっ…!?」曇った声が出たが、傷の痛みは思っていたよりも軽い。それに手を当てると出血も止まっていた。おまけに、先ほどまで血まみれだった己の手は一滴もそれが残っていない。次いで、身体に走った痺れも多少はあるが、攻撃を喰らった時ほど酷くはなかった。そして仕舞には傍らに己の刀がご丁寧に置いてある。
 …ますます意味が分からない。何が一体、どうなっているのだろう。まさかとは思うが、誰かが助けてくれたのだろうか。そんな憶測が脳内で生まれた瞬間、ふと近くの岩石から気配を感じた。無意識に刀を握り、痺れと痛みを抱えながらも俊敏にそこへ行き、岩石の後ろにいるであろう気配の元へ刀を突きだした。

「貴様、誰だ!?」

 飛影が岩石の後ろを覗く。すると、そこにいた者を上から下まで一瞥すると、面食らったような表情に豹変した。まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔だった。

「…けっ、怪我は大丈夫?」

 飛影が見つけたのは、怯えながらもか細い声で問うてきた一人の女だった。白い肌に美しい蒼色の瞳、そして自分とは違う種族だと決定づける下半身の魚体。…まさかとは思うが、この事実をひっくり返す言葉が見つからぬが故、開いた口が塞がらなかったのだ。

「にん…ぎょ…?」

 飛影らしからぬ、困惑した声。それほど、驚愕を隠せなかった。女はこくん、と小さく頷くと飛影をじっと見つめた。

「あの…私、戦う意思はありません。なので、どうか刀をしまっていただけませんでしょうか…?」

 その女の言葉は間違いなさそうだった。彼女から伝わる妖気はどう見ても格下であり、その怯えた表情や震える手が何よりの証拠だ。仮にも、隙を見て攻撃して来ようとも、負ける気はしなかった。
 飛影は人魚の言う通り鞘に刀を仕舞うと気が緩んだのか、途端に痛みと痺れが走り思わず膝を着いた。

「あっ、まだ動いちゃダメです。傷も完治していないし、毒も残っています」

 人魚が器用に腕を使い、飛影に近付く。そして傷口に手を翳すと、痛みが少々和らいだ。飛影は再び瞠目し、この女を凝視した。…どうやら先ほどの憶測は当たっていたらしい。恐らく、この女が自分の事を助けたのだろう。…と、同時に新たな疑問が生まれる。何故、助けたのだろうか。
 飛影が人魚を見つめていると、その視線に彼女は気が付いた。ここで初めて二人の視線が絡み合い、互いを見つめる。飛影は訝しんでいるが、それに反し人魚は目元を柔らかく緩ませ、そしてニコリと優しく微笑んだ。

「…ッ!」

 飛影の口が噤ぎ、息を呑んだ。まるで胸の奥が何かに掴まれるような、不思議な感覚が走ったのだ。そしてじわじわと顔に熱が生まれ、無意識に目を逸らしてしまう。
 …調子が狂う。この女は一体なんなんだ。飛影の中で訳の分からない感情が生まれた瞬間であったが、この時は未だ気付かなかった。

「…とりあえず、これで大丈夫だと思います。私の力が弱いせいでここまでしか出来なくて…ごめんなさい…」

 人魚は手を下し、軽く頭を下げた。飛影は何故、この女が頭を垂れて謝っているのかが、まるで理解出来なかった。…いや、そもそも、今自分が置かれている状況こそそれに値するので、瞬く間に表情が戻り、益々訝しんだ。

「貴様、一体何者なんだ。何故俺を助けた?」

 飛影の眼光が鋭くなり、眉根が上がった。だが、人魚は先ほどのように怯える素振りを見せず、飛影から視線を外さない。

「…私は潮と言います。見ての通り、人魚族の者です。…貴方も、海底火山の噂を聞いてこの海に来たのですか?」
「そうだ。だから何だと言うんだ。質問しているのは俺だ、答えろ」
「…今までも、貴方のように何人もの方がこの海岸を訪れて来ました。でも、誰一人と私達人魚を捕まえる事なく、命を落として行ったのです。…何故だか、もうお分かりですよね?」

 潮と名乗る人魚が眉根を下げ、逆に問うてきた。飛影の脳裏に浮かんだのは紛れもなく一匹の妖怪だ。

「牛鬼蜘蛛か」

 飛影の言葉に潮は頷き、そして語り始めた。
 潮が属する人魚族は魔界の深海に住み、地上に住まう種族とは交流を持たず孤立無援な一族であった。その理由は、彼女達の身体にあった。昔から人魚の血肉は大いなる力を秘めており、それを喰らえばたちまち身体が強靭と化し、潜在する以上の力を手にすることが出来る。それに加え、その美しき容姿は見る者を魅了する事から、闇市場で売り飛ばされる話しも珍しくなかった。
 一族から代々伝えられたのは“地上は危険な場所である”という言い伝えだ。だが、人魚を狙う輩は昔から絶えず、狡猾な手を使い彼女等をおびき寄せ、海から連れ出されるのが絶えなかった。そこで人魚の一族は身を護る術を代々磨いていき、次第に治癒術や心術が長けていったのだが、事の発端は数か月前に起きた海底火山の噴火だった。
 数千年に一度起きるその大規模な噴火により、住処を失った人魚族は魔界の海岸に逃げざるを得ず浅瀬に姿を現すようになった。その噂は瞬く間に魔界全土に広がり、今回の飛影のように人魚を狙って海に訪れる者が急激に増えたのだ。各地に散らばった行った仲間だが、浅瀬出でては安易に捕らえられてしまい、その場で喰われたり連れ去られたりしていたのだが、生き残った者達でなんとか情報を共有し、死に物狂いで生きてきたそうだ。だが、人魚の血肉を食べた妖怪が強靭な力を手にし、海岸を訪れる新参者を次々と襲う事態が新たに起きている。理由は一つ。人魚を我が物にする為だ。
 牛鬼蜘蛛もそのうちの一匹であり、自分の仲間が喰われてから恐ろしい程の力をつけた。当然、残された自分には太刀打ちできる力など残ってはいない。住処が見つかるまでの間、どうにか命を繋ぎとめたいのだが、仲間が喰われた悔しさを蔑ろに出来ず仇を討ちたいと願っていた。
 そんな矢先、飛影がこの海岸に現れた。今まで牛鬼蜘蛛に立ち向かった者達は全員、海に落とされるか毒に溶かされるか、もしくは人魚のように喰われてしまうか、運命が決まっていた。だが、飛影は自ら戦いから身を引き海へ落ちた。潮は崖の上で繰り広げられる彼等の戦いを磯の影から見守っており、今までとは戦うスタイルが異なる飛影に全ての希望を託すことを決めたのだ。
 どうか、牛鬼蜘蛛を倒し同志の仇を取ってほしい。それが潮の願いだった。

「だから俺の事を助けたと言うのか。…くだらん。貴様らの種族がどう生きて、どう死のうが俺には関係のない事だ」
「それは重々承知の上です!勿論、ただとは言いません。牛鬼蜘蛛を倒した暁には…私を、捧げます」
「…なんだと?」
「私を殺して血肉を食べていいですし、闇市場に売り飛ばしてもいいです。だから、お願いです。どうか奴を…倒してください。お願いします…!」

 語尾が震えている。潮はいつの間にか涙を零しており、深々と頭を下げた。飛影は母親意外の、初めて見る女の涙に困惑し、再び口を噤んだ。
 人魚族がどうなろうが自分には関係ない事は確かだ。だが、牛鬼蜘蛛にやられっぱなしのまま別の土地へ行くのは己のプライドが絶対に許さなかった。何より、勝った暁には彼女の弁の通り、殺すなり売り飛ばすなり、好きに出来る。強さか、もしくは金が手に入る。それは本来の目的が達成されるも同然だった。
 飛影はしばらく黙考していたが、嘆息をついた。潮が少々顔を上げた。

「貴様ら一族の事情は俺には関係ない。だが、牛鬼蜘蛛を倒すのは俺の役目だ。それに、借りを返さぬままなのも性に合わん。奴を倒した暁には、貴様を好きにさせてもらう。…それでいいんだな?」
「…はい!勿論です」
「なら、交渉成立だ」
「…ッ!ありがとうございます…!嬉しいです」

 潮は再び大粒の涙を流したのだが、瞬く間に相好が崩れた。飛影は、誰かから満面の笑顔を向けられたのも、感謝されたのも、必要とされたのも、全て初めての経験だった。再び、胸の奥が何かに掴まれたような感覚が走り、今度はじんわりと熱が生まれるようだった。…潮と出会ってから、訳の分からない感情が生まれつつある。だが、不思議と気分は悪くなかった。

「あの…貴方のお名前は?」

 潮が穏やかに微笑み、問うてきた。飛影の顔に再び熱が走り、目を逸らす。

「…飛影だ」

 先程のような尖った声色ではなく、不思議と柔らかさが生まれた。

「飛影…。よろしくね」

 潮が飛影の手を取り、握手を交わした。彼女から伝わる温かさが身体中にじんわりと沁みてゆくようだった。




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