83 在りとして辿る

 躯と名乗る男。彼から感じる妖気は微弱ではあるが、それは虚勢ではないのは直感で分かる。肌が、全身が、この男に隠された強靭な妖力を感じ取っているのが何よりの証拠だ。躯のぎょろりと覗く機械的な目もまたどこか不気味であり、冷徹に相手を観察するような光が宿っているのも否めない。故に、油断のならない相手だ。
 凪沙はゴクリと生唾を飲み「はじめまして。凪沙です」と自ら名乗った。腹の底から絞り出したような声には震えが走る。握られている拳には尚力が込められ、極度の緊張をどうにか緩和しようと必死だった。
 当然、躯からしたら凪沙の心情はとうに予想が付く。「座れ」顎で示したのは向かいのソファーだ。躯が先に腰を下すと、凪沙もそれに倣った。
 ガチャリ、と再びドアの開く音がする。凪沙が振り返ると、先程とは違う別の男が入室した。ティーカップとポットが並ぶワゴンと共に、男は二人の前に来ると一礼した。

「まぁ、茶でも飲めよ」

 ソファーの机に肘をつき、足を組んだ躯。意外にも厭戦で、寧ろ弛緩的な態度を示してもてなすその姿勢に凪沙は思わず訝しんだ。何せ油断を許されぬ相手だ。どうにか隙を秘匿せねば、と顔面が引くつく。
 こぽこぽ、とカップにお茶が注がれてゆく。テーブルに置かれた二人分のティーカップからはベルガモットの匂いが香った。…この匂いは知っている。以前蔵馬が淹れてくれたものと同じだ。

「下がれ」

 躯が顎で示すと男は再び一礼し、退室した。躯がティーカップを手に取り、胸元まで持って来ると凪沙を一瞥した。

「…紅茶は苦手か?」
「えっ?あ、いや…そんな事は…」
「そうか。人間界の飲み物と聞くが、俺はこれが好きなんだ」
「は、はあ…」

 躯の顔を包む包帯の中で口角が上がった。
 彼の瞳から感じる重圧的な視線。非人間的なのに、何故こんなにも力を感じるのだろう。それに紅茶と言ったって、この状況で易々と「いただきます」と簡単に口をつけらるほど愚鈍ではない。
 凪沙は言われた通りカップを手に取ったが、胸の前で止まってしまった。細長い湯気と共に香りが漂うが、これが本当に紅茶で、ましてや安全なものだという確証は皆無だ。水面に映るぼやけた己の影がゆらりと揺れる。一拍程置くとカチャ、とカップが置かれた音が聞こえ、思わず顔を上げた。躯が一口飲み終えたようだ。

「どうした、飲まないのか?」
「…いえ、」
「毒でも盛られているとでも思ったか?」
「ッ!?」

 凪沙の目が見開く。それが予想通りだったのか、躯から笑い声が漏れた。

「ははっ。懸命な判断だ。得体の知れねぇ敵陣に乗り込み、出されたモンをそう簡単に飲み食いするような馬鹿な女じゃなくて良かったぜ。…安心しろ。こちとら、殺したい人間をここまで手厚く招待する程、暇じゃねぇんだ」

 躯の言葉は正論だった。確かに、命を狙っているのだとしたら彼の部下等が幻海邸へ訪れた際とっくに殺されていたはず。だが、あの男が「身の安全を最優先して魔界へ」という言葉を加味すると、多少は信用してもいいのかもしれない。何より、飛影の件があるから、ここで尻尾を巻くのも断固として避けたかった。

「…いただきます」

 凪沙は腹の底に力を入れ、覚悟を決めた。ティーカップの淵に口をつけ、こくりと一口飲み込む。温かく香り豊かな紅茶が喉を通り、飲み込んだ後は深呼吸を繰り返した。口の中にはほのかな甘さが残っている。…今のところ、身体に異変は感じない。寧ろ、鼻に残る茶葉の香りに心地良さを感じたほどだ。

「美味しい…」

 思わず、ぽつりと零れた声。それにハッとし、慌ててカップを戻した。すると対峙していた躯から、くすくすと軽い笑い声が漏れた。

「ふっ。人間は正直で素直だな」
「…それ、さっきも言われました。えっと…」
「光明か?…フン、アイツらしいな」

 躯は視線を斜め上に投げた。
 あの男は光明というのか。聞けば、彼は人間界に元々興味を抱いており、ごく偶にだが人間に化けて人間界と魔界を行き来しているらしい。主に躯軍の情報屋として生業しているそうだ。因みにこの紅茶も光明が人間界で買ってきたものだ。
 幻海邸を訪れた際は妖気を放っていたので敵対心を抱いたが、この部屋に案内してくれた彼は好人物であった。包帯から覗かせた瞳や声色の優しさは、そういう事だったのかと合点する。

「…少しは信用してもらえたようだな」

 躯が再び紅茶に口をつけると、凪沙は前を見据えた。
 凪沙の身体は徐々に緊張が解れ、先ほどまで握られていた拳は解いたままであった。親しみのある飲み物や躯とのやりとりで精神が弛緩され、肩の力が抜けたのだ。何より、凪沙の先ほどまでぴんと張り詰めていた妖気も緩和され、それこそが決定的であり、躯は確信したのだった。

「…さて、凪沙と言ったな?そろそろ本題に移ろう。今回、お前を魔界に招いたのは理由が二つある。一つ目は、俺が以前ここへ招待した飛影という妖怪の事。二つ目は、…人魚族の事だ」
「――ッ!」

 凪沙の瞳が揺らぎ、息を呑んだ。
 何故、躯が人魚族の事を?それが率直な疑問であったが、光明の件が脳裏に過り、まさかと思った。彼は情報屋だ。故に、人間界の事を調べている最中、いつの間にか気付かれてしまったのだろうか。人間界にいた頃は力のコントロールをし、人間と同じように生活を送っていた。仙水戦で魔界を訪れた際は飛影のマントを羽織っていたので、妖気は勿論尾ひれだって隠されていたはずだ。だが、もしかしたら自分の気付かぬところでバレてしまったのかもしれない。
 再び、凪沙の身体に極度の緊張が走り、表情はみるみるうちに曇った。途端に襲われた大きな危機感に耐えうるのに必死だった。
 躯が指を組んで前傾姿勢になる。目線は上目遣いだ。まるで下から煽られているような態度に、凪沙の身体には益々緊張が走った。

「…そう、ビビった顔するな。お前にはまず後者から話さねばならない。…いや、話すべきことがあるんだ」

 躯は瞼を閉じ、深い吐息を漏らした。そして一拍程置くとゆるりと立ち上がり、顔を包んでいた包帯を少しずつ解き始めた。しゅるしゅる、と布が擦れる音と共に、貼られていた呪符もはらりと床へ落ちる。そして包帯がほぼ全て解かれ、躯の出で立ちが露わになった頃、凪沙は再び瞳を揺らがす事となった。
 目の前に現れたのは、顔面の半分が機械的で、もう半分は人間の若き女性だった。赤茶色い髪の毛がサラリと揺れ、そこから覗く目元は男性さながらの精悍さが伝わる。だが、鼻筋が通った顔立ちやふっくらとした唇はやはり女性らしさが勝った。

「これが俺の真の姿だ」
 
 声には先ほどの中性さが既になく、女性らしいものだ。躯は女だったのだ。凪沙はあまりの驚愕に声が出ず、あ然する他なかった。だが、今更気付いたが彼女の胸部には膨らみがある。今までそこに着眼しなかったのは、躯が男だという先入観があったからだ。

「驚くのも無理はない。俺は側近の戦士にしかこの姿を見せていないんだ」
「どうして…私に…?」

 凪沙が戸惑いながらも尋ねると、躯は彼女と対峙し身体を屈ませた。次いで、凪沙の右手に己の両手を重ね合わせ、視線を絡ませる。包帯を外し顔面が露わになった事から、先程まで感じていた威圧的な力は既になかった。寧ろ、機械ではない肉眼の瞳から伝わるのは温情だった。掌から伝わる温かさが、より精神を弛緩させてくれた。

「…人魚族には借りがあるからな」
「えっ?」

 驚く凪沙を他所に、躯の口の両端がゆるりと上がる。視線が絡み、見つめ合っていると凪沙の脳裏に少しずつ映像が流れてきた。…この感覚は、知っている。潮や仙水の過去の記憶に触れた際と、全く同じものだったのだ。
 送り込まれる映像が鮮明に色づかれ、遠くから音が聞こえてきた。


 遠目に小さな洋館が見える。傍によるとそこに建っているのが不思議なくらい朽ち果てているものだった。入口でもある大きな扉を開き、真っ直ぐ続く廊下の突き当りを右に曲がり、しばらく進むと右手に古びた扉があった。ドアノブの鍵は既に壊されており、握るとガタつくほど老朽していた。そこを開けると地下に続く階段があるのだが、深さに比例して暗闇が待っている。蝋燭の仄かな灯りだけを頼りに階段を下ると、行きついたのは地下室だった。そこには左右合わせて三つずつ並ぶ、計六つの牢屋がある。右手の真ん中の牢屋には、一人の少女が横たわってた。首には重厚な黒い首輪が付けられ、貪らしい衣服を纏うその少女は、辛うじて息をしている。コツコツ、とわざと靴音を鳴らして近づくと、光が灯らない瞳だけをこちらに向けてきた。

「…相変わらず汚ぇ面してるな。痴皇様の娘でなけりゃお前なんてすぐ殺しちまうのによ」

 悪態をつく男が粘着質な笑みを見せる。そして少女に向かって唾を吐き捨てるとしゃがみ、見下ろしながら尚も汚らしい笑顔を見せた。少女は相変わらず無表情のまま、男を見つめている。だが、その瞳はまるでこの世で息をしていないかのような、焦点の定まらない目を虚空に向けているようだった。
 男は少女の相も変らぬ態度に腹が立ち、牢屋の柵を一蹴した。がしゃん、と大きな音が地下室に響くが、少女はやはり何の反応も示さない。

「チッ…大した金にもならねぇごみ屑が。この牢屋ですら、生きる価値もねぇお前にはもったいねぇくらいだな。さっさと死ねよ」
「…ッ」

 憎々しげに言う男に対し、少女の目つきがここで初めて鋭くなった。眉根が上がり、口を紡ぎ、男を睨みつけている。表情の変化に気付いた男は再びあの嫌らしい笑みを浮かべた。

「なんだ?悔しいのか?だったら盾突いてみろよ?所詮男に玩具にされるしか能のない娘なんだからよ、粋がってんじゃねぇぞ!?」

 再び、男が柵を一蹴する。先程よりも力強かったが故、鉄を蹴る鈍い音はより響いた。

「…まぁいい。これからお前なんかよりも余程価値のある代物がここへ運ばれる。闇市に出せば大儲けになるほどの代物だ。…何せ、美しく色気もある女妖怪だからよ。せっかくだからよく見えるように向かいの牢屋に入れてやる。…指でも銜えて見てるんだな?」

 男が踵を返すと、高らかな笑い声を上げながら階段を上っていた。少女は男の背を見つめながら、悔しそうに歯を食いしばった。様々な負の感情が胸中を攪拌し、己を呵責する。膨らんだ蟠りが、まるで身体中を巡るようだった。少女は怒りに任せて、思わず牢屋の柵を一蹴したが、男のような響く音はせず、鈍い音が一瞬鳴っただけであった。悲しき現実に、夥しい卑屈な思いが心を蝕む。少女は己の力量が情けなく、悄然とし、静かに瞼を閉じ涙を流した。

 しばらくすると、少女の瞼がゆっくり開かれた。…嗚呼、まだ生きていたのか。いっそのこと、本当に死んでしまえば良かったのに。尚も息をしている己自身が憎く、陰鬱な思いに拍車がかかる。
 そんな中、聴覚で捉えたのは数人の男達が何やら騒いでいる声だった。実に耳障りであるのだが、こんな地下室で一体何を?というのが素朴な疑問だ。少女が目を配ると、背を向ける男達の向こう側にきらりと光る何かが見えた。
 …一体何が行われているのだろう。まるで好奇心が身体を動かしたような感覚だった。少女は重たい身体を上半身だけ起こし、向かい側の牢屋を凝視した。そういえば、先程痴光の部下が向かいの牢屋に何か運ぶと言っていたような…。そんな記憶が一瞬過った際、男達の作業が終わったようで踵を返した。少女は思わず再び横たわり、瞼を閉じたのだが、男達に気付かれぬよう薄らと目を開けた。

「いやぁ、本当にイイモンを手に入れた。これでまた大金が手に入るな」
「見世物屋に回す話も出ているが、もっと金になる方法があるらしい。剥製にするとコレクター共が馬鹿みたいに金を出すらしいぜ」
「ははっ。確かにこれだけのモンなら幾らでも金は出すって輩がいくらでも沸いて出てきそうだな」
「ビジネスにするにはもってこいだな。次は東の海岸で探すって言ってたぜ」

 男達は談笑に夢中だ。少女が薄ら目を開けている事等、気にも留めていなかった。寧ろ、こちらに気付かぬ程金に目が眩む様子を見ると、相当なモノを手に入れたらしい。
 少女は男たちの背を目で追い、地下室へ続く扉が閉まる音を遠くで捉えると、再び身体を起こした。無論、視線は向かいの牢屋だ。そこで見た物に、少女は瞠目し、息を呑んだ。
 目の前の牢屋には浴槽程の水槽が置かれ、水面が揺れている。先程見た光は、水が地下室の電気を反射させたものだったようだ。その水槽の中には一人の女がいた。その女は腰までかかる黒く長髪で、女性らしい美しい身体のラインを持ち、下半身は桃色の鱗、薄桃色の尾ひれが特徴的な魚体だった。首には、少女と同じように黒い首輪が付けられている。
 少女の凝視している視線に気が付いたのか、女は閉じていた瞼を上げた。その眼は美しき蒼き瞳であり、少女と視線が絡んだ。
 女は人魚だった。



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