08 踏み出す勇気

「…で、結局どうするの?凪沙ちゃんの事」
「どうするって…。成人してるならまだしも、まだ中学生だし…」
「これから高校、大学とお金もかかるのにね…」
「ねぇ、アンタのところ給料もそこそこ良いんでしょう?子ども一人くらいどうにかならないの?」
「冗談言うなよ!うちだってギリギリなんだ!子どもが増えるなんて、冗談じゃない!」
「…じゃあ、施設に入れるしか…」
「それはさすがにかわいそうじゃ…」

 嫌でも聞こえてくる大人たちの会話。これを耳にするのは果たして何度目だろうか。凪沙はドア越しで身体をうずくませながら、お守りを握りしめていた。
 …これにまじないをかけてくれる人は、もうこの世にはいない。何度寝ても覚めても、変えようのない現実に心は完全に疲弊していた。

 凪沙の母の死から、数日が経った。
 通夜、葬儀、出棺と瞬く間に過ぎていったが、凪沙自身この数日間をどう過ごしていたのか非常に漠然としていた。覚えているのは、事あるごとに溢れる涙を必死に抑え、今まで面識のなかった親族から慰めや情けをかけられるのを聞き流していた事くらいだ。
 弔問客の中には母の職場関係の人は勿論、凪沙の学校の教職員が参列していた。教職員の中には竹中もおり、顔見知りが来てくれた事に酷く安堵したと同時に精神が弛緩し、そこでまた涙したのも記憶に新しい。
 葬儀で喪主を務めたのは、母の兄でもある叔父だった。
 …と言っても、昔から母の親族とはほぼ無縁だったので葬儀で初めて顔を合わす事になったのである。身長が高く、不愛想で近寄り難い雰囲気なのだが、目元や顔の輪郭は母そっくりだった。もしも母が男で生まれたら、きっとこんな顔立ちだったのであろう。他にも母の家系の遠い親戚も集ったのだが、全員が初対面だった為に顔も名前も全く一致せず、言葉を掛けられても心に響くことはなかった。関係が成立していない間柄、そんな言葉を投げられたところで気休めにもならなかったのだ。寧ろ、孤独感がより増したようにしか思えず惨めな気持ちになった。
 お願いだから放っておいて欲しい。母への思いを馳せる時間が欲しい。ただ、それだけが願いだった。

 そしてようやく母の遺骨と共に戻って来たのだが、凪沙のアパートは狭い為急遽叔父のアパートに集った。叔父のアパートは皿屋敷市から幾分離れた町に在る。転勤族な故、一人で住まうには十分な広さだが、大人が数人集まると当然窮屈さは一気に増した。
 凪沙は「少し休みたい」と話し、リビングの隣にある寝室へ行かせてもらった。他人の寝室への入室は流石に躊躇したが、この数日間ある意味逃げ場がなかったので腹を括るしかなかった。幸いにも、男性の一人暮らしにも関わらず部屋は片付いている。転勤族なので、そもそもの荷物が少ないのであろう。叔父が綺麗好きで良かったと胸を撫で下ろし、部屋のドアにようやく背を預け腰を下せたのである。
 だが、隣室の話し声はほぼ筒抜けだった。それが冒頭での会話である。正直言うと、葬儀の合間にもそんな内容の会話は小耳に挟んでいた。自分を蔑む大人たちの冷たい視線や小声での囁きは、子どもながらに何を意味するのかは察した。
 …私は、誰からも必要とされていない。いらない子、なのだと。

「…っ、うっ…うぅ…」

 お母さん。どうして突然いなくなってしまったの?私を置いて行かないで。寂しいよ、会いたいよ。

 母への思いが溢れ、凪沙の瞳からは再び大粒の涙が零れ落ちた。どんなに手で拭っても涙は止まることなく流れ続ける。その涙の雫は握っていたお守りへ溢れ、それが目に入ると手の甲に視線が落ちた。

“女が自分の身体、傷つけるもんじゃねーぞ”

 あの日、幽助がかけてくれた言葉が脳裏に反芻される。だが、凪沙の胸中はその言葉に従順になれるほど、余裕など皆無だった。涙を拭う手の甲はこの数日間何度も爪を立て、その傷跡がくっきりと残ってしまっている。深い悲しみの蟠りを正直にぶつけられる居場所がないが故に、全てここに当ててしまったのだ。
 これを幽助が見たら、今度こそ怒るだろうか。…いや、寧ろ呆れるだろうか。
 そんな事を考えているうちに、幽助は勿論、桑原や螢子の顔もまた脳裏に過った。…みんなに、会いたいな。でもこんな状況で気軽になんか会えない。完全に憔悴しきっている最中に会ったところで余計な気を遣わせるだけだ。
 凪沙は涙しながらも深い溜息をついた。
 …これから、どうしたらいいんだろう。唯一の近い親族でもある叔父は転勤族が故、きっと一緒に暮らす事など頭にはないだろう。それに他の親族だってそれぞれの家庭や事情がある。突発的に、今まで関りのなかったこんな少女を迎え入れてくれる者などいるものか。
 そんな考えに達した瞬間、自分でも改め「要らない子」なんだと認めざるを得なかった。いっそのこと、母と同じく―――あの世へ行ってしまえば全てが楽になるのだろうか。そんな闇の世界に足を踏み入れようとした瞬間、ドア越しにだがチャイムの音が聞こえた。

「…誰だ?」
 
 家主でもある叔父がすかさず反応した。…弔問客だろうか。いやでも、顔見知りの知人は全て訪れたはずだ。だとしたら宅配便か?はたまた何の勧誘か?そんな疑問を胸に、叔父はインターフォンの画面を確認した。
 そこには背の低い一人の老婆が立っていた。

「…どちら様でしょうか?」
「あたしは幻海という者だ」

 幻海、と名乗るその老婆に既視感はなかった。記憶を巡らせるも、思い当たる節は一切ない。叔父は訝しみながらも対応を続けた。

「あの…どういった御用でしょうか?」
「波子からの伝言を預かった。中に入れて欲しい」
「え…?」

 叔父は耳を疑った。
 この老婆は波子と一体どんな関係なのだろうか。葬儀にも弔問にも参列していなかったので、今になって急に尋ねてくるのは不可解だ。だが、こんな事態だからこそ波子の名を出されては拒む事など出来ず老婆を迎え入れた。

「邪魔するよ」

 その老婆は大きな目とうねりの強い淡い桃色の髪が特徴的で、背丈は低かった。一般的な老人よりかはまだまだ元気がありそうなだが、波子とは一体どんな関係だったのか全く見当もつかない。
 叔父がリビングに通すと、幻海は指定された場所に腰を下した。
 幻海は老人とは思えぬほどの真っ直ぐとした背筋に凛とした表情、そして真一文字に閉じられた口元がどこか威圧的であり、周りを制するような、そんな雰囲気を持ち合わせていた。
 叔父を始め、他の親戚もその雰囲気を感じ取り肩に力が入った。

 凪沙は、ドア越しにだが大人たちのどこか不穏な空気を察した。客人が来てから空気が変わったような気がしたのだ。ドアに耳を近付け、ひっそりと聞き耳を立てた。

「幻海さん、とおっしゃいましたよね。あなたは一体…?」

 叔父が不思議そうに尋ねる。親戚達は少々怪しんでいる表情だ。

「あたしは波子と、ちょっとした関係だった」
「ちょっとした関係…ですか?」
「生前の波子があたし宛てに手紙を残してくれた。…そんな関係だ」

 幻海が懐から出したのは一通の便箋だ。その筆致は波子のもので間違いない。叔父はそれに気が付くと目を見張り、幻海を一瞥した。

「読んでみな。そしてあんたの妹が書いた物かしっかりと確認することだね」

 叔父が手紙を受け取り、黙読する。そんな最中、凪沙の表情は訝しむ一方だった。
 …ちょっとした関係?
 母から“幻海”と名乗る老人と知り合いだなんて一度も聞いたことが無い。それに母が手紙を残すほどの関係って…一体どういう事なのだろうか。 
 凪沙は先ほどよりも息をひそめ、続けて聞き耳を立てた。
 そして周りの親戚も突然の状況ではあるが、叔父を見守っている。無論、凪沙とて同じだった。
 どこか切迫感のある空気の中、叔父は黙って読み進め、そして読了した彼の表情は先ほどよりも驚愕していた。

「…幻海さん、これは…!!」
「分かったかね。…これが波子からの遺言だ」
「えぇ…ですが、本当に良いのでしょうか…」
「本当にいいだと?そんなもん、あんた達の中でとっくに答えが出ているんじゃないのかい?」

 幻海の棘のある声色に、叔父は少々怯んだ。そして隣に座っていた一人の親戚から視線が送られると、叔父は手紙のとある一部分を指差した。その親戚もまた目を見張り、そして周りに目配せをすると、全員の視線が寝室のドアへと送られた。無論、ドア越しにいるであろう凪沙へ、だ。
 親戚の一人が叔父に小声で話し始めた。

「ねぇ、いいんじゃないの?このまま引き受けてもらって…。引き取り手がいない中なんだから好都合じゃない」

 その言葉に叔父は眉根が上がった。皆、恐らく言葉には出さなかったその旨は、いくらなんでも幻海の前で言うべきことではない。叔父は思わず「やめないか」と視線で送ったが、他の親戚も頷いた。
 
「このまま任せようぜ。これなら俺等の肩の荷も下りる」
「育ち盛りの娘が増えるなんて冗談じゃなかったからね」
「おい…!」

 いい加減にしてくれないか。叔父のこめかみに青筋が走りそうになったその瞬間、幻海の目がより大きく見開かれた。

「全く、なんてデリカシーのない連中なんだい!波子が実家を飛び出したのも納得だよ!こんなのが親族だったらあたしは恥ずかしくって耐えられないね!」

 幻海の怒号はこの場を静まらせるのに十分だった。叔父をはじめ、他の者も唖然としている。だが幻海の怒りはおさまらなかった。

「本当に馬鹿な大人だね!相手が子供だからって、大の大人がこんなせまっ苦しい中でそんな会話するもんじゃない!さっきからなんなんだい、寄ってたかって凪沙を除け者扱いするような事ばかり言いおって!施設に入れるだの、金がかかるだの、聞いてるこっちが恥ずかしいよ!」

 その発言に全員の顔が青ざめた。互いに視線を交わし気まずそうにしていたり、視線が落ちたりと、それぞれお思い当たる節はあるようだ。叔父もまた、彼等の言葉を否定出来ずにいた事が本音であったからこそ、幻海の発言は耳が痛かった。…とはいえ、幻海はここに尋ねてくる以前の会話を、何故周知していたのだろうか。そこが一番の疑問だった。
 叔父の表情で何かを察した幻海は更に眉尻を上げた。

「あたしはね、普通の人よりも耳が少し良いんだ。チャイムを押す前から、あんた達が何を話していたなんてとうに分かっていたのさ」

 …どうやら、この幻海という老婆はとんでもない超人のようだ。確かにアパートの造りは、ドアも壁も薄いので多少の話し声は聞こえるかもしれない。だからと言って会話が筒抜けというのは信じられない話だ。しかし、幻海が述べた内容に間違いはない。

 リビングが瞬く間に静まり返った。 
 先ほどからドア越しで事の顛末を聞いていた凪沙だが、いつの間にか涙は止まっており幻海の言葉が一つ一つ胸の奥に刺さった感覚を改めて感じていた。
 この幻海という老婆は自分を守り、そして自分の思いを全て代弁してくれた。…即ち、この人は味方なのだろうか。そう思う一方で「母が実家を飛び出した」というのは初耳だった。この老婆は、母の何を知っているのだろうか。

「…凪沙、そこにいるんだろう。出てきな」

 突如呼名された凪沙は肩が大きく震えた。…幻海の気迫が、ドア越しからでも十分伝わるような気がする。それに導かれるように、凪沙はゆっくりと立ち合がり寝室のドアを開けた。
 リビングにいた者全員の視線が自分に集まる。その視線には多少蔑む思いも含まれていたが、同時に負い目も感じるのは気のせいだろうか。
 そんな事を思っていると、幻海は立ち上がり凪沙の傍らについた。そして凪沙の背にそっと触れたのだ。自分よりも小柄な幻海ではあるが、その小さな掌から伝わる温かさはどこか度量の大きさを感じ、そして安堵感もあった。「しっかりしろ」まるでそんな思いが伝わってくるようだ。先ほど述べていた言葉は眉唾物ではない。確固たる信頼を置いてもよさそうなほど、この人なら大丈夫だと確信した。

「波子の遺言に書いてあった通り、凪沙はあたしが責任を持って預かる!異論はないな!?」

 幻海の問いかけに誰もが口を噤み、静かに頷く。そんな中、叔父だけが申し訳なさそうに頭を下げた。
 周りの反応に納得した幻海は、凪沙を見上げた。その眼差しはとても優しく、そして懐かしさに思いを馳せている。

「…大きくなったねぇ、凪沙」

 その柔らかい一言に、凪沙の目が見張った。…この人は私の事も知っていたのだろうか。
 親族とは無縁な人生を歩んできたからこそ、自分の幼き時代を知ってくれている人とこんな形で出会うなんて。

「…お世話になります」

 凪沙は再び涙が頬を伝ったが、それを隠すように幻海に頭を下げた。
 それは母が残してくれた縁に感謝する、精一杯の返事だった。



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