愛の魔物を手懐けたい


 これが本当の、一生の不覚とやらなのだろうか。水たまりの水面に揺らめき映る己の惨めったらしい姿といったら。まるで目の前が闇に飲み込まれてしまったような絶望感だった。
 人離れした長き鋭い爪、肉厚な太い足、全身を覆う黒き鱗状の皮、細い指先に宿る雀の涙ほどの握力、辛うじて面影を残す紅き瞳と額に宿る紫色の宝玉。唯一頼りになりそうなのは、呻き声と共に飛び出した黒き小さな炎のみだった。
 もう、こうなってしまってはある意味諦めるしかない。一刻も早く帰路に着き、この術を解いてもらわねば。幸いにも、妖力は僅かに残っている上、背中に生える翼が頼りの綱だ。慣れぬ背筋への意識の集中と脳内で思い描くイメージを動きに変換させ、翼の動かし方のコツを掴むと足が浮遊し、己の影の下には小さな粉塵が舞った。
 術をかけられる前は、こんなちんけな森なんて気にも留めなかったのに。身体の大きさが半分以下になった今、まるで樹海を彷彿させるような出口が永遠に見つからぬ鬱蒼が更なる不安に拍車をかけた。慣れぬ浮遊は自然と蛇行し、気付けば額から汗が流れていたが、立ち止まる暇など無い。
 目指すは、移動要塞百足が停留している場所だった。


***

 

 魔界の空は間もなく日が暮れ、茜空に染まりつつあった。

「…ん?」

 名前がパトロールを終え、百足へと向かってい最中。草むらを越えればもう間もなく要塞が見え始めるような、そんな頃だった。生い茂る雑草の中に、黒いモノが小さく蹲っており、思わず足を止めた。一瞬、この辺で戦闘をした妖怪の死骸か何かと思ったが、目を凝らすとそれは身体が微かに上下に動いている。どうやら息はあるようだ。だが、普段なら気にも留めなさそうなその小さき妖怪は、何故だか見過ごす事が出来なかった。根拠はない。ただ、“なんとなく”だ。
 名前は恐る恐るその黒き妖怪へ一歩ずつ近づき、そして抱き上げた。見た目に反してずっしりとした重さがあるのだが、決して重すぎるわけではない。例えるなら、赤子のような重さだろうか。
 名前がまじまじとその妖怪を見ると、身体が弱っているためか気を失っていた。背中に生える翼もへたり、尻尾も宙ぶらりんだ。その様に名前の庇護欲が途端に高まり、考えるよりも身体が先に動いていた。力強く地を蹴り、忙しく跳躍しながら進んで行くと、瞬く間に百足へと辿り着いた。
 門番に任務を終えた旨を軽く伝えると、真っ先に直属の上司の部屋へと向かってゆく。薄暗い廊下を小走りで進み、重厚な扉の前に来るとようやく深呼吸を一つした。
 …いくら慌てているとはいえ、上司の前でこんな体たらくな姿を見せてはなるまい。名前はもう一つ、大きく吐息を漏らすと、ようやくドアをノックした。返事を確認すると、挨拶と共に入室する。そこにはソファーに腰を掛けながら本を読む躯がいた。名前が対峙するとようやく本が閉じられ、視線が絡まったのだが、彼女の目線はすぐさま腕の中に眠る黒きモノへと落ちた。再び二人の視線が絡まった。

「…名前、俺は拾い物をして来いと指示した覚えはないぞ?」
「それは重々承知の上です。…ただ、なんとなく…放っておけなくて。この子、竜の子どもですよね?硬い鱗柄の皮にこの翼が何よりの証拠だと思うのですが…」
「まぁ、確かに見た目は竜の子だが…。竜族の生息地はこの辺じゃないだろう」
「はい。だからそれも相まって違和感がありまして…」

 名前と躯の会話を遮るように、ドアの向こう側からノック音が聞こえた。二人は気配で察知した。恐らく、奇淋だ。躯が返事をすると、案の定重厚な鎧を身に付けた奇淋が入室した。

「これは、名前さんもいらしたか。失礼した。…躯様、次の会議の資料です」
「チッ。また実のねぇ会議の話しか。…ったく」
「まぁ、そう言わずに…。…ん?おや、それは竜の子ではないですか。この辺で見るなんて珍しいですね」
「名前が拾ってきたんだ」
「この子、すごく弱っているんです」
「ほう、そう見せかけて他国のスパイの可能性も無きにしも非ずですな」
「えっ…!?」

 名前の目が丸くなり、瞬く間に顔の熱が冷める。いやまさか、こんな弱り切っている竜の子どもが敵国のスパイだなんて、よくそんな発想が生まれたものだ。だが、自分よりも遥かに年嵩な彼の言葉には重みも説得力も感じる。…もしかして、本当にとんでもないモノを拾ってきてしまったのであろうか。
 名前の表情が一変したからか、躯は「まぁ、確かめてみるか」と腰を上げた。そして竜の子どもに掌を翳し、仄かで温かい光を宿す。躯は己の妖力をこの竜に分け与えているのだ。眠っているだけでは、この子が何を思い、どんな目的で要塞の近くで気を失っていたのか分からないが故、確かめる為でもあった。
 しばらくすると躯の掌から光が消え、一拍程置くと竜の子の身体がピクリと動いた。蹲る身体をもぞもぞと動かし、少々長い首を上げ、瞼を開けると、そこには眠気眼な紅き瞳があった。

「あ、気が付いたみたい」

 竜の子と名前の視線が絡む。名前は無事気が付いた事に安堵し、優しく微笑んだのだが、それに反し竜の子は酷く瞠目し、その紅き瞳を震わせた。

「元気になった?躯さんが力を分けてくれたんだよ、ホラ」

 名前が促し、竜の子は躯の方へ顔を向けた。彼が捉えたのは、躯と奇淋の二人だった。三人の視線が絡まった瞬間、躯と奇淋は一瞬訝しみ、互いに顔を見合わせたのだが、再び竜の子を凝視した。竜の子の身体がビクン!と大きく震え、眉間の皺が増えて冷や汗を流す。躯と奇淋は少しずつ肩を震わせ、表情筋も強張った。
 彼等の意図に気付いた竜の子は眉根が上がり、目元により鋭さを宿す。「…ガウ、」威嚇のつもりなのだろうか、鋭い小さな牙を見せつつ一声鳴くと、ついに二人の緊張感は解かれた。

「ぐ…っくっく…あっはっはっはっは!ひ〜!!」
「―――ぶふっ!…あっはっはっはっはっはっはっは!!」
「ガルル…!ウゥゥ〜!!」
「えっ…えぇ…?」

 腹を抱えて大笑いする奇淋、彼の背を力強く叩き笑い死にから逃れようと必死な躯、その様に怒りを隠せない竜の子の呻き声、何が起きているのか解せぬ名前。三人と一匹がいるこの空間が実に無秩序であった。
 名前が瞠目するのは、普段冷静沈着で物怖じせぬ同僚と上司の反応だった。この二人が腹を抱え、目尻に涙を溜める程爆笑するなんて、きっと一生でこの瞬間だけではなかろうか。そんな非日常的な光景に思考が追い付かなかった。
 そんな名前を他所に、躯と奇淋は竜の子を凝視する度に再び笑い声が上がる。だが、竜の子も負けじと威嚇を続け、ついには鳴き声と共に小さき黒き炎も放ったが、躯と奇淋は掌に妖力を集めると一瞬にしてその炎を吸い込むように消し去った。二人が相手ではもはや無駄であり、大きく舌打ちをすると肩を震わせながらも怒りを抑えられず、睨みは続いた。
 しばらく笑い続けた躯と奇淋であったが、ようやく目尻に溜まった涙を拭い、呼吸が整った。

「名前、お前は本当にとんでもねぇモンを拾ってきたみてぇだ。そいつは他国の厄介なスパイだぜ。しかも、かなり強力な妖術がかけられている」
「えぇ。こやつは要塞から外に出してはなりません。常に厳重な見張りが必要ですな」
「あぁ。奇淋よ、その通りだ。…名前、お前に新たな任務を命ずる。その竜の子どもから絶対に目を離すな。片時も離れず、逃げられないようにしろ。いいな?」
「はっ…はい。承知しました」
「…それにしても、見事ですな」

 奇淋が呟き、改め竜の子をまじまじと見つめる。目尻が垂れている事から、この上なく楽しでいるのは否めない。その後ろで躯が「もうよせ。また俺を殺す気か」と小突いているが、やはり名前としてはとんでもない妖怪を拾ってきてしまった責任からか、眉が下がり視線は竜の子へ落ちた。
 すると、竜の子が名前を見上げ、丸い目をくりくりさせる。彼の表情が先ほどとは一変し、少々穏やかそうに見えるのは気のせいだろうか。名前は少し戸惑ったが、まるでこの竜が「心配するな」と言っているようだ。
 躯の命により、名前と黒き竜の子は退室した。

「飛影もまだまだ未熟ですな。力だけでは及ばぬ敵も、魔界にはごまんといるというのに」
「これもまたいい機会だ。アイツはまだ世間知らずなガキだからな。普段戦いに明け狂ってる分、偶には息抜きも必要だろう」
「随分と部下思いのお言葉ですね」
「術が解けた後、倍以上働いてもらうつもりだ」
「…そうだろうと思いましたよ。それにしても、あの妖術はなかなか厄介な気がしましたが、放っておいて良いのでしょうか?」
「飛影の潜在する妖力が徐々に回復すればじきに解かれる。まぁ、せいぜい一晩はあの姿だろうな。明日の朝には元に戻っているだろう」
「そこまで分かっておきながら、何故先ほど術を解かなかったのですか?」
「愚問だな。奇淋よ、俺は今の魔界の情勢に退屈してるんだ。何か一つ楽しみがあっても罰は当たらないだろう?」
「あぁ。そういう事でしたか。明日の朝が楽しみですな」

 
 自室に戻った名前は窓の鍵を閉め、その上から予備に取っておいた南京錠を更につけた。鍵のありかは竜の子に話さぬ限り自分しか知らない。これでこの子が飛び出して逃げる心配はなくなった。あとは、隙を見て逃げられぬようにこの部屋から出さぬことだ。そしていくら竜だとは言え、まだ子どもなので多少可愛がりたい気持ちも芽生えつつある。故に、この子の寝床と食事の用意も必須だった。
 黒き竜の子はサイドテーブルに羽を休め、名前を目で追っていた。自分の事を思ってせかせかと動き回る彼女の姿は、悪い気はしない。寧ろ、ここ最近は互いの仕事が忙しく二人でゆっくり過ごせる時間がなかったからこそ、ある意味同じ空間で過ごせることは不幸中の幸いだ。
 躯と奇淋のあの様を思うと確実に正体がバレてしまい、わざとあのような命を名前に任じたのだろう。だが、自分と名前の関係を知っている二人だからこそ、咎める事もなくあのように告げたと思うと躯には一生頭が上がらない。悔しい事にある意味弱味を握られたのだが、だからと言ってこの時間を蔑ろにはしたくないというのが正直なところだ。

「よし、こんな感じでいいか」

 名前が小さな籠に折り畳んだタオルを敷き、その上には膝掛用の小さな毛布が畳まれている。どうやら簡易的な寝床を作ってくれたらしい。完成した籠ベッドを自分の枕の隣に置くと、再び名前は竜の子をじっと見つめてきた。

「今日はここで寝るんだよ。…えーと、…そういえば、名前、決めてなかったね?」

 どうやら彼女の頭には“敵国のスパイ”という仮の設定はすっかり抜けているらしい。単純に子どもの竜を愛でたい思考になっているようだ。…まぁ、ここでクソ真面目に反論したってどうせ伝わりはしなのだから、特に返事はしなかった。

「そうだな〜…。身体が黒いから…。そのままだけど、“クロ”でいいかな?」
「ガウ。ガウガウ」

 フン。好きにしろ。いつもの癖でついついそんな返事をしたのだが、発されたのは獣らしい鳴き声だ。そこで改め、今の様に肩を落としたのだが、ふいに頭に温かな感触が触れた。名前に頭を撫でられていたのだ。

「気に入ってくれたの?嬉しいな。よろしくね、クロ」

 にこりと笑いながら、名前の手は頭から首元へと伸びる。指の腹で顎の下を撫でられる感覚が大変心地良い。愛おしい彼女の笑顔と絶妙なポイントを撫ぜられる感覚に酔いしれそうで、思わず目を細めてしまう。

「グルル…」

 自然と喉が鳴り、気付けば自ら名前の指に体重を預けるクロ。

「ここ、気持ちいいの?じゃあもっと撫でてあげるね」

 名前はクロの身体を抱き上げ、ベッドに腰掛けた。クロは名前の膝に蹲り、丸めた背を撫でられると、ほどなくしてうっとりした表情になる。名前がしばらく背中を撫で続け「はい、終わりね」と告げると、クロは顔を上げた。「物足りない。もっとしろ」まるでそんな声が聞こえてきそうな、不満げな表情だった。だが、それを見た瞬間名前は訝しみ、クロの両脇に手を入れ抱き上げた。目線を自分と同じ高さにし、まじまじと見つめる名前。クロは突然の事でキョトンとしている。
 名前の眼に映るクロの瞳は熱き炎を連想させるような深い紅であり、額に埋まる紫色の宝玉は誰かさんの邪眼と同じような気がしてならないのだ。

「…なんか、飛影に似てる…?」
「―――ッ!!?」

 クロの瞳が大きく震え、額から冷や汗が流れた。…こんな失態、名前に絶対知られたくない。二人きりの時間を満足するまで堪能し、その後は適当に逃げて躯に妖術を解いてもらおうと密かに目論んでいたのに。今ここでバレてしまったら全てが終わってしまう。
 クロ…基、飛影は全力で願った。「頼むからバレるな」そんな強き思いが通じたのか定かではないが、名前は「いや、まさかね…」と呟きながら腕を下した。飛影は静かに胸を撫で下ろした。

 そこからは、あっと言う間に時間が過ぎた。
 名前が竜の身体という事を気遣いどこぞの妖怪の生肉を用意してくれたのだが、生憎食の好みは変わっておらず、結局彼女の食事を分け与えてもらった。他にも、洗面台にお湯を張って身体を流してくれたり、先程のように首の舌や背中を撫でてもらったりと、飛影にとっての悠々自適な時間は瞬く間に終わってしまった。気が付けば日はとっくに暮れ、名前も寝床に入る準備をしている。
 …この姿になってから数時間経ったが、未だ身体に変化は現れない。恐らく妖術により妖力が抑えられているためだろう。いつ戻るかもわからぬ身体を案じるのは最早杞憂に値しそうな気がする。だとしたなら、今のうちに出来る事をやっておくのが名案ではなかろうか。
 飛影は毛づくろいしている舌を止め、翼を羽ばたかせた。この数時間の間に飛ぶコツは掴んだので、目的地点まで真っ直ぐ飛べるようになったのだ。辿り着いたのは髪を梳かしている名前の左肩だ。ピタリと着地し、身体を屈ませると、ふわりと甘い香りが漂う。風呂上がりの髪の匂いだ。甘い匂いと共に柔らかな髪が顔に触れ、くすぐったいのが心地良い。飛影は名前の耳の下あたりに顔を埋めた。

「もう、クロったら。くすぐったいよ…ははっ、やめてよ、もう」
「グルルル…」
「それ、甘え声でしょう?だんだんクロの事分かってきたよ。意外と甘えん坊さんなんだね?…ほら、おいで」

 名前が軽く手を広げると、跳躍して飛び込んだ。この姿で初めて会った時のように優しく抱かれ、名前の温もりや匂いが直に感じるので落ち着く。
 部屋の灯りが落とされると、名前はクロを撫でながら窓際の椅子に腰を下した。カーテンを少し開けると、鬱蒼とする森の上に広がるのは、星屑を散りばめたような夜空だった。

「見て、クロ。今日は天気が良いから空が綺麗だよ。魔界の空は雲っていたり、雷が鳴ることが多いから、今日みたいな天気は滅多に見れないの。だから、今晩はラッキーだよ。…星が光ってて綺麗だね」

 名前の視線は遥か遠くの空へと投げられた。だが、クロを撫ぜる手は止まらない。
 飛影は黙って名前の話しに耳を傾け。彼女に倣い空を見た。確かに、珍しく雲も晴れ星が明確に見えるのは珍しい。目を凝らすと、遠くに流れ星も見えるくらいだ。

「…飛影も、見てくれてるかな」

 突如名を呼ばれ、一瞬身体全体が震えた。だが、名前は特に気にしていない様子だ。…とはいえ、先程よりも目元に寂しさが宿っているのは気のせいだろうか。

「その人はね、いつもぶっきらぼうで、戦う事ばかり考えてて。私との時間よりも修行や躯さんの部下達と手合わせしてる方が楽しいみたい」
「…。」

 飛影の視線が泳ぎ始め、耳が痛くなった。だが、そんな事は知らぬ名前はぽつりぽつりと話を続ける。

「ご飯をいっぱい作っても「美味しい」って言わずにあっという間に食べ終わっちゃうし、満腹になればすぐ眠っちゃって。本当、自分の好きなように生きてる人なんだ〜。…でもね、」

 名前の撫ぜる手が止まった。

「私、その人の事がすっごく大好きなの。無口で言葉足らずでも、ちゃんと優しいところがあるし、ぶっきらぼうだけどすごく仲間思いでね?でも、素直じゃないからそれが上手く出せないの。…そんなところも、彼の魅力なんだけどね。…でも、最近私も飛影も忙しくて、全然会えてなくって。躯さんの部下として、同じような仕事してるのに…」

 ぽたり。ぽたり。クロの額に雫が落ちた。見上げれば、名前が大粒の涙を零している。

「やっぱり、大好きでも…ずっと会えないのは寂しい。早く飛影に会いたいんだけど…なかなかうまくいかなくって。…でもね、今日は寂しくないよ」

 名前が自分の指で涙を拭い、ここで初めてクロと視線を交わした。先程の寂しさは優しい瞳に変わっている。

「今日はクロがいてくれるからね。…奇淋さんや躯さんはスパイだとか言ってたけど…私はそんな風に思ってないよ。…それに、」

 名前がクロの両脇に手を入れ、抱き上げた。名前とクロの鼻先が触れそうだ。

「なんだか…飛影が一緒にいてくれるみたいで。不思議だな…。クロが飛影に似てるからかな?今日、私と出会ってくれてありがとう、クロ」

 名前がここでようやく、満面の笑みを見せた。頬には涙が伝った跡があるが、雫が落ちることは無かった。
 クロの紅い瞳に名前の笑顔が映る。心の内を解き明かし、それが胸の奥にじんわりと浸透すると沸々と熱が湧き上がってくるようだった。
 クロの瞳が閉じられ、首を前に伸ばす。名前の柔らかな唇とクロの口元が確かに触れた。その瞬間、クロの身体が一瞬にして白き光に包まれた。名前はあまりの眩しさに目が眩み、咄嗟にクロを手放し腕で目元を覆った。だが、クロはその場で浮上したまま光を灯し続けている。名前が辛うじて右目を薄ら開けると、クロの身体は徐々に大きくなり始め、次第に人型へと変わってゆく。その背丈や髪型のシルエットが明確になっていくにつれ、光は薄れていった。名前が腕を下す頃には光は眩さを失っていたのだが、既視感のあるそのシルエットに空いた口が塞がらなかった。
 光が完全に消えた頃、目の前に現れたのは飛影だったのだ。

「…えっ。…ひ、えい…?」
「…ようやく元に戻ったようだな」

 鳩が豆鉄砲を食ったような名前を他所に、飛影は指や腕、足を動かして身体を確認している。手元に意識を集中させると熱が生まれ、妖気が集まる事が分かるとようやく満足したようだ。

「随分とシケた面していたな。そんなに俺が恋しかったか?」

 威圧感たっぷりの見下し方をしてくる飛影。顎を掴まれ、無理矢理上を向かされている名前だが、未だ思考が追い付いていないようだった。まさか、クロが本当に飛影だったなんて。今更だが、躯と奇淋があれだけ笑っていたのがようやく合点した。あの二人は、最初から何もかも気付いていたのだ。
 名前は恥ずかしいやら悔しいやら、負の感情が途端に胸を締め付け、顔に熱が生まれた。

「〜っもう!驚かせないでよ!びっくりしたじゃん!!」
「俺だって好きでこんな姿になってたわけじゃない」
「そんなの知らないよ!!…あ〜、恥ずかしい…。さっき話した事、全部忘れて…?」
「あれは名前から勝手に話し始めた事だろう。…まぁ、おかげで少しは楽しめたがな」

 にやり、と飛影の口角が上がる。すると名前の腕をぐい、と引っ張り、そのまま二人でベッドへ沈んだ。きつねにつままれたような表情をする名前を見て「感情が忙しい奴だな」と飛影は茶化すと、彼女の顔は再び耳まで赤く染まった。

「なっ、何する気!?」
「わざわざ説明しないと分からんのか?」
「そっ…それは…そのっ…!ひ、飛影だって竜の子になったら急に散々甘えてきたり、猫撫で声出してたくせに!」
「――ッ!だ、だからなんだと言うんだ!貴様には関係ないだろう!」
「大ありだよ!…あぁ〜もう!思い返すだけでやっぱり恥ずかしい!」
「…そろそろ、そのやかましい口を閉じるんだな」
「…はぁ?」
「元に戻った礼だ。朝まで付き合え」

 名前が反発しようとしたその口は、飛影の唇によって塞がれた。見た目に反し、胸中が酷く高揚している飛影を止める術など皆無に等しい。名前は飛影らしい愛情表現に大人しく身を委ね、注がれる愛で寂しさを埋め尽くそうと決めたのだった。



 翌朝、飛影は名前の自室から廊下へ出ると、反対方向から躯が歩んできた。躯がニヤつきながら飛影へ近づき、二人は対峙した。

「よう。目覚めの気分はどうだ?」
「フン…」
「まぁ、そう気分を損ねるなよ。偶には人外になるのも悪くないんじゃないか?」
「…余計な世話だ。何故さっさと妖術を解かんかった?お前のせいで俺は散々…」
「散々なんだ?名前とイチャつけたって?良かったじゃないか」
「――ッ誰もそんな事言っとらんだろう!」

 飛影の眉根が上がり、瞬く間に頬が紅潮した。予想通りの反応を示すこの男は、変なところで素直だから見ていて面白い。躯は嫌らしくニヤついた顔で「そう怒るなよ」と説得力の無い返答をした。

「今日、名前の仕事を全部お前に振っておいた。一晩サービスしてやったんだ。ちゃんと働けよ?」
「…どういう事だ?」
「名前はどうせしばらくの間、起きてこれねぇだろ?その分お前がカバーしろって話しだ。嫌だって言うなら、もうくだらねえ妖術に引っ掛かるんじゃねぇぞ」

 躯は飛影の肩を軽く叩くと、その場を後にした。…やはり、この上司の方が一枚上手だった。自分の力を過信しすぎた失態とはいえ、まんまと手のひらで転がされているのは否めない。
 飛影は深い溜息をつくと、重い足取りで自分の持ち場へと向かった。







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