シンデレラタイムは空騒ぎ


「…起きたか?」

 ソファーの下で、振り向きざまにコエンマが声を掛けてきた。眠気眼のぼんやりとした意識の中で彼の声が反芻される。起きたか?と問われたという事は、いつの間にか眠ってしまったのであろうか。視界が徐々に鮮明になると同時に身体が温もりで包まれている事に気が付き、もぞもぞと四肢を動かすと柔らかな毛布が触れた。…どうやら予想は当たっていたらしい。

 霊界の仕事が一段落したとコエンマから連絡が入ったのは数日前の事だ。名前も同時期に繁忙期が終わり、ようやく肩の力を抜けるタイミングだったので、二人の都合が合わさるのは最早必然のようなものだった。お互い離れた場所…否、寧ろ生きる世界が違うだけに、簡単に会える距離ではない。ましてや人種だって異なるのだが、共に愛を育んだ二人に堅苦しい説明は不要であり、こうして同じ時間を共有することが何よりの糧となっていた。
 コエンマが名前の元を訪れたのは休日の昼過ぎであった。人間界仕様の青年の姿で、黒のタートルネック、インディゴのデニムパンツ、ブラウンのチェスターコートといった出立ちであった。それらはコエンマが人間界で上手く扮する為に名前が全て用意したものだ。
 名前が玄関先で、喜びと驚きで空いた口が塞がらなかったのは数刻前だ。コエンマの端正な顔立ちや長身痩躯は、正直人間界の男性顔負けであると我が恋人ながら自負している。
 そんなコエンマと肩を並べ、出かける事を心待ちにしていたはずなのに。何故彼が訪れた時、撮り溜めていたドラマを見ていたのだろうか。何故ソファーで横になってしまっていたのだろうか。何故体たらくな自分を咎めたりせず、寧ろ起きるまで待ち、おまけに毛布までかけて気遣ってくれたのだろうか。
 さらには、気が付けば時計の針は四時を過ぎたところを刺している。もはや一日が終わったも同然の時刻だというのに。コエンマの優しさや気遣い、それに追い打ちをかける己の失態。鮮明になった視界や脳内でそれらを再確認した途端、とてつもない罪悪感で押しつぶされそうになった。

 名前がゆっくりと身体を起こすと、改めコエンマと視線が絡む。するとコエンマは眉を下げ、目を伏せながら深い溜息をついた。…嗚呼、やっぱりがっかりさせてしまったのだろう。自分が寝てしまったせいで貴重な時間が無駄になってしまったのだから、これは当然の報いだ。自業自得だ。そんな思いから名前の視線も下へ落ち、いよいよ視界が潤んできた。…その時だった。
 頭をくしゃくしゃと撫でられ、ぐい、と勢いよく上半身が何かに引っ張られた。見やれば、コエンマがいつの間にか自分の隣に座り、彼の腕の中に包まれている。瞠目すると同時に状況が読めず、思わず顔を上げた。

「コエンマ…様?」
「ったく…どうせ余計な事を考えていたのじゃろう?」

 そこにいたのは恋人ではなく、上司としての顔のコエンマだった。名前の表情が一瞬にして緊張が走った瞬間、コエンマの相好が崩れ、口元が緩む。

「名前も頑張っていたのじゃから、こういう日くらいゆっくり休んで良いのだぞ。家に迎えてくれた時、いつもより疲れた顔をしておったから心配だったんじゃ」
「えっ…。私…そんな顔してたんですか…?」
「自分では気付いていなかったのだろう。ワシの前にいる時くらい肩の力を抜け。何べん言ったら分かるんじゃ。全く…手のかかる元部下じゃな」

 コエンマの温情溢れる温かい瞳。身体に伝わる温もり。頭を撫でられ、髪を手櫛で梳かされる心地良さ。まるで五感全てに彼の溢れんばかりの愛が伝わり、それらが空のグラスに注がれて胸の奥がじんわりと熱を持つようだった。
 名前の目頭が熱くなり、先ほどよりも更に視界が潤む。瞬きをし、瞳から一粒涙が零れるとすかさずコエンマの右親指がそれを拭い、頬は彼の両手で優しく包まれた。

「名前、ワシはどんなお前も好きじゃ。いい加減、少しは信用してもらえないかのう?」

 コエンマが困ったように笑う。こんな駆け引き染みた言葉、恐らく確信犯なのだろうけど。それでも彼の言葉を素直に受け止めたいと思い、ようやく名前の口角が上がった。

「…ごめんなさい、コエンマ様」
「素直でよろしい」

 コエンマ、名前の瞼がゆっくりと閉じる。互いの思いが比例すると顔が近付き、瞼が閉じ切った瞬間二人の唇が触れた。数か月ぶりの接吻だった。コエンマが名前の唇を啄むように優しく触れ、その度に彼の熱が伝わる。部屋の中は二人の甘い呼吸で満たされた。
 コエンマが唇の角度を変え、舌の先端で名前の唇を舐めとる。

「…名前、口を開けろ」

 コエンマの囁くような甘く低い声。それに誘われ、名前の口が僅かに開いた。間を割って入るコエンマの舌は瞬く間に名前の舌に触れ、執拗に絡ませてくる。互いの唾液が混じりリップ音にも卑猥さが増してきた。
 コエンマが舌を絡ませる中、頬に添えていた手を名前の耳元へゆっくり移動させ、指先で耳を擦り始めた。名前から曇った声が発せられ、肩が大きく跳ねた。だが、その反応こそコエンマの欲心を刺激し、もう片方の手は名前の胸元へと伸び、膨らみに触れた。

「んっ…あぁっ…!」

 名前の甘い吐息が、塞がれている口元から洩れる。その折、コエンマは名前の上半身を倒し、馬乗りになった。再び名前の唇はコエンマによって塞がれたが、見下ろされている為か先ほどより圧迫感がありたじろいでしまう。だが、耳や胸部への甘い刺激がそれを払拭し、身をよじった。逃がしはしないとでも言うように、コエンマは一旦唇を離すと名前の空いた方の耳へ舌を這う。

「あぁんっ!いやぁっ、あ…!」

 じゅる、とわざと音を立て舌を這うコエンマ。彼のサラリと流れる髪の毛が頬に触れ、くすぐったさを感じる最中、耳に刺激が走る度に身体が震える。そしてリブニットの上から胸を触っていた手は服の中に潜り、下着を潜り抜け直接膨らみに触れた。コエンマの細長い指が柔らかな乳房を包み、揉みしだきながら指先はその先端に触れた。

「ひゃあんっ!だめ、コエンマ様っ…」
「…今更止められん、諦めろ。どれだけ我慢したと思ってるんじゃ」
「そんな…あっあっ!」

 コエンマが上半身を少し起こすと、いよいよ名前の着ているリブニットやキャミソールを捲り上げた。そこに現れたのは豊満な胸と、それを包み支えている白を基調としたブラジャーだ。シンプルなデザインだが、レースがついているので可愛らしさもある。

「全く…身体のラインが出る服なんぞ着よって。名前こそ、そのつもりだったのじゃろう?」
「違います!そんなの言いがかりです!」
「ほう、じゃあ何故ゴミ箱の中にブラジャーのタグが捨ててあったんじゃ?」
「―――ッ!な、何でそれを…!」
「さっき鼻かんだ時にたまたま見えただけじゃ」

 名前の顔に熱が走った。まさか、そんなところを見られていたなんて。一生の不覚だ。
 正直に言うと、コエンマの言う通り先日下着を新調したばかりだった。理由なんてモノはただ一つ。…今日の為だ。恋人同士のいい大人が久方ぶりに会う。子どもではないのだから、そういう事だって期待はしていた。だが、こんな露骨に露呈されるとは予想外であり、突如襲い掛かった羞恥からはすぐ逃れられなかった。
 名前の目が泳ぎ、口を紡いだ。それを見たコエンマは満足気に微笑み、名前の背に手を回す。

「っ!?何してるんですかっ!?」
「答えなくとも分かるじゃろう?」
「待ってください…あ!」

 名前の声に聞く耳を持たぬコエンマはホックを外し、胸元からそれを上にずらした。名前の上半身にひやりとした空気が触れ、思わず両手で膨らみを隠したが、そんなものはお構いなしにコエンマも自ら衣服を脱ぎ始めた。
 程よくついた胸筋、腹筋、そして細すぎない二の腕。己に覆いかぶさるその切れ長の瞳からは男性特有の色香ですらも感じる。洗礼された人間像が目の前にあり、名前は緊張するその反面どこか期待をしていた。
 コエンマが名前の両手を掴み、彼女の顔の横へ置いた。解かれた双方の膨らみが微かに揺れ、右側の先端にコエンマの舌が伸びる。口に含まれ、舌で転がされると、名前からは先ほどよりも甘い嬌声が発され、再び身をよじり逃げようとした。
 いよいよ互いの身体全体に熱が生まれそうな、そんな雰囲気の最中。ソファーの目の前に置いてあったテーブルから規律的な電子音が聞こえ、思わず二人の視線はそちらへ流れた。見やれば、名前のスマートフォンに着信が入り、ライトが点滅している。画面が伏せてあるので、誰からの連絡が分からない。
 …もしかしたら会社で何かトラブルでも起きたのだろうか。そんな不安からか、名前は咄嗟に手を伸ばした。コエンマもまた、己の立場からして名前を止めるつもりは毛頭なく、寧ろ余計な連絡でない事を祈った。
 名前は画面を確認すると、そこには“幽助”と表示されており胸を撫で下ろした。画面をタップし、耳元へ持って行く。

「…もしもし?」
「よぉ!」

 幽助らしい元気な声が聞こえた。

「幽助、どうしたの?」
「名前、今日店来るか?」
「え…何で…?」
「何でって…お前、ここ最近週末になると俺んトコよく来てただろう」

 幽助の言い分は確かにそうだった。繁忙期の真っ只中、週末は食事の準備をする気力も労力も残っておらず、ほぼ毎週幽助の屋台にお世話になっていたのだ。一人暮らしの最中、食事しながら話し相手になってくれる幽助の存在に助けられ、どうにか繁忙期を乗り切れたと言っても過言ではない。だが、今までこうしてわざわざ連絡を入れることはなかったのに、一体どうしたのだろう。それを問うと「いや、それがなぁ〜」と幽助はダルそうな声を出した。

「いつも屋台やってる駅前がよ、水道管の工事してるみたいで店開けねぇんだ。だから今日は別の駅でやろうと思っててな。どうせ仕事帰りの死んだ顔してるような中、ラインしたって見落としそうだと思ってわざわざ電話してやったんだよ」

 俺って優しいだろう?と付け加えた幽助は、恐らく鼻を高くしているに違いない。彼らしい気の回し方に笑みが零れるが、生憎今日は仕事が休みだ。それを伝えると「あ〜…そっか、なんかそんな気がした」と、どこかよそよそしく答える幽助。

「よく分かったね?」
「いや…なんとなく…。…もしかして、今コエンマと一緒か?」
「えっ…。何で…」
「その…なんか、名前の声、いつもよりトーン高いっていうか、なんつーか…」

 幽助が電話越しでモゴモゴと何かを誤魔化すように呟いている。彼の言葉を反芻すると、気のせいか声のトーンというところに引っ掛かりを感じる。…もしかして、今までの雰囲気が声に残っていたのだろうか。いやそんな、まさかそんな事があるわけ…。
 名前の掌がじんわり汗ばむ中、手中にあったスマートフォンは瞬く間に擦り抜かれ、気付けばコエンマが耳元に当てていた。

「おい、幽助。今日の夜ワシも店に行くぞ。駅の地図を送っておけ。いいな?」

 コエンマが少々早口で告げ、通話を切る僅かな秒数の中、画面の向こうで聞こえてきたのは「えっ?コエンマ…」と戸惑う幽助の声だった。名前が唖然とする中、コエンマはスマートフォンを机上に戻すと、己が脱ぎ散らかした衣服を再び着用し始めた。名前がその様子をぽかんと見つめる最中、今度は彼女の服を着せ始める。されるがまま袖に腕を通すと、コエンマはソファーから立ち上がり手櫛で髪を整い始めた。

「名前、今から出かける支度をしろ」
「…は?え?」
「この時間なら…映画の一本くらい見れるじゃろう?」

 コエンマの言葉に、益々目を丸くする他なかった。確かに見てみたい映画はあった。先程見ていたドラマの続編だ。
 だが、それはコエンマではなく、たまたま幽助の屋台でぼたんと一緒になった時に話した事だ。彼に直接伝えた覚えはない。…もしかして、世話焼きなぼたんの事だ。裏で伝えてくれていたのだろうか。
 それにしても、コエンマはどこかピリついた雰囲気を醸し出し、眉根が上がっている。…一体何に怒っているんだ?

「30分で準備しろ」
「いいですけど…。コエンマ様、何で怒ってるんですか…?」
「…。…忙しい中、幽助と会っていたんじゃろう」
「そうですけど…ただラーメン食べに行ってただけですけよ…?」
「〜〜ッ!分かったから、はよ準備せい!あと、ワシは今日完全に人間に化けたいと思っておる。額の文字も、この間みたいに“こんらーしー”とやらで消してくれ!」
「…コンシーラーの事ですか?」
「なっ…なんでもよいじゃろう!いいから早く支度せい!」
「わ、分かりました…!」

 名前が飛び上がり、バタバタと部屋から出ていった。おそらく洗面台に行ってスキンケアを一からやり直すのだろう。数十分間はこちらへ戻ってきまい。その間、抑えきれぬ怒りと熱をどうにかしようとコエンマは眉間に皺を寄せ、腕を組んだのだが指先は忙しなく動いていた。
 …せっかくいい雰囲気だったのに邪魔しよって。それに拍車をかけるよう、脳裏に浮かんだのは先日ぼたんと交わした会話だった。

「…何、今日名前に会ったのか?」
「そうなんですよぉ!私も任務が終わった後幽助の屋台に顔を出したら、たまたま名前ちゃんと会ったんです。名前ちゃん、ここ最近仕事が忙しいみたいで、結構お疲れ気味でしたよ…?」
「そうか…。体調を崩していなきゃいいんじゃが…」
「それなら大丈夫です!幽助がラーメンのトッピングサービスしてくれて、楽しそうに話ししてましたから!食べ終わる頃には名前ちゃんも元気になっていましたよ!」
「…。ほう…、そうか…」
「(あ、しまった…)あっ、そそそ、そういえば、名前ちゃんの好きなドラマ、今度映画化されるみたいですよ!デートする時一緒に行ったらどうですか、コエンマ様!?」
「あぁ、そうだな。…考えておく」
「じゃあ、私は仕事に戻りますね〜ホホホ…」

 今思えば、ぼたんとの会話で怒りが生まれていたのは確かなのだが。今日を迎え、名前の顔を直接見た際、そんな嫉妬心など一瞬にして消え、彼女とどう過ごそうか幸せな悩みを抱えていたのに。望んでいた甘くとろけるような時間は、幽助からの一報で瞬く間に崩れ、忘れかけていた熱が再び沸々と湧き上がってきたのだ。名前の疲労を考慮して今日くらいゆっくり休ませ、映画はまた明日でもいいかと思っていた矢先の事だったからか、どうにかして幽助よりも名前を笑顔にしたい思いが勝った。
 …こうなったら計画は練り直しだ。二人で映画を楽しみ、余韻に浸りながらも幽助の屋台に行って「お前といるよりワシといる名前の方が幸せだろう?」アピールをするという、実に安易で幼稚な案だが、こうでもしないと己の嫉妬心は抑えられそうになかった。
 コエンマは全身鏡の前に立ち、ハンガーにかかったチェスターコートを羽織った。鏡に映る自分をじっと見つめ、そして心中で唱える。
 絶対、ワシの方が良い男だ。…と。

「コエンマ様、お待たせしました…」

 名前が戻ってきた。どうやらスキンケアだけでなく化粧もヘアセットも済ませて来たらしい。先程よりも色づきはっきりとしている目元や仄かに染まる頬、血色の良い唇、艶のある肌、毛先に軽いカールがかかった柔らかい髪、そして仄かに香る女性らしい香水の匂い、更には首元や指先にはアクセントとなるネックレスや指輪。
 毎度ながら女性の化け具合に度肝を抜かれるのだが、素の姿も着飾った姿も、どちらも名前なので比べるような事はしない。
 だが、やはり美しさや可憐さを最大限に発揮する今の姿にコエンマは滅法弱かった。

「…可愛いな」
「本当ですか?!…へへ、嬉しいです」

 名前がはにかむように笑う。コエンマは咄嗟に目を泳がせ、手の甲で口元を隠した。…まずい、危うくにやけるのがバレるところだった。

「じゃあ、今度はコエンマ様の番ですよ。ソファーに座ってください」
「あ、あぁ…」

 コエンマが腰を下し、名前が肌の色に似せたパレットを手にして彼の額に細く小さな筆を走らせている。これも毎度思うが、人間界の女性の凄さを痛感させられる。
 ぼんやりとそんな事を思っている間に、名前の作業が終わった。鏡で確認すると、これで完璧な人間像になったのが目に見えて分かる。

「…そろそろ行くか」
「はい!」

 二人が玄関で靴を履き替え、名前が鍵を用意している最中。「あっ」コエンマが声を上げた。

「…忘れ物でもしたんですか?」
「あぁ。大事なモノを忘れておった」
「え?でも全部鞄に入れたはずですけど…」

 名前が鞄の中身を一瞥した後、見上げた。その瞬間、コエンマが身を屈ませ、名前の唇に己のそれを当ててきたのだ。僅か数秒触れるだけのキスはすぐ終わり、名前が目を丸くする。

「今晩は寝かせんからな。…さ、行こう」

 颯爽とドアを開け、外へ出たコエンマ。その背をぽかんと見つめていた名前だったが、瞬時に現実に戻ると再び頬が紅潮し、してやられた…!と思ったのは否めない。
 急いで鍵を閉めるとその背を追い、隣に着くと指先に温もりを感じた。
 繋がれた手はコエンマのコートのポケットに仕舞われ、絡まる二人の指は秋の冷え冷えとした空気に触れることはなかった。







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