きみの明星にふれる


月夜の青白い光が柔らかい晩の事。寝床につく前のこの時間になると、名前の眉は下がり怪訝な表情になる。
寝間着の帯をしゅるりと外され、肩から背中が露わになった。…ああ、嫌だな。早く終わればいいのに。毎晩同じことを願ってはいるのだが、現実はなかなか難しいものであった。

「良いか、塗るぞ?」
「えー…もうちょっと待って欲しい…」
「駄々をこねるな。子供じゃあるまいし」
「だって嫌なものは嫌なんだもん…」
「いいから、じっとしてろよ」

少々イラついた凍矢の声にはやはり逆らえない。呆気なく根負けした自身の意志の弱さといったら。でも、この男のおかげで一命を取り留められたのだから反論の余地はなかった。
拳を作り、ぎゅっと目を瞑るとようやく覚悟が決まった。
一拍程置くと、背中にひんやりとした感覚が走り、次いではじわじわと刺激されるような沁みが広がる。思わず「ひゃあっ!」と上ずった声が出てしまったが、凍矢の手は止まらなかった。

「おい、毎晩やってるんだからいい加減慣れろ」
「むっ、無理…!だって、いつも言ってるじゃん!この薬、絶対何かおかし、…っ!」
「蔵馬の作った薬に不純なものが入ってるわけないだろう」

名前の言葉に関係なく、淡々と塗り薬を塗布する凍矢は溜息をついた。

以前、崖から落ちた彼女を介抱してはや数か月。格段に下がった妖力と四肢の傷はだいぶ回復したのだが、背中にだけは大きな爪痕が残った。
名前が手合わせした妖怪は大きな剣を巧みに使い、負けじと太刀打ちしたのだが、残念ながら力の格差は埋まらず、不覚にも背中を取られてしまった。強靭な妖気によって袈裟に斬られた背には結果大きな刀傷が残り、こうして毎晩凍矢によって処置してもらっている。
凍矢の仲間には魔界の薬草を使いこなす聡明な妖怪がいるらしく、名前の旨を相談したところ、今回特別に塗り薬を用意してくれたらしい。ただ、この塗り薬というのが少々厄介で、傷に塗布する際はこの独特の沁みに耐えなければならなかった。それだけ傷に効く成分が処方されている証拠なのであり、現に薬を塗り始めた頃に比べれば着実に治ってはきているのだが。
名前にとっては、毎度この地味な痛みと戦うのは正直憂鬱であった。

「…ほら、終わったぞ」
「うん、ありがとう」

凍矢は塗布した薬の上にガーゼをあてがい、包帯を巻く。毎度丁寧に処置してくれるその様は、彼の几帳面さがよく表れているとつくづく思う。
そして凍矢は毎度必ず、腰まで落ちた寝間着を肩まで戻し軽く羽織わせてくれた。名前は「きっと今日もそうなのだろう」と勝手に思い込み、その瞬間を待っていたのだが、いつまで経ってもその時は来ず、背面には夜のひんやりとした空気が触れる一方だった。
名前は不思議に思いゆっくりと振り返ると、そこには己の背中をじっと見つめている凍矢がおり、こちらの視線に気付き一瞥されると、ようやく目が合った。
…気のせいだろうか、凍矢の頬はほんのりと紅潮している。

「…どうしたの?」
「あ、いや…」
「…?」

問うと目を逸らされてしまった。凍矢らしくない、そんな反応をされると余計気になってしまうではないか。
名前が身体を凍矢の方へ向けると、今度はぎょっとした顔をされる。…本当にどうしたというんだ。

「ね、何?なんで黙ってるの?」
「お前なあ…俺がどんな思いで…」
「…何の事?」
「…背中の傷、痛みはどうなんだ?」
「え?…そりゃあ、毎日薬塗ってもらってるからだいぶ痛みは引いたよ。沁みもさっきよりおさまったし」
「…そうか。じゃあ、もういいよな?」
「…はあ?ね、なんの話しして…えっ、」

完全に油断していた。ぐい、と肩を強めに押されるとあっという間に背面は柔らかいシーツの中へ。そしていつの間にか凍矢の腕が名前の背に回り、背面への衝撃を少しでも和らげようとする小さな配慮に気付いたのも、ほんの束の間だった。
薬を塗った直後ではあるが、幸いにも痛みはさほど生じなかった。薬の効能に感動する一方で、改め目の前で起きている現実が不可解で仕方なく、無意識に目を丸くさせてしまう。
自分の顔の横に凍矢が両手をついており、まるで逃がしはしないとでも言うような風貌だ。先ほどの照れたような頬の紅潮は一体どこへやら、爛々とした瞳と視線が絡んだ。
…なんだ、この状況。

「…ね、凍矢。どうしたの?」
「どうしたの?、だと?聞かないと分からんのか?」
「え、…と、な、なんだろう…」
「以前、俺が言った事を覚えているか?」
「…?」
「傷が治ったら、」
「…あ、」

“傷が治ったら、覚悟しろよ?”

確かに、以前言われた事だった。…と、いう事は。今がまさしく、その覚悟する瞬間なのだろうか。いや、でも傷は完治したわけではない。でも、治りかけのようなものだから、やはり彼の中では「もう治ったよな?」と定義づけられているのだろうか。
名前は思案を巡らせ、結局口から洩れたのは「…はい」という生返事だった。この雰囲気で抵抗したとしても、聞き入れてもらえないのは目に見えている。
そして少々冷静になった思考で、ようやく凍矢をまじまじ見やった。忍装束のインナーに程よく引き締まった身体のラインが表れ、横についている二の腕も逞しすぎないバランスの良い筋肉がついている。おまけに顔立ちも普段の冷淡さが更なる拍車をかけ、その表情はまさしくその言葉を放った時とまるで同じだった。所謂、男の顔をしていたのだ。
名前は息を呑んだ。

「そう緊張するな」
「え、だって、こんなの緊張しない方がおかしい…!」
「初めてじゃないだろう?」
「や、そう、だけ、ど…」

ぴくん、と凍矢の眉根が上がる。次いで氷を操るときのような、あの冷たい瞳。そこには、当惑する名前の顔が映っている。
自分で質問し、そのような答えが返ってくるのは目に見えていたのだが。本人の口からそのような返事が来るのは、やはり面白くなかった。
凍矢は少しずつ身を屈め、名前と己の鼻先が触れそうなほどの距離で問うた。

「…比べてみるか?」
「えっ?」

返事を待たずして、名前の口元は凍矢の唇によって塞がれた。
表情や言葉とは裏腹に、優しくついばむように口づけをする凍矢。繰り返しながら角度を変えていくうちに、徐々に舌が出された。名前の唇を舌の先端で軽く舐め回すと、彼女の身体が微かに震える。凍矢は閉じていた目を微かに開け、名前の表情を見やった。
名前はぎゅう、と強く目を閉じ、己の胸元を軽く握るその様は、まるで接吻に耐えているような印象だった。…恐らく緊張しているのだろうが、正直それもまた、面白くない。
凍矢は胸元を掴む名前の手をそうっと解き、そして指を絡めた。名前の掌、指からは凍矢の温もりを感じる。自然と緊張が緩み、僅かではあるが表情も和らいだ。だが、凍矢はその隙を逃しはしなかった。

「…っ!」

思わず名前の目が見開く。一瞬の隙に名前の唇を割り、凍矢の舌が口腔内に入ったのだ。無意識に逃げようとする名前の舌は難なく捕まり、凍矢の舌が執拗に絡ませてくる。顔を背けようにも、先程名前の指と絡んだ凍矢の手はするりと抜け、今度は頭部と頬を包むように置かれた。
唾液の入り混じる音。縦横無尽に動く凍矢の舌。それを感じ取り、またどこかで高揚しつつある己の心。じわじわと身体が疼いてき始めたそんな頃、凍矢はようやく唇を離した。
二人の視線は再び絡み合った。接吻を味わった名前の頬は紅潮し、妖艶な雰囲気を漂わせている。甘美な吐息を漏らすその様に、凍矢の男の性が否応なしに疼く。
凍矢の視線が落ちた。と、同時に名前に首元へ顔を埋め舌を這わせる。

「…ひ、あ!…凍矢っ、」

名前の首筋、鎖骨と、順にちくりとした痛みが下りる。白い肌へ花弁を散らし、その度に小さく嬌声を上げ、身体を震わす。名前が己の注ぐ愛をしかと受け止めている様が嬉しくもあり、そして今まで散々我慢していた興奮は未だ治まらなかった。
次いで名前の身体をうつ伏せにさせ、うなじにかかる髪を上げれば、首筋から肩甲骨にかけて露わになった。華奢な背にあてがうガーゼと包帯が痛々しいのだが、そこを除けば白き肌から再び色香を感じる。
凍矢は名前の肩甲骨の辺りに舌を這わすと「や、あっ!?」と先ほどよりも彼女の身体が大きく跳ねた。「…もしかして」と、再びそれをすると、やはり同じ反応を見せる。凍矢の口角が上がり、名前の耳元へ語り掛けた。

「…なんだ、ここがいいのか?」
「ちっ、違…!」
「ほう。じゃあさっきよりも感度が良くなっているのは何故だ?」
「そんな、の…しら、ないっ!」
「いい加減素直になったらどうだ」
「…っ何で、」
「…?」
「何で今日は、そんなに意地悪するの…?」

名前が振り向きざまに見せた顔。それは、頬が先ほどよりも紅潮しており、目尻には薄ら涙が溜まっていたが、眉根を上げて凍矢を睨みつけていた。おまけに軽く息切れしているその吐息ですら愛おしく感じる。
名前にとっては精一杯の抵抗なのだろうが、どう見ても誘っているとしか、もしくは煽られているとしか、捉えられない。凍矢の身体が再び高揚し、ぞくりとした感覚が全身に走った。

「昔の男と比べてどうだ?」
「え…?」

凍矢の突飛のない質問に、名前の目が丸くなる。そして中程思案を巡らせると閃いたのか、先ほどまで妖艶な雰囲気を出していたのが嘘のように表情は緩み、次いでくすくす笑い始めた。
彼女の反応が予想に反したのか、凍夜の表情は眉間に皺が寄り「何がおかしい?」と不服そうだ。だが、その様子もまた、名前の相好を崩す。

「だって、凍矢…やきもち妬いてくれてるんでしょう?」
「…な、」

意表を突かれた凍矢の動きが止まる。

「心配しなくても大丈夫だよ。私が好きなのは凍矢だけだから」

名前は自ら仰向けになり、凍矢の首元に両手を伸ばす。呆気に取られた凍矢は難なく名前の胸元にすっぽりと収まり、そのまま二人で対峙するよう横になった。
凍矢の目の前には名前の豊満な胸があり、そして後頭部は彼女の手により優しく撫ぜられている。自分が置かれている状況が解せず何度も瞬きをしてしまうが、「だってさー、」と話し始めた名前の声でようやくハッとした。

「こんなにも私の事、面倒見てくれる人を手放すわけないじゃん。昔の事なんて、とっくに忘れちゃったよ。…私は凍矢が隣にいてくれるだけで幸せなんだから」

凍矢が見上げた瞬間、優しく微笑む名前と視線が絡んだ。
…嗚呼、そうだ。俺は名前のこの笑顔を、全てを包み込んでくれるような温かさを、永遠に愛したいと思った。彼女の全てを愛したいが故に、大事にしたいと思う反面ずっと過去の記憶に勝手に嫉妬していたのも、また事実だった。…実に浅はかだ。結局掌で転がされていたのは俺の方だったのだな。

凍矢は名前の腕をするりと抜けると、今度は己の腕を彼女の頭部に回した。片手で腕枕をし、もう片方の手で名前の頬にそうっと触れる。視線が再び絡んだ。

「今回は俺の負けだ」
「…え?」
「…いや、なんでもない。こっちの話しだ」
「何それ。変な凍矢」
「…そんな事いっていいのか?」

凍矢に、含み笑いしながら問われた。それを解した上で、名前は首肯する。

「…いいよ。だって、凍矢だもん」
「じゃあ、覚悟は決まったんだな」
「勿論」

二人揃って口元の両端が上がった。そして惹かれ合うように唇が触れ、瞼を閉じる。
互いの温もりや愛を感じながら、夜は更けていった。







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