眩しすぎる光と闇の渦


「あ、」

 人間って本当に驚いたりする時って、声が出なくなるってよく聞くけれど。どうやら自分の場合は例外らしい。

 気付いたらあまりに間抜けな、誠に素っ頓狂な声が既に出てしまい、対峙している相手もこれまたぽかんとしている。十数年ぶりに見た彼の顔は学生時代の面影も若干残しつつ、その一方で大人びた印象も強かったのだが。己の間抜け面が彼の意表を突いたのか、目を丸くする様はあどけない少年時代を彷彿させるような、実に純粋な瞳をしていた。


 それは本当に偶然だった。
 次の電車が来るまでの間、適当な喫茶店で時間を潰そうと駅前をふらついていたところ、前方左手側にレトロな雰囲気を漂わせる扉とベルが目に入った。駅からの距離も丁度良く、窓越しに店内を見やると雰囲気も良さそうだ。
 目的に見合った店を見つけ、「ここでいいや」という軽い気持ちで中へ入ろうとした。…のだが。ドアノブを握った後、ふと横を見やれば長身な男がこちらをじっと見つめており、その視線に導かれるよう見上げれば、そこでハッとしたのだ。
 名前がほんの小さく声を上げ、次いで出たのは「…仙水くん?」という彼の名。発言した後、人違いだったらどうしようと今更焦ったが、「仙水くん」と呼ばれた男性は目を丸くした後、静かに口角を上げた。

「…名字か?」



 からん、とドアについているベルが高い音を鳴らす。
 案内をする女性店員の目線が、自然と上へ向いた。その様子を見て、長身でスレンダーなこの男はやはりあの仙水なのかと改めて疑問に思うのだが、昔の面影を残している様が何よりの証拠だと己に言い聞かせた。
 店員に促されるまま窓側のソファー席に案内されると、「コーヒーを一つ。名字は?」と仙水に問われ、慌てて「同じものを」と答える。
 店員が注文を取り終えカウンターまで行く背を見守ると、仙水とようやく視線が絡んだ。しばらくぶりに見た仙水は、学生時代から比べると数十センチも背が伸び、褐色肌に黒い衣服がよく似合っている。前髪も上げ、額を出しているところは大人びた印象を与え、理知的な顔つきもまた彼特有の奥ゆかしさを感じた。
 それでも先ほど再会を果たした際に見せたあの瞳だけは、無垢で純真な、あれが彼の正直な心の声といったところなのであろう。目の前にいるこの男の少年時代を、垣間見た瞬間でもあったのかもしれない。

「ここの店はよく来るのか?」

 ぼんやりとした名前を現実に引き戻すよう、仙水は声をかけた。
 店の前で佇むのも何かと思い、勢い余って「一緒に入る?」という、あまりにも突拍子の無い己の言葉により、現在に至るのだが。
 誘ってみたはいいものの、気の利いた言葉なんて一つも出やしない。寧ろ、様変わりした仙水を見つめていた、なんて口が裂けても言えなかったので、ある意味彼からの言葉は助け舟に等しかった。

「あ、いや、…たまたま時間潰しに良さそうだなと思ってきたんだよね」
「そうか。この後も何か予定があるんだな?」
「うん。予定というか、仕事なんだけど…」

 まともに顔を見るのは、やはり気恥ずかしい。久々に再会した喜びや緊張、そして大人になった自分がどう見られているのかという不安。そんな思いが渦となり、名前の視線は自然と落ちた。
 店内に流れるボサノバミュージック、コーヒーを挽く香り、優雅な時間を嗜む客の新聞を捲る音、仕事に追われているであろうサラリーマンのキーボードを叩く様。きっと、ここを取り巻く全ての万物にとっては何ら変わりない日常なのだろうが、我等にとってはこうして顔を合わせ対峙していることが、もはや非日常的だった。
 その非日常の歯車を進めたのは他でもない自分なのだが、いざこうしてみると一体何を話せばよいのやら。会話が途切れ、沈黙がボサノバミュージックの中に溶け込むが、正直言うと心地よいものではなかった。注文したコーヒーも未だ届かず、苦し紛れにお冷を一口喉に流してみたが、喉の渇きは一向に潤さない。
 会話の種も見つからず、嗚呼、一体どうしたものか。手汗を握る力徐々に強まってきた、そんな最中。

「…随分と緊張しているようだな」
「へっ!?…あ、まぁ、うん…」
「名字のそういうところ、昔から変わらないな」
「そう、かな…」
「あぁ、そうさ」

 仙水は目を細めて微笑んだ。この笑い方は、学生時代に見せた彼の笑い方そのものだった。歳を取っても、表情や仕草というものはやはり変わらないらしい。…現に自分もそう言われているわけだし。
 名前は恥ずかしさよりも懐かしむ気持ちが上回り、同時に学生時代の思いを馳せた。

 そう、あれは仙水と共に日直をした日だった。まともに会話を交わしたことのない彼と、放課後学級日誌を書く運びとなり、誰もいない教室で極度の緊張感を味わった事をよく覚えている。寡黙で友人とつるむ姿もあまり見せなかった仙水は、一体どんな人物なのか。それが未知数でどう接してよいか分からなかったのだ。
 あの時もきっと、今と同じように手汗を握っていたに違いない。

「日誌を書いた時も目を泳がせて必死に話題を作ろうと探っていたな」
「え、…そうだっけ?」
「はっきり覚えているさ。…純粋に、嬉しかったからね」
「…ま、」
「ん?」
「まさかぁ…」

 異なるのは、仙水があの時とはなんだか違う雰囲気を漂わせている事だった。相手は久々の再会を果たした、友人…とまではいかない微妙な関係だったクラスメイトなのに。仙水は、こんなに素直に心の内を開けてくれる人だっただろうか。意外な反応が信じがたく、疑いと驚愕が混同して顔が引きつってしまった。
 卒業してから彼は、何やってるだの、どうしてるだの、噂は一切回ってこなかった。そもそも、まともに連絡を取っている奴なんて、果たしていたのだろうか。
しばらく見ない間に仙水は大人としての振る舞いを身に付け、こうして女性の心も射抜く言葉を流暢に出せるまでに様変わりしていたのだ。これを驚かずにいられるか。
 名前が相も変わらず阿呆面を見せる中、ようやくコーヒーが運ばれてきた。香ばしい匂いが鼻を掠め、一口飲むと口内にじんわりとまろやかな苦みが広がる。
 向こう側にいる仙水を一瞥すると、カップをゆっくりと口へ運び、こくんと喉仏を鳴らす その様に、男性らしい魅力を感じた。
 …男性らしい魅力?一体何を言っているんだ、私は。
 久々の再会あるあるの、ちょっとした仕草にドキリとするやつだ。きっとそうだ、うん。
 そう言い聞かせ、それを隠すように己の口から飛び出たのは実に月並みな言葉だった。

「せ、仙水くんは、元気にしてた?」

 名前からの突拍子のない、且つ挨拶代わりの問い。
 仙水はカップを一旦置き、しっかりと前を見据えた。彼の瞳は名前を捉えている。

「…そうだな。元気にしてたよ」
「そ、それなら良かった。私もね、元気だったよ!風邪とか引いてもすぐ治っちゃってさ!生命力だけは昔から変わらないんだよね、ははは…!」
「…そうだな。言うだけの、強い生命力を持っているな。名字は」
「…え?」

 ス、と仙水が指さしたのは名前の後方。振り返ると空席のソファー席があるのみで、誰もいない。
 名前の頭上に疑問符が浮かんだ。

「…あの、仙水くん?」
「名字は家族に愛されているな。君の背後から強い守護の力を感じる。…そうだな。これは…母方の祖母か?俺を警戒している目をしているが、心配するな。取って食ったりせん」
「…ッ!」

 絶句とは、こういう状況で使う言葉なのだろう。
 現に、小さい頃から大人になるまで散々可愛がってもらった母方の祖母は、先月老衰で亡くなったばかりだった。この事はまだ友人にも話していないし、なんなら葬儀だって身内だけで済ませたくらいだ。それを何故、久々に再会した仙水が、祖母が亡くなった事を前提とした話を、ましてやどんな顔をしているだなんて分かるのだろう。
 先ほどとは比べ物にならぬほどの驚愕が襲う。まるで心臓を鷲掴みにされ、息が詰まるほどの緊張が身体中に走った。気付けば額から汗が伝い、頬に流れた。

「ほら、また緊張してる」

 前傾姿勢になって指を組み、そこへ顎を乗せると再び微笑む仙水の笑顔。そこには少年時代を彷彿させるような、あの純真さは既に欠片もなかった。
 深く、重く、何か隠しているような、そんな形容し難いものを感じるのは、きっと気のせいではない。

「そう…かな…」

 ほら、またこの誤魔化すような相槌だ。この話題は避けた方がいいと、本能が訴えている。でも、何を話そう。迷いと焦りで、再び手汗を握る力が強まる。
 その一方、仙水は名前が無意識のうちに警戒の色を強めた事を察し、名前を尻目に視線を窓に向けた。瞳には街を行き交う人々が映っているのだが、目線はどこか遠くを見つめている。

「…俺は名字が思ってるほど、良い奴じゃないよ」
「え…?」

 仙水の言葉に、名前は思わず顔を上げた。彼の視線は未だ窓の方を向いている。

「覚えてないか?俺と一緒に日誌を書いた時言ったろう」
「…そういえば、言ったかもしれない」

 断片的な記憶であったが、名前は再びアルバムを捲るよう過去の記憶を掘り起こした。
 確かあの日は日誌を書くに至るまで、一日中仙水の顔色を窺っていたような気がする。結局、上手い事タイミングを掴めず放課後まで間延びしてしまい、意を決していざ話しかけてみたら意外とすんなり話せたので、拍子抜けしたのを覚えている。
 そして問題となった日誌の件も「これくらい俺がやるからいいよ」と言いくるめられ、なんやかんや日誌は全て仙水が書き上げてくれたのだ。
 そのやりとりを通し、案外気軽に話せた事や、初めて見せてくれた彼の優しい人柄や笑顔に触れられたことが純粋に嬉しかった。
 日誌を提出した後、「仙水くんっていい人だね」と確かに告げ、彼にとってはまたそれが意外だったのか、目を丸くしていたような気がする。

「今の俺は、あの時の俺と同じだよ」
「…え?」
「名字とこうして再会できて、声を掛けてくれた事さ。学生の頃の記憶なんてロクなものじゃなかったけど、俺は名字と話せたあの日の事だけは忘れなかった。…きっと名字の事だ。今も俺の事、久々に再会したにも関わらずこうしてお茶に付き合ってくれる“いい人”だと思っているだろう?」
「それは…まぁ、…」

 否定は、出来なかった。
 先ほど感じた違和感はさておき、総括して話し相手になってくれている仙水を否定なんて出来なかったし、寧ろ同じ思い出を共有できたことが素直に嬉しかったのもある。
 仙水はようやく目線をこちらへ戻し、そして向き合った。

「でも、それも今日限りだ」
「どういう…事?」
「大人になれば色々変わるだろう。…俺は名字が思っている程、“優しくて良い大人”なんかじゃないんだ」
「それは…私だって同じだよ?大人になれば考え方も環境も、色々なものが変わるし、ずっと同じだなんてのは…」
「あぁ。そうだな。…でも、俺から見る名字は、変わらないよ」

 そう話してくれた仙水の表情は微笑んでいるのに、どこか慈悲や寂しさ、憂いを感じるのは気のせいだろうか。
 コーヒーの湯気は、気が付けば上らなくなっていた。そしてゆるりと腰を上げた仙水の動きと同調するよう、コーヒの水面に小さな波紋がいくつも広がる。

「…声を掛けてくれて嬉しかった。ありがとう」

 満足気に微笑む彼から目が離せず、かといって呼び止めてよいものなのか迷いが生じ、名前の右手が中途半端に伸びた。

「仙水くん…」
「ひとつ言っておこう。…近々に引っ越しをした方がいい。この街にはいない方がいいよ」
「…え?」
「そうだな…。蟲寄市から離れて…皿屋敷市はオススメしない。それ以外なら大丈夫だ」
「…なにを、言ってるの?」
「じきに分かるさ」

 意味深な言葉を残し、仙水は伝票を片手にレジへと向かう。名前は慌ててジャケットを羽織り、パソコンや書類がぎっしりと詰まったトートバッグを肩から下げると、ようやく身支度が整った。だが、仙水の後を追おうとレジを見やった頃、既に彼は会計を済ませ店のドアへと進もうとしていた。

「仙水くん!待って…!」

 名前はあたりはばからずパンプスの踵を鳴らし、同じように店の外へ出た。

「あ、…あれ…?」

 四方八方、どこを見ても仙水の姿はなかった。
 …再会出来た喜びは、所詮ぬか喜びに過ぎなかったのだろうか。突如心を占めた虚無感からか、名前の肩は下がった。
 だが、鞄の中から規律的な電子音が聞こえてくると、反射で姿勢が直る。そして無意識に腕時計を見やると、目的の時間へ刻々と近づいていた。秒針が進む微かな音は、今を確かに刻んでいる。まるで厳しい現実に引き戻されたような気分だ。
 懐かしき記憶を名残惜しむ余韻ですらも与えてもらえない、虚しさだけが残った。
 名前は嘆息をつくと、鞄からスマートフォンを出し、画面をタップして耳元に当てた。

「もしもし、名字ですが…はい、お世話になっております。…ええ、はい、今日の件ですね。はい、…これから向かおうとしていまして、」

 立ち止まっている暇は、ない。
 仙水との再会は僅かな時間であったが、毎日目まぐるしく回る日常にスパイスを加えたような、特別感があった。
 …次は、いつ会えるだろうか。いや、もしかしたらそんな可能性自体存在するのかも分からないのだが。
 日誌を書き上げると見せてくれたあの笑顔と、また再会出来る日が来ることを願い、名前は駅の方へと歩み始めた。



「…随分と機嫌が良いな」
「そうか?気のせいだろう」
「いや、違うね」
「…気のせい、さ」

 仙水はマンションのベランダから街並みを見つめていた。
 後方から問う樹の言葉に答えるが、目線は変わらない。

「少し…決心が鈍っただけさ。…それでも、今更やめる気はないがね」
「…好きな女でも出来たか?」
「ははっ。まさか」

 そんなわけ、ないだろう。
 まるで自分の思いを隠すように。見なかったことにするように。初めからそんな感情なんて存在しなかったかのように。
 仙水は目を細めた。…街を行き交う人々の中に、彼女もいるのだろうか。この腐り切った世界を…人間界を壊そうと、決心したと言うのに。
 偶然なのか神様のとやらの導きなのか。心の奥深くに眠る純真無垢な記憶が目を覚ましたような感覚になった。だが、ここに戻ればすぐさま漆黒の闇がその心を染め、逃がしはしないと堕天使の羽が包む。

“仙水くんって、いい人だね”

 あの日見せた彼女の言葉。緊張しながらも向き合ってくれた姿勢。淡い記憶に触れられた今日の事。
 …もう、自分には必要ない。

「…そろそろ行こうか、樹」

 振り返った仙水の表情は釈然としていた。瞳に翳りは無かった。







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