勝ち逃げの美学


 それは、とある日のお風呂上りの事だった。

 濡れた髪を櫛で梳かし、ヘアミルクをつけてドライヤーをする。これが毎日の習慣。ドライヤーの唸るような音、そして温風共に髪が靡かれ、しばらくすると水気はだいぶなくなってきた。仕上げに再度櫛を通しヘアオイルを馴染ませれば完璧だ。
 オイルで照っている掌を洗い、ようやくリビングへ戻ろうとしたちょうどその頃。浴室の扉が開かれ、棚からバスタオルを取り、無造作に身体を拭く幽助が現れた。彼の裸体は今まで何度も目にしているので、付き合いたての初々しさのように直視出来ない、なんてことは当の昔に過ぎ去った。だが、相変わらず鍛え抜かれているその逞しい身体はやはり魅力的であり、何度もまじまじと見てしまう。あれ、もしかしてまた上腕二頭筋が大きくなった…?なんて疑問が名前の脳裏に過った、そんな時。

「きゃー、えっちー!」
「…馬鹿じゃないの」

 いつものおちゃらけた、人を苛立たせる満面の笑顔で言い放った幽助に、名前は心底呆れた。そうだ、こいつは身体は逞しくとも、脳みそも筋肉で出来ているような奴だった。
 未だに「相変わらず俺のダイナマイトボディにメロメロなんだろ〜?」なんて鼻を高くしている幽助を尻目に、さっさと脱衣所を後にした。

「おい、なんだよ。つれねーのな。いっつも俺の腕にひっついて寝てるくせによ」
「それはそれ、これはこれ!いいから早くパンツ履いてよ!」
「へーへー、分かりましたよっと」

 腰にバスタオルを巻いた幽助が後ろでブツブツ文句を唱えているが、知ったこっちゃない。相手にするのがもはや馬鹿馬鹿しい。
 名前はソファーに腰掛けるとテレビをつけた。時刻はとうに午前様だ。そのためか、深夜番組特有のコアな企画が画面上に流れている。お笑い芸人がふざけたド下ネタを連発しては、ゲストのタレントが苦笑いしているような、茶番劇だった。…どいつも、こいつも。頭の中はそんな事ばかりか。名前のこめかみには若干の青筋が浮かび始めた。

 …そんな最中、幽助はようやく下着と寝間着を召した。と、いっても上半身はまだ裸なのだが。
次いで冷蔵庫から出した缶ビールを一気に喉に流し込むと、たまらない爽快感が身体を潤す。そして濡れた髪をガシガシとバスタオルで拭いていると、ふと名前の後ろ髪に目がいった。
 乾かしたばかりの、オイルが馴染んだその髪の毛は艶があり、思わず触りたくなるような後ろ姿だった。幽助はその髪に導かれるよう、自然と手が伸びた。そして右の掌で名前の首根っこにかかる髪に触れると。

「ひ、ぁ!!…な、何!?」
「や、髪綺麗だと思って。…なんかすげーいい匂いするし」
「もう、びっくりさせないでよ…!ヘアオイルとヘアミルク、変えてみたの。静流さんのお墨付きだから、間違いないやつだよ」
「へえ。…俺、この匂い、すげー好きかも」

 名前の身体を後ろからふわりと抱きしめた幽助は、彼女の首元に顔を埋めた。鼻を掠めるのはホワイトフローラルの甘い香り。すん、と嗅げばその匂いに癒され、所謂女子の匂いってやつなのかな、と幽助はふと思う。

「はー、まじでいい匂い…ずっと嗅いでいられる」
「じゃあ、幽助も使ってみる?」
「…は?」

 何故、そうなる?と幽助の眉がピクリと上がった時には、既に遅かった。
 先ほどの仏頂面はどこへやら。目を爛々と輝かせ、名前は脱衣所からヘアミルク、オイル、そしてドライヤーを手にして来た。そして促されるまま、今度は幽助がソファーに座らされる。
 そして早速ヘアミルクを掌に取った名前は、幽助の髪を手櫛で梳かしながらそれを馴染ませ始めた。…おいおい、俺もそれ、使うのか?なんて発言は許される雰囲気ではない。名前にされるがまま、幽助は身を預けた。

「これね、つける前と後じゃ髪の状態、全然違うんだよ」
「…そんなクリームで変わるモンなのか?」
「まー見てなさいって」

 少々ドヤる名前の表情は、至って楽しそうだった。
 ヘアミルクが馴染ませられ、次いでドライヤーの温風が幽助の髪を靡かせる。乾かし方も静流から習ったと言う名前の手つきや、ドライヤーと頭皮の距離感は、美容師さながらのもののようだ。…と言っても、お互いど素人なので、なんちゃって感は否めないのだが。
 それにしても、他人に…いや、愛する名前から髪を手櫛で梳かされ、心地よい距離感で温風を当てられるのも悪くない。頭皮から毛先まで何度も指が通される度に、幽助はまどろみに浸かりそうになった。
 …これ、なんだかドハマりしそうな気がする。日常を送る上で新たな楽しみが増えそうな、そんな予感がした。
 しばらくするとドライヤーが終わり、仕上げに少量のヘアオイルが幽助の髪に馴染ませられた。それは、幽助にとってはある意味至福の時間が終わってしまったことを表し、なんだか名残惜しい気分になった。

「はい、終わったよ」
「え、もう終わり?」
「うん。髪、触ってみて?さっきと全然違うと思うよ」
「…お、まじだ。すげぇ…」

 髪の指通りがいつもと全く違う。そしてふわりと鼻を掠めるのは、先ほど名前の髪から漂ったあの甘い香り。…女子っていつもこんな面倒くさい事をしているのか、と思う一方で、これだけ変化があれば確かに美容に力を入れるのもちょっと分かるかもしれない。 幽助は前髪や後ろ髪を指で触っている最中、頭の片隅でそんな事を考えていた。その様子をじっと見ていた名前の視線に気付き、幽助の手は一旦止まる。

「…?なんだよ?」
「私さ、幽助の前髪下ろしてるところ、結構好きなんだよね」
「…あぁ?」
「いつもはさ、前髪上げてツンケンしてるように見えるけど。前髪あると、子どもがそのまま大人になったみたいで、可愛く見えちゃって」
「お前、俺の事おちょくってんのか?」
「そんなつもり、全然ないけど?」

 とぼけたように舌を出した名前は、きっと確信犯だろう。恐らく髪を乾かしているうちに母性が奮い立ったとしか思えない。でなきゃ、子どもみたいに可愛いって…成人した男に向かってそりゃないだろう。
 名前の気付かぬところで、幽助のこめかみに青筋がひとつ出来た。

「…ほぉ。じゃあその前髪が下りた可愛い坊ちゃんから、愛しいハニーにお礼しなきゃな?」
「え、」

 ソファーから立ち上がった幽助は名前の身体をあっという間に横抱きにし、そのまま寝室へ。そして無造作にベッドの上に二人で寝ころび、名前が起き上がる前に幽助が馬乗りすると。

「優しいのと、激しいの、どっちがいい?」
「ばっ…!何言ってんの!!?」
「いいから早く選べよ。でなきゃ勝手におっぱじめるぞ」
「いや、意味わかんないって!何でそうなるの!?」
「名前の髪の匂いが好き過ぎて、ムラムラした。以上」
「…!もう、信じられない…!!」

 顔を真っ赤にして視線を背けるのは、名前の承諾のサインだ。本人は無意識でやっているのだろうが、毎度毎度同じ反応を見ているこちらからすると、この答えが出るのは当に目に見えていたわけであって。
 名前の耳元に顔を埋めた幽助は、改めて匂いを堪能する。そして、名前の耳元で呟いた。

「…今日は寝かせねーからな?」
「…!」

 完全にスイッチが入った幽助を止める術など、きっとないだろう。
 白旗を上げた名前の瞼が静かに降りる。それを合図に、幽助はそっと名前に口づけをした。さらりとした幽助の前髪が名前の額に落ち、次いでふわりと香る自身と同じ匂い。

 …あぁ、確かに悪くないかもしれない。甘い匂いと共に堕ちてゆく感覚だけが残った。







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