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 あ、名前、いた。少し掠れたその声に名前を呼ばれると、何だか心臓の辺りが落ち着かなくて、そこがふっと持ち上がって身体ごと宙に浮いてしまったような感じがするのだ。この感覚ばかりはいつまで経っても変わらず、慣れなくて、未だにいつも、少しだけ気持ち悪いなあと思っている。同時に、胸の真ん中にすっきりしない心が生まれる。今すぐ解き明かしてほしい、この心の意味を知って、一緒に切なくなったりしてほしいと、もうもどかしくて仕方なくなる。だから急いで振り向く。振り向いたら少し恥ずかしくもなって、この身体も、いっそ心まで、飛んでいってしまいそうになる。本当に不思議だ。謎に包まれている。この心の名前。

「八左ヱ門。どうしたの?」
「うん。いいもん見せてやるから、来いよ」
「いいもん?」
「いいもん。ほら早く」

 急かす声はわくわくとしていて、居ても立ってもいられないから早く、と言わんばかりだ。八左ヱ門は優しいけどいつも少しだけ強引で、肉刺が出来て固くなった大きな手の平はもう私の腕を引っ張っていこうとしている。いつも手を繋ぐより手首を引っ掴んだりする方が早いのだから、女心なんて少しも分かってないなと思う。腕、強く掴まれたら痛いよ。私がそう言うと八左ヱ門は決まりが悪そうに「ごめん」と小さく謝って、とても脆いものを触るような仕草で、そっと優しく私の手の平を握ってくれた。

 八左ヱ門に手を引かれて向かった先は、生物委員会が管轄する飼育小屋の内、特に狭いものの一つだった。湿った土の匂いがして落ち着く。私も八左ヱ門もここがとても好きだった。毒を持った生物ばかり飼育しているせいか一般生徒はそうそう近付こうとしないけど、辺りが木陰になっていて涼しいし、それから何と言っても静かだから良かった。ここで八左ヱ門と二人、とりとめもない話をいつまでも語っていられるのならそれは何て素敵なことだろうと、私はよく考える。「待ってろ」、八左ヱ門は飛ぶように飼育小屋の中へ駆けていって、戻ってきた時にはその腕の中に小さな包みのようなものを大事そうに抱えていた。

「見てみ。あ、寝てるからそっとな」
「寝てる? なぁに?」
「有毒生物じゃねぇから平気」

 促されるまま、丸まった白い布地の中身を覗き込む。何か、ふわふわしたものが見える。白くって、二つの耳があって、尾っぽが長い。

「……子猫だ!」
「可愛いだろ?」
「うん、すごく。すごく可愛いよ、この子どうしたの?」
「生まれたばっかりでな、目ぇ覚ます前に母猫のところに戻してやらねぇと。うちで飼ってるんだ」
「そっかぁ〜、へぇ〜、ふわふわだー」
「……俺の話なんかどうでもいいと思ってるだろ……」

 ぶつぶつ言う八左ヱ門から子猫を受け取って、腕に抱かせてもらう。いっそ頼りなげなくらい軟らかく、力を入れすぎたら抱き潰してしまいそうだった。恐る恐る触れると、ぷすう、と空気の抜けるような音をさせて鼻を鳴らすのだった。たったそれだけのことが可笑しくて、わけもなく八左ヱ門の顔を見上げれば彼もまた口元の笑みを抑えきれない様子だった。

「腹いっぱいなんだろうな。食っちゃ寝だ。将来デブになるぞ、こいつ」
「そっちのがいいよ。寝る子は育つって言うし、ご飯もいっぱい食べた方が丈夫に育つでしょ」
「だな」

 微かな重みとあたたかさに頬を緩めていると、子猫を撫でている私の手と同じように、出来うる限り精一杯優しく、これ以上ないくらい慎重に、八左ヱ門が私の頭を撫でるから驚いた。途端に落ち着かない気持ちになる。安心した気持ちがこれっぽっちもなくなる。だけどとても嬉しくなる。私が子猫に触れる手、八左ヱ門が私に触れる手、どちらももう笑ってしまうほどわざとらしくて、「(私達は一体何をしているのだろう?)」という奇妙な感覚に陥っていた。

「生まれたての命って俺、好きだ」

 私の髪の表面をさらさらと撫でながら、八左ヱ門が言う。つむじの辺りを行ったり来たりしている大きな手に、低い声で形になる「すき」というたった二文字は、いつも不思議な力を持っているなと私は考える。たとえば空を飛ぶ忍術があったとしてもそれよりもずっと強力で、私の心を浮かす。

「だから一番に名前に見せたくなった。そういうのって、何か良くねぇ?」
「うん。いいと思う、だからね」
「うん?」
「今度は私の好きなものも、八左ヱ門に見せるね」

 八左ヱ門が私に少しでもどきりとしてくれるのを望んで、わざと小さな声で囁いたその言葉の、何と尊いことかと思った。腕の中の白いかたまりも、誰かに好きだと言ってもらえる力のある事柄すべてが切ないくらい尊い。とても良いものなのに長続きはしそうにない、すぐに潰えてしまいそう、だからいつも落ち着きなく触れていたくて、私達は、子猫の小さな丸い背の上で手と手を重ね合わせた。好きなものを共有出来るってやっぱりとても素敵だ。だけどもうとっくに、いつもいつも絶え間なく、私達が尊い「すき」を共有し合っていたのには気が付いている。触れ合うたび、名前を呼ばれるたび宙に浮くこの心の名前は二文字だ。


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