「どうして逃げるんだ」


 神様、私は今絶体絶命の大ピンチとやらに見舞われています。目の前には息を切らせて真剣な瞳で私を見つめるフィディオ。後ろには冷たい無機質な壁。

 ひくりと頬が引きつった。逃げ場が、ない。

 ああ、神様、どうしてあなたは私にこんな試練を与えたのでしょうか。それとも、もう諦めろということでしょうか。


 フィディオに「キスをしたい」と言われたのはつい最近のことだ。唐突なその申し出を最初は幻聴だと思っていたのだが、それは幻聴ではなかったようで。その日以来、私とフィディオは会うたびに追いかけっこを繰り返していた。もちろん私は逃げるほうで、フィディオは私を追いかけるほうだ。

 私より足の速いフィディオに今日の今日まで捕まらなかったのは運が良かったからだと知っていたけれど、少しだけ悔しい。その証拠に捕まってしまった今も、逃げる方法を考えている自分がいる。

「ナマエ」
「わああ!ストップ、ストップ!」

 フィディオの顔がゆっくりと私の顔に重なろうとしたので、手でフィディオの肩をぐいぐいと押し返す。するとフィディオはむっと顔を顰めた。そんな顔をしたいのは私の方なのに。付き合っているというわけでもないのに、いきなりキスをしたいと言われて納得できるわけがない。


「フィディオは好きでもなんでもない子とキスするの?」
「なに言ってるんだ。するわけないだろ」


 きっぱりとフィディオはそう答えた。予想外の回答に首を傾げる。てっきり冗談だよ、と言って笑うと思ったのに。じゃあ、フィディオはどうして私にキスをしたいなんて言ったのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、フィディオが私の手首を掴んだ。


「好きだ」
「え?」
「ナマエのことが好きだ」
「…へ?」
「出来るだけナマエと一緒にいたいって思うし、ナマエがマルコたちと話してるだけでももやもやする、触りたいとも思う、それくらい好きなんだ」
「…つまり、フィディオは私のことが好きってこと?」
「だから何度もそう言ってるじゃないか」


 …いや、初めて聞きましたが?

 じっとフィディオを見つめると、フィディオはかあっと頬を赤く染めて私から顔を逸らした。さっきまで散々私を追いかけていたフィディオのそんな初々しい反応に、こちらまで恥ずかしくなってしまって頬がじんわりと熱くなる。一体私はどうしてしまったのだろうか。

 私の手首を掴むフィディオの手のひらの体温が熱い。離してほしいのに、離してほしくないなんて、こんな感情矛盾している。今までこんなに何かを考えられなくなったことはない。


 フィディオは、彼は、私のことが好き。


「えええ、う、うそ」
「本当だよ」


 頭の中がごちゃごちゃになって、もう何も考えられない。ただ、目の前のフィディオを頬を赤くしたまま見つめることしか出来ない。
 ああ、じんわりと染み出すようなこの温かい感情の正体がわからない。いや、本当は知っている。気付いてしまえば、もう戻れないこの感情。これは、きっと。


「ナマエ、キスしてもいい?」


そう言って少し恥ずかしそうに微笑んだフィディオを前に、私は諦めてゆっくりと瞳を閉じた。



1025/愛を動詞として
紫音さま
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