「名前、あっち見て」
「何?」
「井浦くんがいるよ」
休み時間に友人に手招きをされて窓から運動場を眺めると、次の授業は体育なのか、隣の組の男子たちの姿が見えた。あれ、と友人が指をさした先にいたのは井浦くん。彼は石川くんにちょっかいを出しているように見える。そして、彼の後ろをのろのろとついて行く宮村くんと生徒会長。
声は聞こえないけれど、井浦くんは明るく彼らに話しかけていて、
(羨ましいな)
そして、私は今日も彼らに嫉妬する。
四ヶ月ほど前のことだろうか。委員会が長引いて一人教室に入ったとき、なぜかクラスも違うのに私のクラスの教室にいた井浦くんに付き合ってくださいと言われた。私はいきなりの告白にわけもわからず頷いて、付き合うことになってしまったのだ。
彼はどちらかと言えばクールなほうで、落ち着いていて、一緒に帰るときはいつも道路側を歩いてくれる。会話はあまり続かなくて、井浦くんは余り笑わないけれど、黙って彼の肩にもたれるだけでも私の心は温かくなった。彼のヘッドフォンから漏れる音楽の音に耳を傾ける時間も好きだ。
だけど、ある日廊下で騒いでいる彼を見かけたときのことだった。
「宮村ー!逃げるな!」
「井浦くんお願いだからセーターめくらないで!」
「井浦頑張れー」
「氷の女王の激励…!」
「いや本当やめて!」
あんなに楽しそうに笑う井浦くんを見るのは初めてで、私は声を掛けようと伸ばしかけていた手を降ろした。そして、彼に気付かれないようにその場から走り去ってしまった。
あんな風に笑うんだ、なんて。あの日まで知らなかった。
「名前、帰ろう」
「…うん」
委員会が長引いた私を井浦くんは私のクラスの教室で待ってくれていた。
「ありがとう」と言うと、井浦くんはふわりと穏やかな笑みを浮かべる。それに私は曖昧に笑って返す。そして、なるべく井浦くんと目を合わさないように顔を俯かせた。
私といても、井浦くんは楽しくないんだろう。そんなことを思ってしまう自分がいて、どうしたらいいのかわからない。そのまま教室を出ようとしたときだった。
井浦くんが私の手を掴んだのだ。
「え」
「どうかした?」
そのまま手を引っ張られて、彼に向き合わされる。
驚いて顔を上げるとそこには心配そうな表情の井浦くんがいて、思わず顔を逸らしてしまった。手を離してほしくて手に力を入れるが、彼は離そうとせずに「どうしたの」と言った。少し、怒ったような声だ。
「何でも、ないよ」
咄嗟に出た言葉は嘘。本当は聞きたいことがたくさんある。
私と一緒にいて楽しい?
だから、ねぇ、離して。離してくれないと今にも涙が出そうだった。好きだと言われて自惚れていた結果がこれだ。私はもう井浦くんが好きで、離れがたく思っている。すると、頬に手が添えられた。
「嘘」
真剣な声で井浦くんがそう言った。一瞬何が起こったのかわからなくてきょとんとしてしまったが、ぶわりと涙が溢れて、視界が滲んだ。目の前にいる井浦くんの表情までもが滲んでしまって見えない。
「だ、だって、井浦くん、が」
口が震えて上手く声が出ない。
嗚咽を我慢しようとするほど、嗚咽が漏れそうになって口を噤んだ。頬を涙が伝うのがわかる。
「井浦くんが…!」
「うん」
「…井浦くんが、笑ってくれないのが、寂しい、よ」
井浦くんは悪くない。私が一人で不安になっているだけ。
それなのに、井浦くんは優しく私の涙を拭ってくれた。嗚咽混じりの聞き取りにくい言葉は彼に伝わるだろうか。
放課後の教室に夕日が差し込んで視界がオレンジ色に染まる。目の前にいる井浦くんは驚いたように目を見開いて、私の両頬に手を添えた。
「ごめん。不安にさせてた」
悲しそうな、悔しそうな声。そして、そのまま両腕でぎゅっと抱きしめられる。
「名前、泣かないで」
「う、ん」
「俺は、ちゃんと名前のことが好きだ」
「…うん」
「名前」
井浦くんはまだ泣きやまない私の頭を撫でて、頬に唇を落とした。
名前と一緒にいられることが幸せで、嬉しくて、あったかくて、だけど上手く表せないんだ、と井浦くんは言った。
彼の手は暖かくて、さっきまで泣いていた私の冷えた手を温めてくれる。私こそ些細なことでこんなに泣いてごめんなさいと謝る。赤く腫れているであろう目を隠すように伏せたが、また両手を頬に添えて向き合わされる。か細い声で見ないでほしいと言ったが彼はふわりと微笑んだだけだ。
私の彼氏である井浦秀くんはどちらかと言えばクールなほうで、落ち着いていて、一緒に帰るときはいつも道路側を歩いてくれる。会話はあまり続かないけれど、黙って彼の肩にもたれるだけでも私の心は温かくなる。
そして、ふわりと優しく微笑んでくれる彼の笑顔が好きだ。
0710/輝く世界の中で
ゆまさま