高緑2 | ナノ


じんわりとした暑さの中で目が覚めて、高尾は思わず顔を顰めた。窓から漏れる光は明るくまばゆい。時計を見るともう昼に近く、高尾はまず枕元にある携帯を開いた。メルマガをぼんやり見ながら、ああクーラータイマーつけて寝たっけ、と自分の行動を思い出す。昨日の夜はすこし涼しかったーーそれでも暑いものは暑かったのだがーーので、タイマーでいいと判断したのだ。起きてみたら茹だるような暑さだった訳だが。
室内でこれなら外はもっと暑いだろう。この時期は部活がないので安心してこんな時間まで寝ていられたが、また部活が始まれば炎天下をまたあのエース様専用送迎車で走ることになるのだろう。曰く人事を尽くしている緑間が繰り出す手に勝てたことは一度もなかったので、高尾の脳内にはもう自分がサドルに跨っている図しか浮かばないのだった。
のそのそ携帯を手にリビングに降りていく。妹におはようと言えば、遅起きだと叱られてしまった。はは、と苦笑して、高尾は妹の手元を覗きこむ。どうやら夏休みの宿題をやっているようで、懐かしさがこみあげる問題集はもう最後のページに近づいている。この調子だと今日中に終わってしまいそうだ。聞けば残っている宿題はそれだけだそうで、妹のしっかりさに感動したのだがーー高尾は次の瞬間素早くカレンダーに視線をやった。そして自分の感覚より進んでいる日付と課題の山を見て、とんでもない速さでメールを送信した。


いつ見ても広々とした品のある家だ。自分の家と比べてすこし悲しい気持ちになりつつ、高尾はインターホンを鳴らした。すると、扉がゆっくりと開き、整った顔を歪ませた緑間が姿を現す。

「おっはよー真ちゃん、お邪魔しまっす」
「今はもう昼だ。そして勝手に入るな!」
「なんでよ。ちゃんとメール送ったっしょ?今から真ちゃんち行くって」
「俺はそれに返信をしていないのだよ」
「つまりダメとも言ってないんだろ?」

高尾がにやりと笑えば、緑間はそれに反論できず、しかし納得できないと言うように睨んでくる。高尾はそれを見ないふりして歩みを進め、緑間家に上がりこんだ。
ーーだいたい中からいくらでも俺の姿は見えるんだから、ホントに嫌だったら扉開けないっしょ。
素直じゃない緑間に笑いながら、高尾は今すぐ抱き締めたい気持ちを何とか抑えて緑間の部屋に向かった。

緑間の部屋は広い。もともとの面積もそうだが、物のなさがそれに拍車をかけているんじゃないかと思う。男子高校生の部屋とは思えないほどシンプルな光景を見て、やっぱり面白いと高尾は笑いを噛み殺した。いつもならここで盛大に笑うのだが、今日は大事な目的があるのだ。爆笑なんてしたら緑間の機嫌を損ねてしまう。
テーブルに載ったワークに視線を落とす。自分にも配られたものだ。高尾は開いただけで頭が痛くなりすぐに放置したが、緑間は順調に進めているのだろう。

「なあ真ちゃん、これどんだけ進んだ?」
ワークを指差し高尾は問いかける。緑間は眼鏡を上げ、「もう全部終わらせたが」と淡々と返した。
「え、全部って、全部!?」
ありえないことではない。緑間の頭ならすらすらと解いていける問題ばかりだろう。
「そう言っているのだよ」
「あー…あれっしょ真ちゃん七月で全部終わらせちゃいますって感じの人でしょ」
「溜め込んだところでメリットが無いからな」

そう言われてしまえばおしまいなのだが、高尾はデメリットだらけでも課題を溜め込む人種なのでどうしようもない。というか世の中、そういった人間の方が明らかに多い気もする。まあ大多数から飛び出ているこの変人にはそんな理屈通用しないのだろうけど。

「じゃあちょうどよかった!」
「何がなのだよ」
「勉強教えてよ真ちゃん」

語尾にハートをつけるような調子で言えば、緑間は汚いものを見るような目で高尾を見た。

「ちょ、何その顔傷付く」
「お前はそう言って課題を俺にやらせる気だろう」
「えっ何でばれたの」
「中学にもそういう奴がいたのだよ」

はあ、と溜息をついてまた眼鏡を上げる。キセキの世代だろうか、あの中で勉強できなさそうなのは青峰あたりかな、と想像していたら、高尾、と名前を呼ばれて体を跳ねさせた。

「へっ?何?」
「…どうせ断ってもしつこく言ってくるのだろう。…教えるだけならしてやらんこともない」
「え!?マジ!?やった真ちゃん大好き!」

若干俯きながらそう告げた緑間に感極まって抱きつけば、離れるのだよ!と抗議の声が上がる。だが無理矢理剥がしたりしないのを見ると、やっぱり素直じゃない。このまま勢いで押し倒したいがカレンダーの日付を見てはっと我に返った。今はぐっと堪えて課題を片付けないといけないのだ。
高尾は渋々緑間から離れ、持ってきた課題を鞄から取り出した。

高尾は頭がいい訳ではないがめちゃくちゃ悪い訳でもない。要するに中の下ぐらいだが、意味不明な文字列が並ぶ問題を見れば脳が考えることを放棄する。五秒ぐらい問題を見つめてから真ちゃん教えて、と助けを求めてもう何度目か分からない。そしてその度緑間の眉間の皺が深くなっていく。

「これはさっき教えた問題と同じパターンのものだろう!」
「わかんないものはわかんないんだって!」
「お前の頭はどうなっているのだよ…」

緑間がぐったりしながら麦茶の入ったグラスに口をつける。あ、それ俺のかも、と高尾は一瞬思ったが、悪い気はしないというかむしろ嬉しいので何も言わないでおく。
遠くに鳴り響く蝉の声、カーテンに遮られた日差し。クーラーの設定温度は高尾の家より一、二度高い。夏のにおいを感じながら氷が麦茶の中に溶けていくのをぼうっと見ていたら、緑間がいつもより低い声で高尾、と呼んだので慌てて緑間の方を向いた。緑間が紡ぐ言葉は耳にするりと入って、そして通り抜けていってしまう。緑間の教え方が下手な訳ではないが、恋人と二人きりというのはいろいろ昂ぶるものがあるというか、何というか。
高尾のつり目は問題ではなく緑間に惜しみなく視線を注いでいて、あーやっぱ綺麗な顔してるなあなんて今更ながらに思って。気づけば緑間の顔が下にあった。

「っ…た、高尾!」
「ごめん、もう無理。真ちゃんかわいすぎてなんかもう脳が働いてくんないわ」
「勉強を教えろと言ったのはお前だろう!」
「うん、ごめんね。後でまた教えて」
「ふざけ…っ!」

身じろぐ体を押さえつけて、文句を吐く唇を塞げば緑間の顔が蕩けていく。いつものツンとした綺麗な顔がそうなるのが高尾は好きで仕方ない。ああ、もう、我慢の限界だ。放置された課題を横目に見ながら、明日から頑張ろうなんて甘ったるい考えを浮かべて、高尾はもう一回緑間の唇に噛みつくようにキスをした。