拓人と京介 | ナノ



雨が降ると、海の中でゆるく溺れているような感覚に陥る。だれにも言ったことはなかったけれど、この季節、湿った空気と土砂降りの雨に包まれると拓人はひどく息苦しくなった。友人に雨がきらいだと言うと大抵は自分もだと賛同してくれるが、たぶん自分と同じ理由ではないだろうと分かっていたので、拓人は曖昧に笑うだけだった。

今日も雨だった。ついでに言うと、昨日もその前もそうだった。帰り道、傘を差しても横から自分を襲う雨が濡らすので意味が無い。びしょ濡れの黒い傘を閉じれば、髪の毛に降りかかる雨粒。またメイドたちに叱られてしまうと思った拓人は、雨宿りできるところを探そうと周りを見回した。公園がある。休憩所のようなこじんまりとしたところに急いで入った。鞄からタオルを取り出して髪を拭く。ああ、雨はすきじゃない。
いつも一緒に帰っている霧野が出していない課題があったので居残りとなり、じゃあ霧野を待とうとしたところでピアノのレッスン日だったことを思い出して、ひとりで帰る羽目になった。学校を出た時はまだ雨は降ってなかったのに、途中からバケツをひっくり返したような雨が傘にばしゃばしゃ落ちてきて、そしてピアノのレッスンは明日に変更されたのを思い出して、拓人は憂鬱な気分を抑えられなかった。早く家に帰りペットと戯れたりして穏やかな気分を取り戻したいが、雨は止む気配を見せないし、だからと言ってこんな雨の中帰るのは億劫だ。帰れる気がしない。このままでは課題を終わらせて歩いてきた霧野と会ってしまいそうだ。そのくらいの、重苦しい雨だった。
はあ、と溜息を吐くと、何か水っぽい音がした。踏まれた泥の音。振り向けば、雨の中でも目立つ紫色の改造された制服。拓人の知り合いに、こんな服を着るのはひとりしか居なかった。拓人は微笑んで、剣城、と名前を呼んだ。

剣城も自分とだいたい同じ理由でここに来たらしい。ただひとつ違う点は、拓人よりだいぶびしょ濡れになっていたこと。傘を忘れてしまったとちいさく呟いた剣城は、すこし、普段より幼く見えた。
タオルを貸せば、大雑把に髪を拭き服を拭き、剣城はすぐに拓人に返した。拓人はそれを受け取ると剣城の頭へ手を伸ばし、丁寧に拭き始める。人のタオルということで変な遠慮をした剣城が可愛らしくて、拓人は緩む口元を見せないように、身じろぐ剣城の体を固定して普段使用人にされるように剣城を拭いていく。タオルはだいぶ湿ってしまって、けれどすこし嬉しい。兄弟もいない拓人は、こういうことをするのが新鮮だった。
ありがとうございます、と、この距離でなければ雨音にかき消されそうなちいさな声に微笑むと、拓人は横を向いていた体を正面を向くように直した。地面を見れば大きな水たまりがひとつふたつ。雨の勢いはすこしだけ弱まっていた。


雨が降ると、海の中でゆるく溺れているような感覚に陥る。だれにも言ったことはなかったけれど、この季節、湿った空気と土砂降りの雨に包まれると拓人はひどく息苦しくなった。友人に雨がきらいだと言うと大抵は自分もだと賛同してくれるが、たぶん自分と同じ理由ではないだろうと分かっていたので、拓人は曖昧に笑うだけだった。

今日も雨だった。ついでに言うと、昨日もその前もそうだった。帰り道、傘を差しても横から自分を襲う雨が濡らすので意味が無い。びしょ濡れの黒い傘を閉じれば、髪の毛に降りかかる雨粒。またメイドたちに叱られてしまうと思った拓人は、雨宿りできるところを探そうと周りを見回した。公園がある。休憩所のようなこじんまりとしたところに急いで入った。鞄からタオルを取り出して髪を拭く。ああ、雨はすきじゃない。
いつも一緒に帰っている霧野が出していない課題があったので居残りとなり、じゃあ霧野を待とうとしたところでピアノのレッスン日だったこと を思い出して、ひとりで帰る羽目になった。学校を出た時はまだ雨は降ってなかったのに、途中からバケツをひっくり返したような雨が傘にばしゃばしゃ落ちてきて、そしてピアノのレッスンは明日に変更されたのを思い出して、拓人は憂鬱な気分を抑えられなかった。早く家に帰りペットと戯れたりして穏やかな気分を取り戻したいが、雨は止む気配を見せないし、だからと言ってこんな雨の中帰るのは億劫だ。帰れる気がしない。このままでは課題を終わらせて歩いてきた霧野と会ってしまいそうだ。そのくらいの、重苦しい雨だった。
はあ、と溜息を吐くと、何か水っぽい音がした。踏まれた泥の音。振り向けば、雨の中でも目立つ紫色の改造された制服。拓人の知り合いに、こんな服を着るのはひとりしか居なかった。拓人は微笑んで、剣城、と名前を呼んだ。

剣城も自分とだいたい同じ理由でここに来たらしい。ただひとつ違う点は、拓人よりだいぶびしょ濡れになっていたこと。傘を忘れてしまったとちいさく呟いた剣城は、すこし、普段より幼く見えた。
タオルを貸せば、大雑把に髪を拭き服を拭き、剣城はすぐに拓人に返した。拓人はそれを受け取ると剣城の頭へ手を伸ばし、丁寧に拭き始める。人のタオルということで変な遠慮をした剣城が可愛らしくて、拓人は緩む口元を見せないように、身じろぐ剣城の体を固定して普段使用人にされるように剣城を拭いていく。タオルはだいぶ湿ってしまって、けれどすこし嬉しい。兄弟もいない拓人は、こういうことをするのが新鮮だった。
ありがとうございます、と、この距離でなければ雨音にかき消されそうなちいさな声に微笑むと、拓人は横を向いていた体を正面を向くように直した。地面を見れば大きな水たまりがひとつふたつ。雨の勢いはすこしだけ弱まっていた。

雨の音だけが響き渡る。ふたりとも自ら相手に話しかけるような積極的なタイプではなかったので、先程から沈黙だけがふたりを包んでいた。拓人の頭の中には、雨がひどいな、早く止んで欲しい、蒸し暑くていやになるな。色々な言葉が出てくるけれど、どれも会話に発展しそうもない。こういう時天馬が羨ましいと思う、天馬と話している時の剣城は楽しそうに見えるのだ。霧野に言ったらあまり賛同してはくれなかったのだけど。
拓人が剣城をちらりと横目に見ると、目の前に降る雨を見つめていた。整った横顔は大人びていたが、一方で泣きそうな子供のようにも見えた。拓人の手が無意識に動き、気付けば剣城の頭に触れていた。

「……え、」

目を見開き弾かれたようにこちらを見た剣城に、拓人は己の手を見て、あ、と声を漏らした。途端に顔が赤く染まる。慌てて手を引っ込めて今のは違うんだと必死に弁解してみるが、剣城は黙って俯いたままで反応が無い。

「剣城…?」

ちいさく名前を呼べば、ゆっくり剣城が顔を上げる。いつもの鋭さはどこにも無く、年相応の少年がそこにいた。

「雨が降ると、息が出来なくなるんです」

溺れたみたいに、息の仕方を忘れてしまって、ひどく苦しくなって。雨音をかいくぐって拓人はいつもより弱々しい剣城の声を聞いていた。暑くなったのかいつもの学ランを脱いで赤いシャツを露わにした剣城の体は細く、拓人は泣きそうになった。
俺もそうなんだ。するりと喉から滑り落ち唇から零れた言葉に、剣城は驚いたように拓人を見る。拓人は優しく微笑んで、だから雨はきらいだと続けた。拓人の胸にあったもやもやしたものがすとんと落ちていく。雨に溺れていたら手が伸びてきて上に引き上げてくれたような、掬われて、救われたような感覚。
雨の日は世界から自分から追い出された暗い孤独が拓人を襲って、拓人は潰されそうに苦しかった。剣城がそうなのかは、拓人には分からない。自分は聞いて欲しくないから、自分も剣城には聞かないけれど。でも同じように溺れていた剣城を、すくい上げたいと思った。
泣きそうで、でも泣けない剣城の頭を拓人は優しく撫でた。病院ですこしだけ話したことのある彼の兄のように出来ていたらいいと願いながら。

「雨、止んできたな」

勢いの無くなってきた雨を見て、拓人は言った。剣城が静かに頷く。この調子だともう少しで帰ることが出来そうだ。いつも感じていた息苦しさは消えていて、晴れた空のようなすっきりとした気持ちが拓人の胸に溢れる。

「剣城は、虹を見たことはあるか?」
「…写真は見たことありますけど、実物は無いです」

とても綺麗なんだ、写真もそうだけれど本物はそれよりずっと。見せたいな、剣城に。拓人が笑えば剣城は少し恥ずかしそうに、けれど嬉しげに、虹が出るといいですね、とこたえた。



誰にも会えない雨の日は、ちょっと悲しくなるね